平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年10月31日 心に注がれる神の愛

2011-03-04 23:18:25 | 2010年
ローマ5章1~11節
    心に注がれる神の愛

 私たちは、神様が、いかに私たちがダメな者であったとしても、神様に背き大きな罪を犯してしまった者であったとしても、また、従おうとしながらも、弱さゆえに、そうできず、かえって、神様の喜ばれないことをしている者であったとしても、このような私たちを赦してくださるお方だと知っています。だからこそ、安心して、自分の罪を告白して、悔い改めることができるのだと言えます。
 あの放蕩息子が、自分の欲望を満たそうとして、父親の財産をもらい受け、放蕩の限りを尽くし、落ちる所まで落ちてしまったときに、捨てたも同然、裏切ったも同然の父親のところへ再び帰ろうと思ったのは、あの父親ならば、きっと赦してくれるだろうという思いがあったからではないでしょうか。あの父親は、冷酷で、ひどい仕打ちをするにきまっていると思っていたならば、彼が帰ろうとしたはずはないのです。それよりも、この放蕩息子は、自分が落ちるところまで落ちてはじめて、父親から愛されていたこと、恵みにあふれていた我が家での生活のことを想い起したのでした。
 神様が最初に創造された人間、アダムは、そしてそのパートナーとして与えられたエバは、神様の言いつけに背きました。ヘビの誘惑に撃ち勝つことができないで、食べてはならないといわれていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバは、神様がエデンの園にやってきたときに、神様を恐れ、隠れてしまいました。
 彼らの神様への信頼も、すでにヘビの誘惑にのったときに失われていたといってもいいでしょう。「ヘビは女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ』」。
 ヘビの言ったことは、神様はウソをついている、それどころか、神様のように善悪を知るものとなることを神様はご存知で、そのようにお前たちがなることは神様にとって都合が悪いことなのじゃないのかな、ということでした。誘惑というのは、神様から私たちを引き離す抗しがたい大きな力を指していると言えるでしょう。神様から遠く離れることで、私たちは破滅へと陥っていくのです。
 私たちにとっての死、滅びは、神様から引き離される、神様との関係を断たれることにあります。サタンの誘惑とはまさにそのように、私たちを神様から引き離して、遠くに追いやっていくのです。あの放蕩息子が、遠い国に旅立ったという表現のとおりです。そして、いわゆるサタンの誘惑に見舞われるときは、そう簡単にその力を払いのけることはできません。アダムとエバは、ヘビの巧妙な誘惑に打ち勝つことはできませんでした。
 そして、神様を信頼するのを放棄したのです。神様に背いた結果として、彼らの場合は、神様から、どのようなひどい仕打ちをされるかもしれないと、恐れていたのです。そして、案の定、彼らは、神様に対して悔い改めの言葉を述べることはありませんでした。彼らは、始終、自己弁護に走りました。
 アダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。あの女は、神様あなたが、私に与えた女ではありませんか、あの女が私に食べてはならない実を与えたのですよ、悪いのは、あの女で、その女は、あなたが与えられた女なのですから、悪いのは、むしろ神様じゃありませんか、そういうことでした。
 エバはエバで、「ヘビがだましたので、食べてしまいました」。悪いのは、私をだましたヘビです。そう言ったのでした。彼らは、自分の罪を認め、悔い改めるということはありませんでした。彼らは、神様は赦される愛の神様であることを知らなかったのです。神様に背いた彼らには、神様は裁きの恐ろしい神様としてしか映らなかったのです。到底、赦されるはずがないと思っていたのです。
 私たちは、神様に今、心からの悔い改めを、安心してすることができます。それは、神様が愛のお方だと知っているからです。その愛のお方であるということが、どういう形で私たちに知らされているかというと、イエス・キリストの死をとおしてです。
 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった」と6節にはあります。弱いために善を行う力を持たず、さらにまた、神様を信じることもしない者のために、イエス様は、死んでくださいました。神様の前に自分の義を差し出そうとして、一生懸命に律法を守ろうとして生きているユダヤ人のために死のうなんて人はいないでしょうが、優しくて人に親切ないわゆる善人のために、命を惜しまない者ならいるかもしれません。
 しかし、罪人のために、死のうなどという人がいるでしょうか。それが、まさに、その罪人のために、イエス様は死なれたのでした。そもそも神様の目からするなら、正しい者も善なる者も義なる者も誰もいないのです。すべての人間が罪人です。その罪人のために、イエス様は、死なれたのでした。
 それから、このようにも書かれています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。まだ、罪人だったとき、つまり、悔い改めることもしない、平気で神様に背いて、神様の悲しまれる生き方をしていたときに、イエス様は、わたしたちのために死んでくださいました。そして、そのことは、父なる神様が、どんなにか私たちを愛しておられるか、そのことを証しする出来事でありました。ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるとおりです。
 それからこうもまた述べられています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。わたしたちが、神様に背を向け、明らかに敵対して生きていたときに、神様は、独り子をこの世に賜って、和解のできごとを一方的に成し遂げてくださいました。
 第一コリントの信徒への手紙5章の18節からのところにも「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」とあります。
 人々の罪の責任を問うことなく、このように、まだ、弱く不信心な者であったとき、罪人であったとき、敵であったときに、そのような私たちのためにイエス・キリストは死んでくださいました。
 パウロは、2節で、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と言っています。「神の栄光にあずかる希望」というのは、終末(この世の終わり)のときの救いを述べているでしょう。誇りに思うというのは、喜んでいるという意味にも解釈できるそうです。終末のときに与えられる救いの出来事を喜んでいます、ということです。
 しかし、そのあとに、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」、苦難をも喜んでいます、ということです。それはなぜかというと、苦難は忍耐を生み、忍耐は練達(熟練してその奥義に達していること)を生み、練達は、希望を生むからだと言います。苦難もまた、いずれは、救いという希望に向わしめるのです。パウロは、人生において幾度も幾度も苦難にあいました。しかし、彼は、救いの希望、確信を持っていましたから、その苦難でさえ、喜ぶことができました。
 救いの希望というのは、私たちを失望せることはありません。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれるからです」。まだ、弱く、不信心であり、罪人であり、敵であったとき、イエス様は、その私たちのために死なれました。独り子を私たちのために惜しまず与えられた父なる神様のこの愛を知るとき、聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれます。それも、尽きることのない泉のようにして、次から次へと注がれていきます。
 私たちは、こちらに何の功もないままに、それどころか、私たちがまだ不信心な者であったとき、罪人であったとき、敵であったとき、一方的に、神様が、私たちの赦しのために、私たちとの和解のために、イエス様という独り子を賜ったことを知っています。それゆえに、この神様の愛がわたしたちの心に注がれていることを知っています。
 しかし、知っているというだけでは、その愛はほんとうには、わたしたちには注がれないのではないでしょうか。その愛を心から受け入れることが大事です。そして、心から受け入れるというとき、そこには聖霊の働きが臨んでいると考えないわけにはまいりません。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と書かれているとおりです。
 聖霊によって注がれる、これはあふれでる泉水が注がれるというイメージもあるでしょう。その泉水の水は、どのような器にも注がれます。土の器にも注がれます。木のコップにも注がれることでしょう。金属でできたコップにも注がれることでしょう。そして、それは、欠けた陶器の器にも注がれます。ひびの入ったようなガラスのコップにも注がれるのです。どんどんどんどん、どの器の水も、あふれてこぼれ出るほどに注がれます。そのように、神様の愛は私たちの心に注がれているのです。
 問題は、私たちの持てる器を、わたしたちのそのままの心を神様の前に差し出すことではないでしょうか。この器に、泉水の水を注いでください、とお願いすることではないでしょうか。
 イエス・キリストがわたしのために死んでくださった、そのことを知るだけでは、泉水の水は、私たちのものとなりません。その水を注いでください、とこちらの器を神様の前に差し出すことが大事です。今、持てる器です。誰かの立派な器を借りてくる必要はありません。むしろ、それはしない方がいいのです。今の、あなたのもっているその器を神様の前に差し出すことが大事です。
 そうすれば、尽きない泉水の水は、わたしたちの心の中に、いくらでも注がれてくるのです。神の愛がわたしたちの心に注がれている、これは、頭だけで理解すべきものではなく、体でも感じるべきことだろうと思います。ここに集われているすべての方々がそのようにしていただけますように、お祈りさせていただきたいと思います。

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