ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

素敵なおさんぽ

2018年04月27日 | Weblog
色鮮やかな若葉が輝く森を、嬉しく嬉しく歩いていたら・・

ガサガサ・・と、藪から飛び出してきたもの。



雄のキジ。



鮮やかな赤に染まった顔。

俳優みたいに自分の美しさに満足し、

堂々とした態度で、こちらを見ています。



キジは、どうするでしょう?

こんなところに人間がいたんだもの。

逃げてしまうかしら?



わたしは、なんとなく、キジを気にしない素振りで、なにもなかったように通りすぎてみました。


・・なんとまあ、キジが、付いてきたのです。



数歩あるき、足を止めてみました。


すると、キジは、わたしのそばまで来て、止まりました。

こちらを見たり、あちらを見たりしながら、そこにいます。



わたしは、また少し、歩いてみました。


キジは、引き続き、わたしに付いてきて、そばで止まりました。

またキョロキョロしています。



わたしは、楽しくなってきました。

そして、ドキドキしてきました。



キジは、どこかに行きたくて、でもわたしがいたから、ゆっくりゆっくり進んでいるのかしら?

なにか、そばを歩いてみようと思ったのかしら?


わかりません。

でも、とってもドキドキ。



めいちゃんに追いかけられるトトロの気持ち。

キジが、めいちゃん。

わたしが、トトロ。


トトロ側の立場は、はじめてですが、

息子に、“ママはトトロに近い”
と言われたことがあり、あんまり違和感はありません。



・・まさか、

まさか、キジのほうが、“へんなもの見つけたぞ”、と思ったのかしら。

まさか・・。





それから、もう少しの間、わたしとキジは、一緒に歩いたのです。

距離にしたら、100メートルあったかどうか・・。



キジの道連れとして、わたしは、相応しかったでしょうか。

キジは、心地よく歩けたでしょうか。

キジには、好奇心による大冒険だったでしょうか。



わたしは、時の止まったような、不思議で素敵なひとときをもらって、キジや大自然にお礼を言いたいような気持ちでした。

だから、ちゃんと、小さな声で、ありがとうと、言いました。

アボンリー

2018年04月26日 | Weblog
「ここもアボンリーですね」

「ほんとね、まさにまさに」

仲良しの奥さまと、ほがらかに笑います。




アボンリー、

それは、『赤毛のアン』の舞台。

実に様々な、愛すべき人物が登場します。


わたしは、自分の暮らす、現代のこの村も、アボンリーとして眺めています。


どこにも必ず、変わった人がいます。(もちろん、わたしもその一人ですね)


不器用な人がいて、

世話好きな人がいて、

噂好きな人がいて、

人付き合いが苦手な人がいて、

近寄り難い人がいて、

鋭い人がいて、

楽しい人がいて、

静かな人がいて、

豪快な人がいて、

村は成り立っています。



わたしは、みんなみんな、そのままで好きです。

それはきっと、アボンリーとして見ていることが大きい。



“あの人はハリソンさん。口は悪いけど親しくなったら楽しいタイプ”


“あの人はマリラ。人付き合いは苦手のようだけど、心のなかには豊かな愛情が満ちている”


そんな風に(勝手に)考え、こっそり好きでいるのです。



また、同じように考えている人がすぐそばにいて、分かち合えることも、得難い幸せ。


思いがけないこと、びっくりすること、素敵なことも悲しいことも、

「アボンリーね」

と、感じあえるのです。



奥さまはわたしを、

「あなたはアンよ。みなさんを繋いでいるもの」

と言ってくださる。

(わたしは、オッチョコチョイのところがアンに似ている自覚あり)



わたしは、奥さまは、幸福なミスラベンダーだと思う。

結婚した後の、幸せなミスラベンダー。

歳を重ねても少女の心を失わない人。

そこが本当に素敵な人。


そして、ミスラベンダーとアンは、大の仲良し。



愛すべきこの村。

愛すべき人びと。


きっと、どの村もどの町も、バラエティー豊かな人びとが揃う、アボンリーなのだと思います。

音楽のちから

2018年04月25日 | Weblog
そのCD には『ending music 』という名前がつけられていました。

人生の最期の時に聴きたい音楽を集めたものだという。



静かな夜、蛙の歌をたっぷりと聴いた後、流してみました。


ああほんとうに・・

わたしの人生の最期の時にワープしたよう・・



素晴らしい音楽。

静かで、穏やかで、清らかで。



聴いていたら、急に、文章を書きたくなりました。

書きかけのエッセイがあって、全くはかどらないままだったのですが、

この音楽を聴いていたら、続きがブワーっと浮かび、最後まで一気に書き上げてしまいました。


なんという力でしょう。



いい音楽、その時に相応しい音楽というのは、芸術活動の後押しをしてくれますね。

今回、この音楽が、わたしの表現したいものに、ぴたりと一致していたのでしょう。

嬉しい驚きでした。



これから、仕上げたエッセイを投函します。

送り先はまだナイショ。



想いが、届きますように。




素敵な音楽よ、ありがとう。

父は空 母は大地

2018年04月23日 | Weblog
部屋の窓から木が見えて、嬉しいなあと思います。


わたしの家は、全方角の窓から木が見えます。


おひさまに照り輝き、
雨にしずかに濡れ、
風のままに揺れる木々。

美しい在り様です。



窓から木に心を向ければ、ほとんどいつも、木はわたしを労ってくれる。

できるだけその葉を揺らして、わたしの心を撫でてくれる。


時には、諭してくれる。

がっしりとそびえ立ち、ほんとうのところを問いかけてくれる。


木は、森は、すごいなあ。



この森、この木が、誰かのものである(所有者がいる)って、どういうことだろう、

いつからそうなったのだろう、

不思議に思って、勉強した事がありました。



日本では、昔は、木も森も、自然は、誰のものでもありませんでした。

恵みを分けてくれる神聖な場所でした。


それが、だんだん、力を持った人により、囲われるようになりました。

奪い合うようになりました。

国は、自然はみんなのものだから占有してはならない、と、幾度もおふれを出しました。


でも、やがて、所有を認めるようになっていきました。

稲作が始まったこと、定住するようになったこと、人口が増えたことが、大きな理由でした。

仕方のないことでした。



木たちは、自身が、誰かのものになったり、争いなどでまた違う人のものになったりすることを、どう感じていたのかな。

知らなかったかもしれないな。

木は、たぶん、ただそのいのちを生きてきたのだろうな。




友だちが、絵本を貸してくれました。

『父は空 母は大地』


アメリカ先住民の人たちが、白人たちに、大切に暮らしてきた土地を渡さなくてはならなくなった時、

その首長が大統領宛に書いた手紙です。



「どうしたら空が買えるというのだろう?

そして大地を。

わたしにはわからない。

風のにおいや水のきらめきを

あなたはいったいどうやって買おうというのだろう?」



「わたしにはわからない。

白い人にはなぜ

煙を吐いて走る鉄の馬のほうが

バッファローよりも大切なのか。

わたしたちの命をつなぐために

その命をくれるバッファローよりも。」



「獣たちがいなかったら

人間はいったい何なのだろう?

獣たちがすべて消えてしまったら

深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう


大地はわたしたちに属しているのではない

わたしたちが大地に属しているのだ」



「だから白い人よ。

わたしたちが子どもたちに伝えてきたように

あなたの子どもたちにも伝えてほしい。

大地はわたしたちの母。

大地にふりかかることはすべて

わたしたち

大地の息子と娘たちにもふりかかるのだと。」



「あらゆるものがつながっている。

わたしたちがこの命の織り物を織ったのではない。

わたしたちはそのなかの一本の糸にすぎないのだ。」




「もしわたしたちが

どうしても

ここを立ち去らなければならないのだとしたら

どうか白い人よ

わたしたちが大切にしたように

この大地を大切にしてほしい。」



「どうかいつまでも」




心をふりしぼるような、魂の深く深くから発せられた言葉たち。

胸に、心に、こたえます。



“深い魂のさみしさ” という感覚は、わたしにも強くあって、

森に入ったり、ふるさとの山にいると、それが慰められるのがわかります。

息子も同じようです。



つながっているから、なんですね。

あらゆる命と。


包まれているから、なんですね。

わたしたちの祖先に。




わたしは、息子に、何を伝えよう。


伝えたいと思う。

本当に、大切なことを。



こんなに大切な言葉をのこして、愛する土地を去っていった、先住民のみなさんのためにも、

わたしの祖先のためにも、

息子を含む、未来のすべての子どもたちのためにも。

そっくりさん

2018年04月20日 | Weblog
息子が、お腹を抱えて笑っています。


ちょっと笑いがおさまると、気を取り直すけれど、

また笑いの発作に取りつかれます。



何やら、わたしにそっくりな動物を、図鑑で見つけたというのです。


名前をきけば、

「エゾナキウサギ」

と言って、また笑います。



ウサギ、の名前に気を良くして、どれどれと覗いてみると・・


黒っぽくて、ちょっと耳が大きめの、ネズミのようではないですか。


そのウサギは、北海道にいて、鳴き声を出すのだそうです。

子どもの手に乗るほど小さなウサギです。



「変わっていることとね、顔がママなんだ」

また笑いだします。



よくよく見てみます。


確かに・・。

顔が、わたしかも・・。


化粧っ気の全くない、素朴な、ちょっと呆けたような顔。



見ていたら、だんだん、可笑しくなってきました。


似てるんだもの・・



わたしの笑いも、止められなくなり、

二人して、「もうやめて~」「こっち向かないで~」と言い合いながら、

涙を流して、お腹が痛くなるまで、笑ってしまったのでした。

シンボルツリー、広がっていく

2018年04月19日 | Weblog
シンボルツリーの輪が、ゆっくり、広がっていく。


昨日、遠方から講座を受けに来てくださったのは、二人のご姉妹。

家族のことをより深く理解したい、という思いで。


同じ家に生まれ育っても、感じ方はそれぞれ。

わたしはこう思っていたの、

わたしにとってはこうだったの、

と、気づきや発見が続きます。



シンボルツリーの素敵なところは、その人のよいところや魅力、役割がわかることだけでなく、

その人が、よりその人らしく、生き生きとなるように、どう育んでいったらいいのかが、わかること。


まわりの人を、育みの眼差しで見つめ直してみる時、そこに比較や反感はなく、

自然と、ありのままの姿を受け入れることができ、

ただ、その人らしくあるようにと、願うようになります。


魔法のように。




さて、こちらのご姉妹は、同じ木であることがわかり、びっくり。

そして、その木としてはとても理想的な距離感をもって助け合いながら暮らしていらっしゃいました。

そうなるべくしてなったようで、興味深いことでした。



次回は、より深く、各シンボルツリーを知っていきます。

育みあう家族、育みあう友人、育みあう職場のみなさん、

そんな関係が、きっと、広がっていくでしょう。



ただただ、木が好きで、木の心や魂に触れたいという、わたしの衝動のようなものが、

こんなにたくさんの人に広がっていくなんて、

驚きで、

そして、とてもとても、嬉しい。

言葉を見つけるまでの時間

2018年04月17日 | Weblog
想いを言葉にあらわすって、なんて難しいのだろう・・。

特に、大切なことほど。


ここ最近、そう感じることが続きました。



心のなかの、この、大事でやわらかくて弱いものを、相手の人にわかるように、どう表現したらいい?


生まれたてのウサギのように、瑞々しくて、生きているものを、言葉にどう置き換えたらいい?



表現が、本当に上手な人がいます。

はっきりと、迷いのない答えを返せる人がいます。

いいな・・、と思う。




わたしは、詩を書く時、何度も何度も、言葉を修正します。

なんとかして、想いに近づけるように。


でもそれは、難しく、時間がかかります。

いつも遠回りをしていて、なかなか目的地に近づけない感じ。

触りたいものに届かない感じ。


たまに、奇跡のように、ぴったりの表現ができると、

これ以上はないような幸せを感じます。

生きてきてよかった・・という風な、至福を。


わたしはいつも、そんな瞬間を夢見て、探し続けているようです。



日常会話にまでこだわれば、大変。

場面に応じた、ちょうどよいスピードでいないと、相手の人も疲れてしまいます。


だから、言葉を探したまんま、探し途中のような言葉を返すような時があって、

伝えられないもどかしさに、呆れてしまうのでしょう。




仕方ない、と思うことにしよう。

きりがないし、それに、わたしはわたしなのだから。



もし、耐えられない不足や、相手の人への失礼や誤解があったら、

言葉を見つけられてから、心をこめて伝えよう。




わたしは、詩人なんて、呼ばれているけど、

本当は誰よりも、言葉をうまく使えずにいるのです。

お家カフェ*開店中

2018年04月10日 | Weblog
あたたかいお日さまに応えるように、だんだんに、開いていく。

梅、

水仙、

桜、

菫、

わたし。



自宅でささやかに開いている、おしゃべり内容がメニューの「お家カフェ」も、

ちょこちょこ、お客さまがいらしています。

友だちとの再会も、あたらしい出会いも。



わたしの暮らす村の、ちいさな茶店さんでも、シンボルツリーの勉強会を開いていただくことになりました。

村の方たちにお話しができるなんて、嬉しいこと。


今年は、こんな時間を大切に、過ごしていこうと思います。



もしよかったら、どうぞここへ、ひと休みしにいらしてください。

困っていることも、悩んでいることも、もちろん嬉しいことも、みんなみんな持って。

家族が揃いまして

2018年04月09日 | Weblog
主人が単身赴任を終え、戻ってきました。

ひさしぶりの三人暮らし。

息子は、毎日がお祭りみたいに喜んでいます。




しかーし。


なんという荷物。

なんという量。



主人は、滅多に買い物をしないし、買うならよいものを買い、長く使います。

たまに、「記念に」と言って、変な物を買うこともありますが。

それはいいのです。


困ってしまうのは、もうダメになった物、使えなくなった物を取っておくのです。


そう、

棄てられない人なのです。



棄てられない人にとって、物を処分することは強い苦しみ。


わたしが、もう要らないはずの物を取り出して、

「さすがにこれは、もうサヨナラしてもいいわね」と言うと、

「いやいや、ダメなんだよ~、頼む~、棄てないでくれ~」

と言って、跳んできます。


「わかったわ。

じゃあ、“当面使わない物袋”に入れておこうね。

使う時は出せるから安心でしょ?

そして、本当に要らなかったら処分しようね。」

そう言って、袋に入れます。



わたし「これはどうかな?」

主人「やめてくれ~、要るんだよ~」


その繰り返しを見て、息子がばか笑いしています。



取っておいてあげたい気持ちもありますが、

今は、小さな小さな家に暮らしています。

収納は最小限に限られます。


わたしも息子も、たくさん荷物を処分しましたが、

それは、気持ちよく、新しい生き方を定めるよいきっかけになりました。



引っ越しをしたことも、それが小さな家であったことも、

身軽に生きるための大事なステップかもしれません。



そんなわけで、主人を上手になだめながら、“当面使わない物袋”が、4つ、できました。

まずは最初の段階である、屋外の物置へ。

しばらく、こちらに保管しておきます。



きっと、暮らしに支障は出ないと思いますが、

必要があれば、いつでも取り出しに行けます。


一年か、そのくらいしてから、必要なかったものは、サヨナラ・・できるかな?



それでもまだ、どーんと多量の荷物を、どこにどう納めようか、途方にくれる日々。

小さな家は、ぎゅうぎゅうの満員。


でも、たのしくて、あたたかです。

自然観察の日々

2018年04月05日 | Weblog
真っ黒に日焼けしています。

息子と毎日のように、できるだけ手つかずの自然の中に入っていき、観察をしていましたから。



息子はほ乳類の足跡や痕跡を探しに。

(アニマルトラッキングと呼ぶそうですね。)

わたしは樹木を深く知るために。


ノートとペンを持って、それぞれ何かに夢中です。




あちこち出かけてみてわかったのは、

わたしたちが心底満足できる森には、カモシカがいること。


まだどこか、かすかなものでいいから、神聖さが残されている森。

人の踏み込めない、深い領域が残されている森。



そんな深さに触れることは、そうあちこちでは出来ないのですが、

実家の裏山で、それが叶います。


この冬、カンジキで森を歩いた息子が、カモシカの足跡に出会いました。

わたしの父も、カモシカを時々見ています。



そういう森には、威厳がある。

手をあわせたくなるような、降参したくなるような、気高さがある。

深入りしたらいけないという、恐ろしさがある。


その威厳や恐ろしさを感じる時、わたしは、深い満足感に満たされます。




今日も、どこかの森に、わたしたちは居るでしょう。


ノートを持って、感嘆しながら、何かに見とれ、教えられているでしょう。