ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

冬ごもり*日々のつれづれ*

2017年01月31日 | Weblog

息子に言われました。

“ママは、冬眠する、と言うけど、正確には、冬ごもり、と言うんだよ”



わたしは、冬季に朗読会や講座などの活動をお休みし、思索や森歩きをして過ごすことを、“冬眠”と表現してきました。

ですが、冬眠というのは、眠ること。

体温を下げて完全に眠る小さな動物たちが、冬眠。


例えばお母さんグマは、ずっと眠っているわけではなく、うとうとしながら子グマのお世話をしたりして、半分は起きています。

そのことを、冬ごもり、と言うのですね。


ですから、冬に森を歩き回っているわたしは、冬ごもり。

外的な活動はしませんが、感性や衝動のままに動いてはいますので、冬ごもり、というのも違うのかもしれませんけれど。


冬ごもり、という言葉が好きなので、今度からこちらを使うことにしましょう。

暖かそうで、密やかに楽しそうで。




さて、今年の冬ごもりは、2月いっぱいで終わります。

春一番の活動は、長野市での朗読会です。


ふたつ、計画していただいています。

ひとつは、ママのための集まり“ママぷれ”を主宰されている、トモミさんが、今回の朗読会の企画をしてくださり、準備を頑張っておられます。

もうひとつは、昨年もお伺いした、戸隠公民館さんでの、赤ちゃんとママの集まりに。

“ママぷれ”さんでは、シンボルツリー育み人養成講座の開催も決まり、その準備も進めていただいています。



わたしらしさ満載で、みなさんのところに行けるように、

あとひと月の冬ごもりを、大切に過ごしましょう。



この冬、わたしは、樹木の物理的な面を勉強しています。

これまでは、樹木の、心や、霊的なものだけに興味がありました。


この木が、何を想い、どんなことを伝えながら生きているのか、

どんな力を持ち、どんなことに弱いのか、

そういうことがわかるだけで充分でした。



ですが、だんだん、樹木の物理的なところ、例えば、成長のしくみ、光合成はどうやるのか、樹液はどう作られどこに蓄えられるのか、なぜ針葉樹は針葉で広葉樹は広葉なのか、幹が滑らかなものとゴツゴツしたものとの違いは何か・・・、

こういう不思議を、たくさん抱くようになりました。


好きな人ができて、その人のことをもっと知りたいと思う、その気持ちに似ています。


わたしにとって一番大切なことは、樹木の心であることは変わりませんが、

物理的なところも理解することで、より一層、樹木たちに近づき、もしかしたら、樹木たちを助けるようなことも、できるようになるかもしれません。

シンボルツリー講座でみなさんにお伝えすることも、厚みが出てくるかもしれません。


そんな夢を抱きながら、学び、森へ行き、木々と語らっています。



静かで、真っ白で、輝いていて、美しい日々です。







あなたに似ているから…*日々のつれづれ*

2017年01月30日 | Weblog

“観てほしいんです、ぜひ”

知り合いの方が、熱心に勧めてくださったのは、一本の映画。

『この世界の片隅に』



知り合いの方は、こう言いました。

“主人公の女性が、あなたに似ているんです。なんというか、感じが。それから、声も。”

“華やかなところは何もないのですが、だからこそ、胸を打つんです。”

“だから、ぜひ、観てほしいんです。”


強く、心に響きました。


わたしは、映画館の音量と、始めに流れる宣伝の煌びやかさが、大変苦手です。

ですから、できれば避けたいところなのです。



でも、この方のお話を聞いてから、心が揺れ動いています。

主人公は、主人公になるくらいですから、とても素敵な人でしょう。

わたしに似ている…というのは、きっと、“どこか、何となく”というくらいだと思います。


それでも、映画を観て、わたしを思い出してくださった、そのお気持ちが、強く胸に響きました。



映画館。

わたしには、敷居が高いところですが、

耳栓の力も借りれば、なんとか。



いつ行こうかな、行けるかな・・・


空模様と暦とを、眺めているこの頃です。












笑うこと*日々のつれづれ*

2017年01月23日 | Weblog

ふと聴いていたラジオで、

“大人は一日10回、子どもは一日400回笑う”

と話していました。


まあ、子どもって、そんなに笑うのね、と、びっくりして、息子の様子を観察してみました。


そうしたら、本当に、よく笑っていること。

些細なことで笑いますし、事によっては笑いが止まらなくなり、いつまでも笑い続けています。

子どもって、物事を面白がる天才なのですね。



“大人は10回”

とのことでしたが、わたしの場合、つられて笑ってしまうので、きっと、100回は笑っているのではないかと思います。

理由がわからなくても、笑いって、うつるんですよね。


有り難いことです。

笑うことほど、手軽で身体にいいことって、そうありませんものね。



「あなたのお蔭でたくさん笑うことができてよかった。ありがとうね。」

息子に伝えたら、途端に大笑いを始めました。


何がそんなに可笑しいの??



息子は、笑いの合間に、やっとやっと、教えてくれました。

「ちがうちがう、ぼくを笑わせているのは、ほとんどママじゃん!ママが一番可笑しいの!」

そう言って、また、引っくり返って笑っています。



そうかそうか、そうかもね。

わたしはいつも、物忘れや失敗で、息子に笑われていますから。



息子に言われ、なんだかわたしも可笑しくなってきて、一緒に笑い続けてしまいました。


わたしがわたしを笑っているのかしら。。。


まあ、いいでしょう。

楽しければ、それが一番。



窓の外は吹雪ですが、こちらでは、あたたかい時間が流れています。








自由な学び*日々のつれづれ*

2017年01月20日 | Weblog

今年に入り、息子の勉強意欲が強くなってきました。

知りたいことが、たくさんたくさん、溢れだしてくるようです。


政治のこと、もののしくみや構造、樹木の働き、化学、計算、言葉、歴史に地理。

毎日、あれもこれもと勉強しています。


わたしは、元々“教える”というスタンスではないのですが、

それにしても、分からないことばかりなので、一緒に学んでいます。



学校の教科書の内容は、だいたいは、わたしの頭に入っています。

その内容を踏また上で、息子が望む資料を使い、息子の自由な方向へと、学びを進めるようにしています。

図書館で選んだり、書店を覗いてみたり。

時には、海外の学校で使われているような内容、方法を選ぶこともあります。


時代を越えることもあります。

算数などは、現代の方法よりも、江戸時代の方法(和算)の方が、息子にはぴったりくるようです。

脳の思考回路が、そのようになっているのでしょうか?

とにかく面白いようです。



国も時代も自由に越えて、息子の学びたいように。

手探りですが、こんなこともまた楽しいものですね。












くるみ*日々のつれづれ*

2017年01月19日 | Weblog

毎晩、くるみ割りと、実のくりぬきを続けていて、気がついたのですが、

実を取り出しながら、わたしも息子も、心の奥に置いたままにしておいた想いを、ポツリポツリと、話すのです。

自然と、そうなるのです。


“あのとき、こんな風に感じていたの…”

“そういえば、こんなことがあったっけ…”

そんな風に。


くるみの実を取り出す時、わたしたちの心にも、同じことが起こっていたのですね。

部屋の掃除をすると、心の中がすっきりするのと同じように。


不思議でした。



息子の場合、想いを言葉にできるまでに、長い時間を必要とすることがあります。

特に、苦しい想いは、すぐに表現しないと、いつまでも苦しいものですが、

息子には、それが難しく、何年も経ってからようやく言葉にできることも、よくあります。


ところが、くるみの作業をしていると、想いの言語化が、とてもスムーズにできるようです。

どんどん、どんどん、溢れるように。


くるみの実は、深い溝の奥まで満ちていて、取り出すのは大変です。

わたしは、「千枚通し」という道具を使って、掘り出すようにしています。

息子は、竹ひごの先を小刀で削り、自分の使いやすい道具を作り、使っています。


奥のものを掘り出す、大変さと、達成感。

これが、心にも同調して起こるのですね。



息子は、時には涙を溜めながら、話します。

“ぼくね、あのとき、本当はね、・・・”

くるみを、深く、掘り出しながら。


わたしも、深く深く、掘り出しながら、耳を傾けます。



くるみの作業を終えた後、息子は穏やかな顔になります。

なんて有り難いことでしょう。

自然界のものは、なんという大きな作用を及ぼしてくれるのでしょう。

はかり知れません。



くるみは、まだまだあるのですが、

それでもそのうち、なくなってしまいます。



どうか、少しでも長く、この作業ができますよう…。



いつの間にか、急がずに、ゆっくりゆっくり作業をするようになった、わたしです。









わたしの冬の一日*日々のつれづれ*

2017年01月15日 | Weblog
“まるで片栗粉だね!”

先行く息子が言います。


一晩でどっかりと積もった雪。

除雪に追われ、それから、森に探検に出かけます。



ふわふわした雪は、ほんとうに、片栗粉のようで、

こういう雪は、雪かきもしにくいですし、遊ぶのにも、ちょっと大変。


どこまで行けるかな?と思いながらの探検でしたが、一足ひとあしが大変で(膝の深さまで積もっていましたので)、ほんの少しのところまでで断念。


でも、きれい。

冬の森は、ほんとうにきれい。

二人で、ただただ、歓声を上げました。



雪の白と、空の青だけの世界。

嬉しい気持ちがこみあげます。


森の空気をたくさん吸って、思い切り吸って、

わたしごと、みんな、入れ替わってしまうくらいに吸って、

とてもとても、いい気持ち。




家に戻ってから、後回しにしていた、くるみ仕事。

拾い集めたたくさんのくるみを、割り、開いて、実を取り出すのです。

なかなか、力と根気のいる仕事です。


でも、あたたかいコタツと、静かな音楽と、窓からの美しい冬景色があるから、楽しい楽しい冬仕事。

明日は、くるみのケーキを焼いてみよう。

こんな冬の一日が過ごせることに、心から、感謝。



冬眠中のわたしの、一日です。


寒いけど、大変なこともあるけど、

冬にこその幸せがあって、それを大切に、しっかり感じて、過ごしたいと思っています。


せっかく、この地球に生まれてきたんですものね。

やりたいこと、叶えたいことを、心に抱いて、

きっと、よろこびいっぱいに、降りてきたんですものね。












『青い鳥』*私の本棚*

2017年01月11日 | Weblog

読み終えたばかりの『青い鳥』(メーテルリンク)を抱え、窓の外を見ると、

いつの間にやら、雪が降っていました。

静かに、静かに。

この雪は、積もりそうです。



素晴らしい本です。

『青い鳥』



子どもの頃も、学生の頃も、読んだことのある本ですが、

いまのわたしこそ、この本の、本当の価値が、ようやく理解できたのだと思いました。

もちろん、全てではなく。

全て本当にわかるのは、もっともっと歳を重ねた後なのかもしれません。



ただ、子どもの頃と変わらないのは、

読んだ後に、自分のまわりの、溢れんばかりのたくさんの幸せ、喜びが、みえるようになることです。

世の中の流れや、他の誰かが打ち立てた指標や目標に、左右されず、

なぜこの世界に生まれてきたか、自分の人生をどう生きるか、考えさせてくれます。

また、草木や動物、あらゆる物質たちとはどのような存在か、(目に見えないものも含めて)、示してくれます。



今回、特にびっくりしたことは、“月夜の森”に出てくる樹木たちが、全て、ケルトの木の暦(シンボルツリー)に選ばれた木であった、ということです。

作者のメーテルリンクは、ベルギー生まれの人ですがら、ケルト文明圏です。

数えきれないほどの木々のなかで、古代に特に神聖とされていたこれらの木々を選んだ作者。

大いなる直感が働いたのでしょうか、あるいは、木々だけでなくあらゆるものと、心通わすことのできる人だったのかもしれません。



本を閉じたわたしのまわりに、ささやかな、いくつもの幸せと、よろこびが、溢れているのがわかります。

母となったいま、そのよろこびは、いっそう大きく、確かなものとして、感じられます。


ほんとうに、素晴らしい本です。


また、時間を経て、読み返したいと思います。


わたしが、おばあちゃんになるまで生きることができたとして、

その時に、この本を読んだら、もっと大きな感動に包まれることだろうと思います。


こんな気持ちにさせてくれる本は、そう多くはないものです。


やはり、素晴らしい本です。







「学校」から「市場」へ*日々のつれづれ*

2017年01月08日 | Weblog
まる一年が経過した「みんなで学校(仮)」。

次の段階に進む時期が来たような気がしていました。

豪雪地帯での開催なので、基本的に冬の間はお休みするのですが、

次の春からどんな風に開いていこうかな・・・と考えていました。



きっと、他のメンバーのみんなも、同じように感じていたのでしょう、

年末に、急きょ、新潟駅に集まり、会議を開くことができました。

今回は、大人だけでじっくり話したかったので、みんなが集まれたわけではなかったのですが、

じっくりと、想いや夢を話し合ううち、大きな大きなベクトルが、浮かび上がってきました。


それは、“市場”という在り方です。



市場は、その始まりにおいては、ものを交換する場でした。

自分の作ったもの、育てたもの、集めたものを、持っていって、見せる。

これが、“みせ(店)”ですね。


そして、他の村の人の店を、見る。

すると、自分にはないもの、珍しいもの、見たことがないものがあります。


ここで、交換が生まれます。

本によれば、珍しいものほど(例え使い方がわからないものでも)、人気があったのだそうです。



市場は、自分の得意なもの、ことを、披露する場であった、とも言えると思います。


そして、その対価は、必ずしも、お金である必要はありませんね。

原始の市場が交換で成り立っていたように、

自分の得意なものやことを見せ(店)ることで喜んでもらえたら、それこそ正に交換ですし、

何かをしなくても、その見せ(店)を楽しんでいる姿そのものが、披露した人(店の人)を幸せにします。

それも立派な交換ですね。



わたしたちが目指す在り方は、この、市場の在り方ではないか、ということに、みんなの想いがまとまったのです。


以前から、「学校」という名前が、わたしたちの在り方には合わないね、と話していました。

でも、なかなか、これという名前が浮かびませんでした。


それが、年末の、この突然の時間に、あまりにもスムーズに、定まってしまいました。

みんなの顔の、晴れやかだったこと。



わたしたちは、年齢をこえて、スタッフや子どもといった括りもこえて、みんなが、それぞれのやりたいことをしたいのです。

そして、みんな、互いに自由に過ごしている姿を、見たいのです。

学びあいたいのです。

大きな、自由な市場を訪ねるように。



延々と火をいじっている人の見せ。

森を探検する人の見せ。

ひたすら算数の問題を解き続ける人の見せ。

何もしないでぼんやり自由に過ごしている人の見せ。

大好きな本を紹介したり販売したりする人の見せ。

畑で、農について、人生について熱く語るおじいちゃんの見せ。

やることがコロコロ変わる、自由な自由な見せ。

みんなの見せを味わい感嘆する、受容や共感という見せ。


全員が、その人らしい店を出すような。

そんな在り方が、わたしたちの目指すところ。

店主になったり、観客になったり、コロコロコロコロ、思いのままに。


子どもの見せほど、自由で面白いはずです。

大人が感嘆してしまうような。


ここに、わたしたちが、大人にのみ参加費(学費)をいただく理由があります。

子どもは、大人たちの固定観念や枠を取り払ってしまう、大きな力を持っています。

この場に来て、子どもと共に過ごして、もっと自分らしくなりたい、変化していきたい、

そういう大人の方にこそ、来ていただきたいからです。



そして、わたしたちの特徴のもうひとつに、“どこでも開催できる”という身軽さがあります。

固定した建物や土地を持たないので、あの山でもこの山でも、あの建物でも、みんなが集まったところが即、学びの場になるのです。

どこへでも行ける。

市場は、どこでも開けますものね。



この、市場思想を、実際の活動にどのように落とし込んでいくのか、

それは、3月までの会議を通して、みんなでワクワクしながら描いていきたいと思っています。



わたしのこの説明では、いまひとつ、よくわからないと思うのですが、

そのうちに、もっとよくお伝えできる言葉が、見つかりますように。



息子は、早速、“歴史講座を開こうかな”と張り切っています。

試しに、わたしと主人を対象に、講談してくれたのですが、(お題は、武家諸法度の真実)、

お腹を抱えて笑い、目からウロコがいくつも落ちる、面白い講座でした。

息子も、とっても嬉しそうで。



わたしはどんな見せをしようかな・・・。

メンバーのみんなが、いま、とってもワクワクしています。










定員を決める*日々のつれづれ*

2017年01月07日 | Weblog

年末年始の慌ただしさの中、

“普段の時間に戻ったら、一番にやりたいことは・・・”

と、考えていました。


それは、片付け。


いただき物、いつもより大きな気持ちで購入した物など、物が増えていたせいでもありますが、

わたしの中で、何か変化が起きたようで、

ついこの前まで、大切だと思っていた物が、それほどでもない物、に変わってしまったのです。

わたしにとって最も大切なものが、圧倒的存在感を示し始めた、ということでしょうか。

それ以外のものは、持っていなくてもいい、と、思えるようになってしまいました。



帰宅したわたしは、早速、片付けを開始。

最も気になっていたのは本棚。


衣類と同じように、定員を決めたい、と思いました。



衣類は、ひとシーズン、カラーボックス三段以内に収まるように、と決めています。

一段目には、上に着るもの、

二段目には、下に着るもの、

三段目には、インナーやストール、羽織ものなどです。


これは、本当に楽です。

朝、迷うこともありませんし、余計に買うこともなくなりました。

定員が決まっているので、増やすわけにはいきません。

買い足す時は、既にある服が痛んだり、違和感などから、処分する必要を感じた時。



本棚にも、定員を決めたい、と思っています。

大好きな本ですから、難しいのですが、

わたしが本なら、ぎゅうぎゅう詰めにされるより、ゆったりと風通しのよい方が嬉しい。

背中ばかりでなく、時には、前を向いて立て掛けてもらいたい。

小さく素敵な置物や松ぼっくりが、隣にあるのも嬉しい。



そこで、ぎゅうぎゅうだった本棚から、いまのわたしには必要ではなくなった本を、外していきます。


ありがとうの気持ちをこめて。

必要とする誰かのところへ、届きますようにと。


もったいないな、とか、これは必要ではないかもしれないけど名残惜しい、とか、そんな迷いが生まれたら、
最も大切な本を見る。


なんという存在感。

有無を言わさぬ確信に満ちています。


そして、手元の本に戻る。

すると、わかります。

ここに残るのがいいか、もっと必要とする人のところへ行くのがいいか。



作業は半ば。

まだまだ、風通しのよい、までは遠いですが、

大切な本たちが、もう少しゆったりできるように、

新たにやってくる本たちが、それぞれの場所を見付けて落ち着けるように、頑張ってみます。



この片付けを終えた時、わたしの新しい人生が始まる。

大げさですが、本当に、そんな予感がしているのです。