平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年12月12日 主のために生きる

2011-03-19 23:18:42 | 2010年
ローマ書14章1~12節
   主のために生きる

 人のものの見方、考え方は、人それぞれに違います。個人の生育歴にもよりますし、地域性や民族性、国民性なども影響していることでしょう。その時代その時代の文化事情もあります。学問や知識が与えている影響もあります。家庭、職場、学校といった生活の場も無視できません。ありとあらゆることが微妙に折り重なって、その人のものの見方、考え方を作っています。イエス・キリストの教会は、そのような人々が、キリストによって呼び集められてできている群れ、集団です。
 もともとは、ばらばらであった人々が、キリストにあって一つにさせられている集団です。ですから、好みなどといったことで言えば、今でも十人十色ということになります。ただ、イエス・キリストによって、救いにあずかり、このお方に従って行こう、このお方のために生きようと決心した点で、一つなのです。私たちは、互いにはそのような主によって、赦され、一つにさせられていると考えますので、互いの存在を自分の存在と同じように、大切にしていきたいと思っています。
 さて、そうやって一つの群れとさせられている私たちなのですが、もともとは違う者たちの集まりですから、例えば、来年度建てることになるであろう大名の建物一つとっても、いろいろな考えが出てくることは間違いありません。駐車場をどうするか、どれくらいの人数の人々が入る礼拝堂にするか、建物の外観は、色合いは、このような活動をするので、このようなスペースが必要になるとか、建物が具体的になっていけばいくほどに、一人ひとりのイメージは広がり、収拾がつかなくなることでしょう。
 しかも、6月着工ということであれば、設計図を完成させるまでに、最初の図面を見てから、わずか3ケ月足らずという短い時間しかありませんので、なおさらです。私たちは、非常に大きなチャレンジをいただいているということです。イエス・キリストにあって、一つとしての群れであるのかどうか、その真価が問われるのです。
 教会建築は、教会にとっては、大きな希望に満ちたプロジェクトであると同時に、いろいろな危険な誘惑にさらされるときでもあります。この時期に、多くの教会は、意見の対立が生じ、力をすり減らし、弱体化を招いてしまいます。教会の内部にあちこちとほころびが生じるのもこの時期です。しかし、私たちは、この時期を力をすり減らすといった時間の余裕もないほどの短さで、乗り越えていかなければならないのです。
 今日読んでいただいたローマの信徒へ手紙の14章1節からのパウロの教えは、まさに、そのような、希望に満ちてはいるけれど、ある意味ではチャンレジに富み、ハラハラどきどきといった状況を迎えようとしている私たちにとって、とても重要な示唆を与えてくれると思います。一致して事に向っていくことが、かつてないほどに最高に求められるときがやってくるのです。
 ローマの教会には、食べ物を巡って二通りの人々の存在がありました。一つは、何を食べてもよいと考えている人々です。別の立場の人々は、野菜しか食べないという人々でした。偶像に供えられた肉を食べてよいかどうか、ということで、パウロは、コリントの信徒への手紙の8章1節からのところでも同じような見解を示しています。パウロは、偶像に供えられた肉を食べてもよいと考えていた人でした。
 その理由は、もともと偶像の神々などというものはいないのだから、存在しないものに捧げられたものなのだから別に構わないといった考えでした。しかし、パウロは、自分が肉を食べることで、そうした自分が信仰の弱い人をつまずかせるようなことになるのであれば、自分は肉は食べないと言いました。そういうことで言えば、当然、パウロは、このローマの信徒へ手紙のなかでも、何でも食べてよいと考えている立場の人になります。
 そして、何でも食べてよい考える人は、どちらかというと信仰の強い人とパウロの中では、理解されておりました。それに対して、野菜しか食べないというのは、信仰の弱い人です。そして、ローマの信徒へ手紙の中では、「(何でも)食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、(何でも)食べる人を裁いてなりません」と言っています。
 何でも食べる人は、そのようなことに未だにこだわっているのかと、野菜だけを食べている人を軽蔑していたことでしょうし、野菜だけしか食べない人は、肉であれば、偶像に供えられたかもしれないものを、食べている、あれでは、真の神様を裏切ることになり、けしからん人々だと、何でも食べる人々を裁くことになっていたのでしょう。
 また、「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべては同じように考える人もいます」とありますが、これは、どういうことだったかと言いますと、例えば、ガラテヤの信徒への手紙の4章9節、10節の「しかし、今は、神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのです。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」。
 それまでの異邦人たちの習慣や風習の中にあった、お祭りや迷信の類のことでしょうか。日本でも、この日は、日がいいとか悪いと言ったりします。パウロの時代もまた、キリスト者になったあとも、そのようなことに囚われていた人々が、いたのでしょう。一方、習慣、風習、迷信にとらわれず、どの日も同じと考えていたキリスト者たちもいました。
 パウロは、ここで、食べる者が悪い、特定の日を重んじる者が悪い、などとは言っておりません。この場合、どちらか一方の立場を他方よりも優れているとは述べていません。両方の立場がある、そのことを認めているのです。大切なことは、食べるにしても、食べないにしても、神様のためにそうするのです。
 そして、両者とも神様に感謝します。特定の日を重んじるにしても、しないにしても神様のためにそうするのです。そして、両者とも神様に感謝します。それならば、どちらの立場でもよいと言っております。私たちは、生きるにしても、死ぬにしても、神様のためにそうするのです。つまり、すべてのことは、神様のためにそうします。こうした姿勢が、キリスト者のあるべき姿なのです。
 ですから、私たちが、キリスト者として、あるいは教会として、何かを決める場合は、それが神様、キリストのために行っていることなのか、どうなのか、そこらを吟味しなければなりません。また、兄弟姉妹たちを互いに裁き合うことをしてはならないといいます。それは、すべての者は、神様の裁きの前に立たされるのであって、裁かれるのは、神様お1人だからです。私たちは、神様の前にあって、横一列です。
 ところで、どういうことが神様のためということになるのか、そのことを考えてみます。一つは、イエス・キリストにある福音を伝えることです。このイエス様は、私たちに何をなしてくださったのか、何ゆえ、イエス様を私たちはキリスト(救い主)と呼んでいるのか、そのことを伝えることです。
 イエス様の十字架を語ることで、神様がいかに私たちを愛しておられるかを伝えることです。それと、神様に赦され、神様に従う者として、神様を証しすることです。イエス・キリストを証しすることです。証しの生活をたてることです。なかでも、礼拝を忠実にまもり、どなたが私の主かを証しすることは第一の事柄でしょう。そういうことが、主(神様)のために生きるということです。
 先週、私たちは大名の建物にパイプオルガンを設置することを決めました。いろいろなことが話し合われましたが、そのことが神様の御心であることを私たちは願っています。おそらく、先週の臨時総会前に、必死になって祈られた方もおられたでしょう。
 パイプオルガンを設置することで、伝道の広がりがぐんと与えられたと考えている方もおられるでしょう。パイプオルガンによって、どのようなプログラムが可能になるか、あれこれと考えておられる方もいるでしょう。このことも、一致の一歩となります。私たちは、少しずつですが、すでに、いくつかのことを決めております。二つの場所をもって、一つの教会を形作っていくとか、です。この大名伝道の道のりが100歩とすれば、すでに10歩ほどは歩み出しているのではないかと思っています。
 思いを一つにして歩んでいかねばなりません。すべてのことは主のためと、その視点を忘れないでおきましょう。
 現在の平尾教会の会堂を建てるときに、図面そのものは、短期間で決することになったかもしれませんが、古い建物の時代に、教会建築の新たなる思いが生まれてから、およそ20年を要しています。おそらく、多くの教会が、教会建築を手がけるときには、それほどの時間を要しているはずなのであります。
 私たちは、昨年、土地の提供の申し出を感謝して受け、来年6月には着工という段取りで、ことを運ぼうとしています。大名のお話があり、建物の完成をみるまでに、およそ3年の月日となります。
 それぞれの思いはあるのですが、それらを暖めている余裕がありません。まさに、この事業は、神様によって与えられたものなのであります。私たちは、これから、互いの考えや好みがこれほどに違うものかと、驚かされるかもしれません。互いに、軽蔑したくなるようなことがらも起こるかもしれません。互いに、がっかりさせられるかもしれないのです。しかし、神様は、どちらかがだめで、どちらかが優れていると、言われるのでしょうか。
 どちらの人間も、いずれ、神様の前に立たされる横並びの存在に過ぎません。意見の対立があった場合、双方が、神様のために、という思いがあるのなら、それはそれで、いいのではないでしょうか。確かに、ことは、多数決で決まっていくことでしょう。それは、私たち人間のすることの限界です。意見の対立が生じた場合は、数の多い方になります。それ以外の方法はありません。もちろん、ある場合は、専門家の意見をうかがうことで、双方が納得するということもあるでしょう。
 いずれにしても、私たちはこれからが、それぞれの違いが露となります。考え方や好みの違いを互いに意識せざるをえなくなります。極端なことを言うようですが、自分を先立てるのか、神様をそうしようとするのか、ある意味では、そのようなことを迫られる場面もでてくるかもしれないのです。きっと、そのときには、双方の立場の者が、どちらも主のためには、どちらがよいか、そう考えて、事柄を判断することでしょう。しかし、ほんとうに伝道ということを考えた場合、より力となりうるか、また、そのことは、神様を証しすることになるか、さらにさらに熱心に考えなければならないのです。
 イエス様が、お生まれになったときに、その知らせを聞いた者たちの中に、二通りの人々がいたことを知らされています。この場合の二通りの立場の者たちとは、キリストに敵対する者と従う者でした。救い主誕生の知らせを喜んだ者たちと、非常に不安になった人々です。
 不安になった者の代表は、ヘロデ王です。しかし、彼は、博士たちには、自分も拝みに行きたいから、場所がわかったら教えて欲しいと言いました。ヘロデは、当時の権力の座にある者でした。その時、王であった彼は、自分の身を安じました。それで、その地方一帯に住む2歳以下の男の子を一人残らず殺させたという、残酷な記事が載っています。彼は本当は、イエス・キリストを殺害しようとしたけれど、イエス様を特定できなかったので、そのような残忍なことをしたのでした。
 彼の気持ちをそのとき覆ったものは、救い主がお生まれなったという喜びよりも、自分の身を脅かす者が現れたという不安でした。ヘロデは、自分を先立てることをやってしまったのでした。私の心の中にも、救い主イエス様を喜ぶ気持ちと、サタンに支配されそうになるときとが、あるというのが、正直なところです。
 しかし、私たちは、キリストに従う者です。その道に導かれ、その道を選び取りました。イエス・キリストの前にあって、私たちは自分を空しくすることをクリスマスの物語から教えられます。家畜小屋で眠る無力なイエス様にひざまずく、羊飼いや3人の博士がそうだったでしょう。特に、博士たちは、自分たちの宝物を捧げて、イエス様を拝しました。私たちもまた、イエス・キリストにひざをかがめる者たちなのです。
 これから大名の建築に取り掛かろうとしている私たちは、大名伝道が、私たちの事柄となるために、私たち一人ひとりもできることを奉仕にしろ、献金にしろ、精一杯したいと思います。思いを合わせるために、どこかでは、大きな妥協もしなければならないでしょう。自分を捨てなければならなくなることもでてくるでしょう。
 意見が対立したときには、それが、神様の御心なのかどうか、そのことを祈り求めつつ、また、それが伝道に大きく寄与するかどうか、神様を証しすることになるかどうか、そこらのことを考えて、ことを決してまいりましょう。その確信があるならば、早々に妥協してはならないでしょう。逆に、キリストのご栄光のために、己を空しくすることも求められるかもしれません。
 私たちは、生きるにしても、死ぬにしても、主のためにしていることをおぼえておこうではありませんか。その思いがあるならば、どちらになろうと、きっと、その後で、その選びは結果的には、神様によきこととして、用いられていくことになるでしょう。
 私たちは、家畜小屋にやってきて、ひざをかがめ、無力なみどり子イエス様を拝した、あの羊飼いや博士たちのような、己を空しくしている者たちであること、キリストに従う者たちであることを喜んでいます。それですから、私たちもまた、あのときの博士たちのように、このみどり子イエス様に、イエス様のために、私たち一人ひとりの持てる宝物をこれから捧げようではありませんか。


平良師

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