平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2010年12月5日 神の定め、神の道

2011-03-19 23:09:38 | 2010年
ローマ11章11~24節
    神の定め、神の道

 神様の救いの御業がどのような形で、私たちに臨むかは、ひとそれぞれで、その人が救いに導かれた経緯をうかがいますと、それはとても不思議な感じが致します。個々人が、救いに至る道は、なるほどそういうことだったのかと、ちょっとあとになって理解できるときがあります。そのときには、なぜ、そのようなことが次から次へ起こるのだろうか、といった気持ちがするのですが、救われて振り返ってみると、このことのために、あのこと、このことが起こったのだなあと、思わされるのです。
 救いへ至る経緯とは少し違いますが、私たちの人生に対する神様の導きというものもあります。私は、就職のために福岡に出てくることになったので、こうして、牧師の道へと導かれたのだろうなあ、と思っています。鹿児島にいたままでは、このような道が開かれたかどうかはわかりません。鹿児島にいる頃は、福岡に出て来ようなどと、来る寸前まで、思ってもみないことでした。
 そして、今日集われている皆さんの中にも、私が福岡に出てくることがなければ、この平尾教会に来ることはなかったかもしれない、と思われる方々もおられることでしょう。神様は、私という人間を通して、幾人かの方々をこの平尾教会に導かれた可能性もなきにしもあらずです。神様のお力というのは、人を介して実際は働くことが少なからずあります。前の平和一丁目にも書かせていただきましたが、出会いというのは、偶然ではありません。偶然は私たち信仰者にはありません。神様のご計画の中に人と人との出会いもまた用意されているのです。
 さて、ユダヤ人という民族に限られていたかのように思われていた救いの出来事が、どうして、異邦人に、そして全世界にまで及ぶことになったのか、そのことをパウロは、先ほど読んでいただいた箇所で示しています。そして、それは巡り巡ってまた、ユダヤ人全体の救いにも至ることにいずれなるのだと、パウロは述べるのです。
 そうした内容のことが、同じくローマの信徒への手紙11章の25節からのところに書かれています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」。
 パウロは、ユダヤ人が、イエス・キリストにつまずいたのは、異邦人に救いがもたらされるためであったと理解しています。つまずきはユダヤ人たちの失敗であったけれども、異邦人にとっては、それは富となりました。それによって、異邦人が皆救いにあずかるようになれば、それはどんなにかすばらしいことかとパウロは言っています。パウロは、異邦人伝道に使命を感じ、それを自分の務めと考えていました。しかし、それは、異邦人たちの救いだけを願っていたからではなく、何とかして、自分の同胞であるユダヤ人たちに、ねたみを起させ、その幾人かでも救いたいからだと、いった思いでした。
 これについては、申命記32章の21節の「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって、彼らの怒りを燃えたたせる」との御言葉が、想い起されるのですが、異邦人へ救いがもたらされたということを聞いたユダヤ人たちが、自分たちの救いについて考え、奮起して、彼らもまた、イエス・キリストによる救いを受け入れることを願うようになる、ということです。
 それから、16節の麦の初穂、根というのは、ユダヤ人の残りの者、つまり、ユダヤ人の中で、イエス様をキリストとして受け入れた者たちのことですが、彼らの存在があるゆえに、練り粉全体、枝も、それはユダヤ人すべてという意味ですが、それらもまた聖なる者であると、パウロは考えています。ユダヤ人であるパウロは、たとえ福音を異邦人へと宣べ伝えていったといっても、やはり同胞たちの救いの確信もまた得ていたことがわかります。それは、次の接木のたとえからもわかります。
 ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接木され、根から豊かな養分を受けるようになった、という言葉がありますが、それは、ユダヤ人が、救いからもれて、異邦人であるあなた方が、その代わりに、救いの約束のうちに入れられた、けれども、その養分を吸い上げる根は、神様と契約を結んだ最初のユダヤ人たちである、ということです。彼らの救いの継続性のなかに、異邦人たちも組み込まれていくというのです。ですから、折り取られた枝(ユダヤ人)に対して、異邦人が誇ることなどできないと言っています。
 なぜ、このようなことをパウロが言っているかというと、その背後に、異邦人キリスト者たちが、ユダヤ人キリスト者たちに対して、自分たちの優位について、おごり高ぶっているということが、あったようなのです。これについては、時代的な背景もあったと思われます。49年にローマ皇帝クラウディス帝によって、ローマからユダヤ人たちは追放されます。そして、54年ネロ帝は、そのユダヤ人追放令を取り消しました。
 それで、ユダヤ人キリスト者たちが、教会に戻ってきました。その間、勢いを得ていた異邦人キリスト者たちは、帰ってきたユダヤ人キリスト者たちを軽んじるようなことがあったのでしょう。パウロは、折り取られた枝に対して誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのだ、ということを強く訴えて、くれぐれも異邦人たちが、おごり高ぶることのないように、戒めています。
 異邦人たちの中には、「枝が折り取られたのは、わたしたちのためであった」と言っていた者たちがおりました。パウロは、言います。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然の生えた枝を容赦されなかったとすれば、おそらくあなたがたをも容赦しないでしょう」。救いの約束の中にあったユダヤ人たちを神様は容赦しませんでした。
 しかし、異邦人たちも不信仰であれば、ユダヤ人たちのように、容赦されることはないでしょう。倒れたユダヤ人たちには、神様の厳しさが臨んだのです。それに対して異邦人であるあなたがたは、神様の慈しみの中におかれ、そこに留まっています。もし、神様の慈しみをないがしろにし、そこから飛び出て、おごり高ぶるようなことがあれば、あなたがたも切り取られることになります。
 もし、異邦人たちが、不信仰になれば、代わりに、また、今度はユダヤ人たちが、逆に接木されることになるでしょう。そうなれば、むしろ、ユダヤ人たちの方が、もともとの木に接木されるのですから、それはたやすいことになります。パウロは、このように論を展開していきます。
 パウロの中では、「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とありますように、神様のユダヤ人たちへの選び、神様のユダヤ人たちへの賜物と招きは、未だに、継続している、決して、彼らの不信仰ゆえに無効になったのではないということなのです。
 イエス・キリストにつまずいたユダヤ人たち、イエス様を救い主と受け入れられなかった人々によって、救いは異邦人たちへ向かいましたが、それは、すべての異邦人たちが、救われるまでのことであって、その後は、救いは、イスラエルの人々、ユダヤ人まで、及ぶようになるのです。
 パウロは、人々が救われていく歴史をそのように理解致しました。パウロは、述べています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。
 救いというのは、図りがたい形でやってきます。神様のお考えは、広く、深いのです。逆転に逆転を重ねる場合もでてくるでしょう。一旦、救いに与ったけれども、いろいろな事柄が重なって、ちょっと教会から遠のくことになってしまった、それで、何となく救いの確信がもてなくなってしまった、救いからもれたような感じになってしまった、しかし、何かのきっかけで、また、教会に戻って来られるようになった、救いの確信を得るようなった、そのような方もおれるでしょう。神様の定めと道は図りがたいのです。救いを得たからといって、おごり高ぶり他者を見下げたりすることなく、ただ、ただ、神様の慈しみによりすがる、そうした姿勢を神様は、よしとされるのです。
 私たちは、今日、アドヴェント待降節の2週目を迎えています。私たちは、救い主誕生の知らせが、最初にどのような人々にもたらされたかを知っています。あの時代、救いにあずかるのは自分たちであると考えていた人々、律法を一生懸命に研究していた人々、忠実に守っていた人々、祭儀に関わっていた人々などではありませんでした。
 野原で野宿していた羊飼いたちや東方で星の研究をしていた占星術の博士たちでした。おそらく、律法を守ることもせず、羊をつれて、他人の土地に侵入していく彼らは罪人と目されていたでしょうから、救いの対象者ではなかったに違いありません。東方の占星術の博士たちも、異邦人ですから、彼らに救い主誕生の知らせが届くなど、ありえないことだったでしょう。にもかかわらず、彼らに救い主誕生の知らせは届きました。
 いわゆる律法を守ろうとしない、守ることのできない、いわゆる罪人、異邦人たちは、救いからもれてしまった人々ですから、彼らに救い主誕生の知らせがいち早く届いたというのは、当時の人々には、信じがたいことだったはずです。しかし、彼らは、救い主を求めておりました。だからこそ、知らせを聞いた羊飼いたちは、ただちに、示された場所へでかけて行きました。救い主にお会いするためにいったのです。
 占星術の博士たちも、東方の国から、救い主誕生を知らせる星を追いかけて、イエス様のところまで、やってきました。彼らは、救い主を確かに求めていたのでした。異邦人もそうではなかったのでしょうか。救い主がどのようなお方なのかは、よくわからないけれども、私たちも、心の底からその救い主なるお方を求めています。どのような時にも、共にいてくださる、私たちの味方になってくださるお方を求めているのです。
 救い主誕生の知らせが、羊飼いや異邦人にいち早く届いたということから、私たちは、すべての人々を諦めてはならないのです。私たちの先入観で判断してはなりません。いったい誰が、救い主を受け入れるかはわからないのです。私たちの思いとはまったく違う人々が、神様の救いの選びの対象になっている可能性があります。
 否むしろ。すべての人々が救いの対象になっていることを今日の聖書からは教えられます。私たちに、できることは、自分は救いの選びにあずかったのだと、おごり高ぶることなく、その神様の憐れみと慈しみに感謝しつつ、ただ、ひたすらに、その喜びと感謝の思いを他者に運ぶことです。人を選ばず、伝道していくことなのです。
 神様は、すべての人々を救いへと招かれています。神様の中には順番はあるかもしれませんが、いずれ、すべての人を救いへと引き上げてくださるのです。そのことを信じ、私たちに与えられた務めを、このアドヴェントの第2の週も果たしてまいりましょう。


平良師

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