平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年11月7日 キリストと共に死に、共に生きる

2011-03-06 16:29:15 | 2010年
ローマの信徒への手紙6章1~14節
  キリストと共に死に、共に生きる

 私たちの教派は、バプテストと言います。これは、バプテスマ(洗礼)という言葉から来ています。そして、私たちバプテストのその洗礼形式は、浸礼というもので、さきほどM姉がされたように、全身を水につけるものです。この形が、もっともバプテスマ(洗礼)の意味を深く、そして、わかりやすく表現しているからです。まさにその意味は、先ほど読んでいただいた聖書の箇所に書いてあるとおりです。
 しかし、この全身をつけるという形のバプテスマは、聖書を読みますと、もとになった人は、イエス様が、公的な活動を始める前に登場したあのバプテスマのヨハネだったのではないか、と思われます。マルコによる福音書の1章の4節、5節に「洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。このバプテスマのヨハネは、イエス様の先駆け者として、神様から遣わされたとあります。
 ただ、このバプテスマのヨハネが行っていた洗礼と現在私たちが行っているバプテスマがまったく同じかというとそうではないことがわかります。ヨハネの段階では、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼という意味だけですが、私たちが今行っているバプテスマは、パウロが述べているようなキリストの死と復活にあずかるという意味合までをも含めているからです。
 それに、パウロのときには、すでにバプテスマが教会への入会儀式としての意味も含んでいました。バプテスマのヨハネの場合は、まだ、教会ができていないわけですから、そうした意味合いはなかったでしょう。
 いずれにしても、私たちバプテストは、この全身を水につけるという形のバプテスマを重んじてまいりました。洗礼の形は、他にもありまして、水滴をつける滴礼、水をそそぐ潅水礼などあります。無教会の方々は、制度的な教会、組織に対しては否定的でありますから、入会儀式としての洗礼自体もありません。
 私たちは、バプテスマの、教会という組織への入会儀式という側面よりも、そのものがもっている本質的な意味をもっと大事にしています。罪の赦しを得る悔い改めのバプテスマという点、それから、それが、イエス・キリストと共なる死と復活を意味しているという点です。まさにパウロが、ここで述べているバプテスマの意味を大事にしている教派の一つだと言えるのです。バプテスト派ですから、バプテスマにあずかるというのは、本人にとってまず大きな喜びであることはもちろんですが、教会にとっては、ご本人と同じくらいにうれしい、ある意味では、教会に与えられた最高の喜びごととして捉えているというのは、言うまでもありません。
 ただし、このバプテスマは、信仰告白をした方にだけに行われるものです。信仰告白をしないでバプテスマを受けることはできません。自覚的、主体的に信仰を告白した者にだけ、バプテスマはなされます。パウロは、ローマの信徒への手紙10章の9節、10節で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語りました。ですから、信仰告白こそ最も大事なものなのです。
 そういうわけで、私たちの教派は、本人の信仰告白を必要としない、いわば親の意志でなされる嬰児洗礼、幼児洗礼を認めることはありません。ただし、病気や障害を持っている方で、口で信仰を言い表すことのできない方々もおられますから、そうした方々にはいろいろな形で、意志表示をしてもらったり、ご本人の意志を確認させてもらったりと、当然のことではありますが、かなりの配慮をしています。
 さて、今日の聖書の箇所の内容に入ります。
 まず、パウロは、人が義とされるのは、行いによるのではなく、罪人のために十字架におかかりになったイエス様を信じる信仰によると語りました。その信仰によって、救いにあずかることができると語りました。それなら、恵みを多くいただくために、むしろ、罪を重ねていった方がいいのではないか、いつまでも、罪の中にいた方がいいいのではないかと言って、パウロが語っていたことを悪意にとる者や、本気でそのように考える者もいたようです。
 それに対して、パウロは、「決してそうではない」と言っています。「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」。罪に対して私たちは、既に死んだのです、死んだ人間がどうして、もう一度罪を犯すことができるでしょうか、とパウロは言います。そして、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」と言っています。そして、「死んだ者は、罪から解放されています」とも語ります。  
 水の中に沈められるという行為は、キリストと共に死ぬということを表しています。このとき、それまでの古い自分の罪ある身に完全に死ななければなりません。キリストと共に死んだ、そして、葬られたと認識しなければならないのでしょう。私は、今日、バプテスマを受けるMさんに、水の中に沈められたとき、「ああ、自分は死んだんだ」、と思ってくださるように伝えました。私たちの古い体は、キリストと共に十字架につけられ、罪に支配されていた体は、今日、滅ぼされてしまったと思って欲しいのです。
 これまでの罪ある自分は、キリストと共に死んだ、そして、葬られたという自覚を、バプテスマを受けた私たちは、強く持たなければならないのではないか、と今回この箇所を読みながら改めて思わされています。バプテスマを受けた私たちは、過去の自分に生きる必要はまったくない、そういうことであります。
 そして、今、生きているのは、新しい命をいただいた自分であるという自覚です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。水の中から起された私たちは、新しい命をいただいた者たちです。
 「もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。私たちは、キリストと一体となって、その死の姿にあやかることをいたしました。ですから、キリストの復活の姿にもあやかっているのです。
 ヨハネによる福音書の3章にニコデモという人のお話がでてきます。彼は、ファリサイ派というユダヤ人のグループに属し、律法をとても大事に、一生懸命にその律法を守って生きている人でした。彼は、イエス様がなさるしるしの数々を見て、この人は、神のもとから来られた方で、神様がイエス様と共におられるという確信を持ちました。そして、自分も同じように、神様が共におら
れて、多くのしるしを行えないだろうか、そして、神の国に入りたいものだと思ったようです。
 イエス様は、ニコデモに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。ニコデモは、その意味を文字通り解釈し、もう一度母親の胎内に入って生まれることがどうしてできるだろうか、と考えました。
 イエス様は、神様の前に正しい自分を見てもらおうと、一生懸命に律法に生きているけれども、それじゃだめだ、その今のあなたに死ななければだめだ、生き方の方向を変えなきゃ、今まで、あなたは自分で自分を何とかしようと、一生懸命に生きてきた、それはそれで、まじめだけれども、そうしたあなたに死ななければならない、そして、新たに生まれなければ。イエス様は、このときニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
 この水というのは、それによって死ぬ、葬られるということです。ある意味では、これはバプテスマ、洗礼を意味していると思われます。ほんとうに、今の自分に死ぬということがなければ、だめなのだ、ということではないでしょうか。そうして、はじめて、キリストと共に新たしい命に生きることができるのです。それから、パウロは、コリントの信徒への手紙一の12章の3節の後半で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と言っています。誰でも水と聖霊のお力によらなければ、神の国に入ることはできません。
 ところで、6章の3節「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちは皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」という言葉があります。この中の「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」という言葉ですが、ここを青野先生は、岩波訳で、「キリスト・イエスへと洗礼を受けた」と訳しておられます。口語訳では、「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた」と訳しており、ちなみに、文語訳の聖書は「キリスト・イエスに合う(合致するの「合う」です)バプテスマを受けた」となっています。新改訳では「キリスト・イエスにつくバプテスマ」です。
 そこで、イメージとしては、イエス様の方へ向う、というような、もう一つは、イエス様と重なるというような、そのような事柄なのだろうと思います。ですから、バプテスマは、イエス様の方へ向うためのものであり、イエス様と重なるためのものである、というようなことになるのでしょうか。
 それから先ほど申しましたように、バプテスマは、入会儀式としての面も、もちろんあります。そのことを考えるとすれば、それによって、イエス・キリストの体なる教会の一部になる、肢体の一部になる、イエス様の体の一部に組み入れられる、そういうことになるのでしょう。或いは、神の家族の一員になる、ということです。教会は、キリストの体だと言われます。この体につながることになるわけです。ですから、バプテスマは受けたけれども、神の家族の一員にはなりたいくないとうことは言えません。キリストの体にはなりたくないということになるからです。
 先週と今日、私たちは、バプテスマというイエス・キリストの教会の最高の喜びごとにあずかっています。
 イエス様のいわゆる大宣教命令を私は、バプテスマのたびに読んでいます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
 私たちは、救われた喜びにより、イエス様を他の方々にも宣べ伝えていきます。しかし、このイエス様の大宣教命令もまた、私たちを突き動かしているのです。キリストと共に死に、キリストと共に復活させられて、そして、今、イエス様はそのわたしたちと共にいてくださる、それも、世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださる、そのようにおっしゃってくださっています。
 ヨハネよる福音書の14章19節20節「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。
 これは、これから十字架にかかろうとしているイエス様のいわゆる告別説教です。復活のときのことを語っておられます。イエス様が共におられるということがよく伝わってきます。こちらが多少、イエス様から離れて、迷うようなことがあっても、イエス様は、変わらず私たちと一緒に歩んでくださいます。
 今日、このイエス様の招きにお応えくださいますよう、聖霊のお力が豊かに降り注がれますよう、お祈りさせていただきます。そして、私たちは、この共におられるイエス様を今週も宣べ伝えてまいりましょう。


平良師

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