平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年11月28日 味方なるお方

2011-03-08 22:29:51 | 2010年
   ローマ8章31~39節
      味方なるお方

 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。誰もできない、そのような強い表現がこの文章ではないでしょうか。神様は最強のお方ですから、そのお方が、私たちの味方となってくださるのであれば、誰かが、私たちに争いを挑んできたとしても、私たちに勝つはずはないのです。詩編の118編6節にも同じような言葉があります。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」。私たちは、この思いを抱くことができたときには、心の平安をうることができます。神様は私の味方であられる。それもいつかなるときにも、そうなのだ、それは、神様がそうお決めになられたがゆえにそうなのだ、ということです。
 ところで、世の多くの偶像の神々について、私たちは、私たちが、神々の味方になろうとする、それに応えるかのようにして、神々は、私たちの味方になってくれる、そのように考えているのではないでしょうか。そして、その神々に逆らう者を神々は容赦しない、そう考えているのです。世の多くの人々にとって、神々の味方になろうとする行為によって、神々は自分の味方になってくれて、それで、いろいろなご利益にもあずからせてくれるのだと考えていることでしょう。それが偶像に対する一般的な捉えかたです。
 しかし、キリスト教の神様は、そうではありません。明らかにここが違うのです。ローマの信徒への手紙5章8節から10節には、このように書かれています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。私たちが神様に敵対して生きていたときに、神様は、そのような私たちのために、御子を遣わされて、一方的に和解をなさしめてくださったのです。私たちの味方になられたのです。
 パウロも、かつて、真の神様に敵対する者でした。当初、彼は、キリスト者たちを迫害していました。牢獄につないだり、ステパノが石打で殺害されたときにも、彼はその見張りの役割、あるいは、その場をしきっていたとも考えられます。そういった意味では、パウロは、神様に敵対する者だったのです。その彼が、どうして、神様は自分の味方である、と確信をもって、思うことができるようになったのでしょうか。
 そのようなことで言うなら、復活のキリストに出会ってからの彼は、神様が、自分の味方であるといったうれしい事柄にあずかっていたのでしょうか。神様のお力により、幾度も危機的な状況から免れたといったことは記されてはいますが、彼の伝道活動の多くは、厳しいものだったということが、随所に描かれています。否、彼だけではありません。当時のキリスト者たちは、それまでのユダヤ教徒、ローマ帝国、異邦の人々などから、多くの迫害を受けたいたことでしょう。特にユダヤやローマの権力によって、捕えられ、拷問にあう、処刑される、そういう人々もいたはずであります。
 ですから、35節に、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き話すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣(剣によって処刑されること)か」とあるのではないでしょうか。実際に、そのような苦難の中に、彼らはいたのだと思われるのです。それにもかかわらず、パウロは、神様は自分の味方であると理解しています。それは、どのような理由からだったのでしょうか。
 それは、32節にあります。わたしたちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたお方であるということです。ローマの信徒への手紙5章の先ほど読みました、8節から10節のところです。神様は、私たちの味方となるために、ご自身の独り子に、わたしたちの罪を負わせられ、私たちの罪の帰結としての死を代わりにイエス様に負わせられたのでした。
 「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」。「だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう」。ここらの言葉からは、当時のキリスト者たちが、訴えられ、裁判にかけられたりしている様が想像されます。パウロも幾度も捕えられ、裁判にかけられるという体験を致しました。牢獄に入れられたこと、鞭打ちの刑罰に処せられたこともありました。
 結局、パウロが、ローマに行くことになったのも、彼の意志というよりは、ユダヤ人たちによって捕えられたとき、ローマの市民権をもっている者として、ローマにて裁判を受けるためでありました。もちろん、そういう形で、神様は、ローマに赴きたいというパウロの希望を適えられたのでした。
 しかし、この33節34節は、同時に、終末のときの神様の前における裁きの場面がイメージされています。キリスト者たちは、神様に選ばれた者たちであり、キリストの十字架のあがないのわざによって、罪を赦され、その出来事を感謝して受け入れた者たちです。人を最後に、義、正しい、それでよいと言ってくださるのは、神様です。神様は、独り子を十字架におつけになられて、私たちの罪を取り除いてくださいました。それにより、私たちは、義とされました。神様がそのようにしてくださった以上、他のいったい誰が私たちを罪に定めることができるでしょうか。
 この世で言うなら、最高裁の判決は、無罪ということになったわけです。それ以上の、裁判はもう行われないのです。私たちは、無罪放免となりました。しかも、誰かが、私たちの罪をありとあらゆる材料を示して、しつこく訴え続けたとしても、復活のイエス様が、神様の右におられて、わたしたちのために執り成してくださるというのです。
 「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」。誰も私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、剣(捕えられ処刑されること)も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。
 確かに、当時のキリスト者たちは、「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」、そのような詩編44編23節のみ言葉がぴったりくるような状況の中にあり、そのような存在であったのでしょう。犠牲の献げものとして屠られてしまう、弱々しい憐れな小羊のように見られていたことでしょう。それでも、次のような認識の中にありました。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。
 それは、例えば、ヨハネの黙示録7章の13節から17節に描かれているような勝利したキリスト者たちの姿です。「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。そこで、わたしが、わたしの主よ、それはなたの方がご存知です、と答えると、長老は、また、わたしに言った。彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。
 その衣を小羊の血で白くした、それは、この世にあって、キリストの十字架を受け入れ、キリストに最後まで耐え忍び、従った、ある意味では殉教の死を遂げたということまでの内容を含んでいるとも考えられます。いずれにしても、勝利した者たちの姿を描いています。
 そして、最後にこう書かれています。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスよって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。神の愛から引き離すものは、悪いものばかりではありません。よきものと思われているものさえ、神様の愛から私たちを引き離そうとするかもしれないのです。しかし、結局、それとても、神様の愛から私たちを引き離すことはできないのだ、とパウロは確信しています。
 さて、今日の礼拝で、私たちは、3つのことをおぼえているのです。一つは、イエス・キリストのご降誕をおぼえる季節に今日から入ったということです。世界中が一斉に、今日からアドヴェント(待降節)に入りました。イエス様のご降誕を迎える心の準備をする期間に入りました。そして、もう一つは、こども祝福式を守りました。子どもたちを祝福してくださるイエス様を思い、神様の祝福を新たにお祈りました。
 それから、3つ目としては、今日から1週間、来週の日曜まで、おぼえますが、世界バプテスト祈祷週間です。世界伝道へと目を向けました。宣教師の先生やミッションボランティアとして活動されている佐々木さん、そのご家族、また、平和を作り上げるという活動をしているリーチの働き、その他の女性連合の働きをおぼえました。
 これら3つの事柄に共通していることは何でしょうか。神様はわたしたちの味方であるということです。
 イエス様が、お生まれになるとき、ヨセフに与えられた天使のみ告げは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である」でした。イエス様は、最初から、私たちと共におられる方として与えられたお方でした。それは、神は共におられる、ことでもあったのです。イエス様がこの世に遣わされた、そのときから、神様はすでに私たちの味方としてお立ちくださることをお決めになられていた、御心となさっておられました。
 こども祝福式のときにお読みしました先ほどのマルコによる福音書の10章の13節から16節には、弟子たちが、子供を連れてきた人々をしかったのを見て、イエス様は、弟子たちに腹をたて、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたという話しが書かれていました。イエス様は、こどもたちの味方である、無力で弱いので、親にすがって生きていくしかできない、そのような子どものように、神様を信じ、神様によりたのみ、神の国を受け入れる者の味方であるということでしょう。
 復活のイエス様は、マタイによる福音書の28章19節からのところで、私たちを伝道へと派遣されています。「すべての民を」というところから世界伝道へとの使命をおぼえる方もおられます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
 そのように働いていく弟子たちに対して、ここでも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われています。伝道する弟子たちの味方であることがわかります。すべての民をキリストの弟子にするときまで、宣教に遣わされているこの世にある教会とそしてその群れの一人であるキリスト者一人ひとりと共に神様は歩んでいかれるのです。
 この3つに共通していることは、神様が味方であるということなのです。しかし、よくよく考えてみますと福音というのは、神様が味方であるということに尽きるのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架のできごとは、神様が、私たちの味方になられたという話し以外の何ものでもないと思うのです。味方なるお方、イエス・キリスト、神様が、私たちの歩みをこの週、この先ずっと、共におられて導いてくださいます。
 特に今、私たちは、大名での伝道を新たに展開しようとしています。神様が先立ち、すべてのことを私たちに示してくださり、私たちの歩む道を豊かに整えてくださいます。味方なるお方に、そべてをお委ねして、祈り、大胆にことを勧めてまいりましょう。

最新の画像もっと見る