ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

愛しのそろばん*日々のつれづれ*

2015年10月23日 | Weblog

いまだに、そろばんを使って計算しています。


電卓の方が正確なのでしょうけれど、0であろうと9であろうと同じ大きさのボタンを押すものですから、数の感覚がよくわかりせん。

そろばんは、動かす玉の数や位置が数字の大きさに比例するので、わたしの指だけでなく全身が納得する、という感じです。

(どこまでアナログタイプなのでしょうね。)

以前、事務仕事をしていた時、電卓で計算をした後、そろばんで確かめ算をしていたら、職場のみんなに笑われてしまいました。


そうですよね、逆ですものね。

でも、わたしは、電卓の方が自信がなく、そろばんで確かめて初めて納得、だったのです。





こんなわたしですが、珠算検定一級をもっています。

小学六年生の頃だったでしょうか。



わたしの場合、計算が面白いとか、技能を高めるといった目標はなく、ただただ、木でできたそろばん自体が好きでした。

音も、においも、手触りも、みんな好きでした。



そろばんには必須の鉛筆も好きでした。

進級すると、そろばんの先生から鉛筆をいただきました。

珠算連盟オリジナルのメタリックカラーの鉛筆で、たくさん集めるのが嬉しかった。

それで、気がついたら一級まで進んでいたのです。





あの頃から見たら、格段に衰えてしまいましたが、今でもお買い物では頭の中のそろばんで計算しています。

頭の中のそろばんは、荷物にならないばかりか、必要な時にはすぐに出てきてくれるので、とっても便利。





わたしはいま、念願だった「問屋そろばん」を購入しようかと考えています。



「問屋そろばん」は、箱形のそろばんで、玉も箱も大きめ。

桁数は少なく、下の玉が5玉のものも現役として販売されています。

箱形で下から見えないのも、使わない5玉目があることも、商人用ならではですね。



近所のお饅頭やさんも、この「問屋そろばん」を使っています。

長い年月使い込まれたそろばんの玉は鼈甲のように美しい。



お饅頭やさんのおじいさんの、艶々のそろばんと、手慣れた弾き方に、こっそり、憧れています。













『ともだちは海のにおい』*息子の本棚*

2015年10月22日 | Weblog

工藤直子さんの詩が好きで、時々読んでいます。

でも、工藤さんの物語を読んだのは初めてでした。



『ともだちは海のにおい』




有名ですから、名前は知っていたのですが。

先日、息子へと購入し、一緒に読んでみました。





工藤さんは、詩人なのですね。

物語にも、詩のような味わいと余韻があります。

全部通して読んでしまうには勿体ないような風合いの物語なので、毎晩二つくらい、息子と一緒に読むことにしました。




まだ半分くらいのところですが、ぐっとくる言葉や表現がたくさんありました。

例えば。。。


*****************


仲良しのくじらといるかの物語なのですが、ある時、宇宙学好きのくじらに、いるかが尋ねます。

太陽系についてです。


「月はどのくらい遠いのかな」

「太陽は?」

そのたびに、くじらは、いるかを地球に見立てて、このへん、という位置まで泳いでいって見せます。



いるかはまた尋ねました。

「いちばん遠い星は、どこらへん?」


くじらはどんどん遠くへと泳ぎ、ついには見えなくなってしまいました。

いるかは地球ですから、動けません。



くじらが帰ってきたのは、もう日暮れの頃でした。

いるかは、くじらにかけより、言いました。

「うちゅうって、さびしかった。」



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以上はわたしの要約ですが、いるかの言葉はそのままです。



うちゅうって、さびしかった。

なんて、うちゅうの広大さや、底無しの静けさが伝わる言葉でしょう。


一緒に読んでいた息子も、

「うわあ~~~。」

と感嘆していました。






こんな文章に憧れます。

わたし自身も、易しい言葉を使った詩がほとんどですが、

やわらかな、わかりやすい詩が目標です。


格調高い文章に触れてみることも好きですが、それらのものからよい刺激を受けた後にも、わたしから溢れるのは、易しい言葉です。




わたしが心底憧れ、大好きな作家さんは、

金子みすずさん、工藤直子さん。

大橋鎮子さん、清川妙さんです。



わかりやすく、やわらかい、美しい日本語で、ものごとの真実をうたうこと。

朝日がのぼった時のような、目指すものを掲げられる喜びです。



昔書いていた、あの小さな物語を、完成させてみようかな。。。












ドングリ讃歌*日々のつれづれ*

2015年10月15日 | Weblog

森を歩いていました。

所々に雲のある青空の下、木漏れ日がこぼれ落ちる森の小道を。

色とりどりの落葉が舞い降りて、カサリ。

森いっぱいの、秋の香り。





落葉を彩るように、可愛らしいドングリが、ここにも、そこにも。

ポトリ、ポトリ。

音楽のよう。




ちょっと太めのドングリ。

まんまるいドングリ。

細長いドングリ。

ちっちゃなちっちゃなドングリ。






ふと、わたしの足元に、ポトリ。

森が、かみさまが、与えてくれたかのようなタイミング。

嬉しくなって、拾い上げました。




それは、ちょっと小さめの、形のきれいなドングリ。

両手に包んでみました。

片手に握りしめてみました。




なんて嬉しいんでしょう。

なんてワクワクするんでしょう。






以前、知人から尋ねられたことがありました。

「ドングリ拾って、どうするの?」


わたしがあんまりドングリが好きで、たくさん拾ってしまう、という話をした時でした。





わたしは、不意に、言葉が見つかりませんでした。

「ドングリがある、というだけで、嬉しいの。」

そんな風にこたえたでしょうか。







でも、そのこたえが、今日、わかった気がしました。

落ちてくるドングリを拾い上げたその時に、わたしは、何やら原始的な幸せを感じたのです。







古代の人々にとって、ドングリは大切な食料でした。

秋を待って、大喜びで、甕いっぱいに拾い集めたことでしょう。

それは、子どもや女性たちの仕事だったでしょうね。





わたしには、その原始的な衝動や喜びが、残っているように思えたのです。

食料にするわけではないけど、


ああ、ドングリだわ、

こんなに、こんなに・・・。


と、ただただ、拾い上げ、しげしげと見つめることが、嬉しいのです。

幼に子どもたちと同じように。









帰り道、わたしのポケットには、いくつかのドングリが、コロコロ、コロコロ。


しばらく飾り、眺めたら、そっと森へ返しましょう。


ありがとう、と返しましょう。










ボダイジュ*日々のつれづれ*

2015年10月07日 | Weblog

風が好きです。

気持ちよく、風が吹き抜けるところが。


できれば、その風は、森を渡ってきたものであってほしい。

森を渡ってきた風は、深くやわらかな香りがして、潤いに満ちていて、わたしの心を満たしてくれます。





先日、やっと時間ができて、わたしは森に行ってきました。

そこは、小高い丘になっていて、気持ちよく風が吹き抜けます。




ああ、うれしい。

なんて、うれしい。


言葉にならないような言葉を、繰り返していました。






帰り道、何気なく歩いていると、存在感のある一本の木。

親しみを感じ、近づいてみると、根元のところに「ボダイジュ」という小さな標識がありました。




ボダイジュ。

わたしの息子の誕生日の木です。

樹皮はごつごつと節くれ立っていますが、ビロードのように柔らかい。

見上げる葉っぱは黄色く色づき始めていました。




一緒にいた息子が、ボダイジュに、そうっと、触れてみました。

そして、「あっ!」と言いました。




「今、なにか、聴こえたよ。」

と言うのです。




それは、どんな風に?と尋ねると、

「ありがとう、って聴こえた。」

そう答えました。




とっても素敵ね・・・

そう言って、それ以外は何も言わないで、わたしたちはそこを去りました。





息子がボダイジュに会えたのも、触れたのも、今回が初めてでした。

何気ないことのようですが、わたしにとっては、胸がドキドキする、素晴らしい瞬間でした。



息子が体験したことは、不思議な体験や、神秘的な体験、というよりも、

いのちといのちが共鳴しあった、ごく自然な出来事、とわたしは感じます。


人にいのちがあり、想いがあるように、木にもいのちがあり、想いがあるでしょう。

ふと、隣にいる友だちの気持ちが伝わってくることがあるように、優しい気持ちでそばにいたら、木もまた、気持ちを伝えてくれるかもしれません。

ちいさな人たちは、大人たちよりも、遥かに敏感に、抵抗なく、そういうものを感じることができるように思います。



息子はまだまだ9才で、弱さや不得手はたくさんありますが、

その心や精神に、無垢で尊いものを見るたびに、まっすぐに憧れます。






ほんの少しだったけど、とっても豊かな時間でした。



ありがとう、森。

ありがとう、風。

ありがとう、ボダイジュ。








忙しくても、心豊かに*日々のつれづれ*

2015年10月02日 | Weblog

ここのところ、慌ただしく、あまりゆとりがありません。

でも、どんなに忙しくても、本を数ページ読む時間を作ることはできます。



よい本は、心や魂の糧になります。

身体に、よい食べ物 (心をこめて作られたお米や野菜、お味噌など) が必要なように、

心には、よい本、よい言葉が必要です。


本の世界や、そこで出会った言葉は伏線となって、伴走者のようにわたしたちに寄り添います。

そして、ある瞬間、思いがけないタイミングで、その言葉が、わたしたちを助けたり気づかせたり、目を開かせたりしてくれます。

わたしたちの人生に、本の世界が急に交わり、飛び込んでくる感じです。

本の世界は、本の数だけありますから、その数が多ければ、それだけ人生が面白くなります。






ほんの数ページでいい。

ほんの少しの時間、素晴らしい文章に触れることができると、それは豊かな時間になり、その日が豊かな一日になる、

そんな気がするから、わたしは毎晩必ず、本を開きます。





いま、わたしを魅了しているのは、白洲正子さんの文章です。

どの本も、面白く、興味深い。

この方の文章は、伸びやかでいて切れもよく、味わい深い。

ごく上等のコーヒーのように、ひとつひとつの文章が、わたしを贅沢な気持ちにしてくれます。





昨日は1ページにも満たない読書でしたが、

繰り返し辿りたくなるような名文、名描写に出会えたから、満足です。

そして、その文章が、わたしの人生にどのように交差してくるか、楽しみです。






今夜も読めるかな。



読めたらいいな。

嬉しいだろうな。