『赤毛のアン』が、どうしても読めない、という人がいます。
登場人物の台詞が長すぎるところ (実際、数ページに渡って話し続けていたりします) 、そして、情景や風景の描写に多くのページを割いていて、なかなか物語が進まず疲れてしまう、と話してくれた人がいました。
そういう面は、確かにあるでしょうね。
そういう人でも、オルコットの『若草物語』は読めるようですね。
『若草物語』は、ほぼ同じ頃の、ふるきよき時代の人々の日常を描いたものですが、とても健全な印象で、描写もさらりとしていて読みやすいです。
それでいながら、深い深い感動を読者に与えるのですから、すごいです。
さて、話しは現代に戻り、先日のことです。
久しぶりに訪ねた図書館で、探していた本を受け取り、さて帰ろうかという時、何やら、わたしを引き留める力を感じました。
それは、奥まったところにある、文庫本の棚でした。
何かしら?と思いながら、その棚を眺めていたら、一冊の本の背表紙が目に留まり、これが発信源である、とわかりました。
ジーン・ポーター著
村岡花子訳
『そばかすの少年』
直ちにそれを手に取り、借りて帰ってきました。
訳者の村岡花子さんが特別に大事にしていた作品なのだそうですが、本当に素晴らしい物語でした。
わたしも、何度も感激の涙を流しながらの読書でした。
心の中から、善なるものが溢れてくる感じがしました。
その印象は『若草物語』に似ていました。
どこまでも健全で、読んだ後に、わたしも善く生きよう、人として正しく美しくありたい、という強い願いで一杯になるのです。
主人公は、片手を失った、孤児の少年。
生まれと育ちの、大きな悲しみを背負っていても、少年は、生まれながらの紳士でした。
少年は、自分を信頼してくれる人たちに真心をこめて接し、誠実に尽くしていきます。
少年に出会い、惹かれ、心から愛するようになった人々は、
少年によって自分たちが、より善く、より美しく高められてきたことに気づいていきます。
少年に、本当に大切なことを教えられ、少年の幸せを祈るような気持ちでの読書。
終盤には、大きな悲しみと、素晴らしい感動が待っていました。
読み終えてから、本を閉じ、胸に抱きしめました。
これからのわたしの道が、はっきりと見えました。
善いほうへ、美しいほうへ。
そして、真心とともに。
少年よ、ありがとう。
*図書館で借りた本にもかかわらず、“わたしの本棚”という括りにしました。
そのうち、本屋さんで見つけてきて、わたしの本棚の一員になることが、明らかなので。