ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

長野市二回目の朗読会の御礼*日々のつれづれ*

2015年09月29日 | Weblog

長野市、朝陽館荻原書店さんでの朗読会、今回は、お店の裏にある蔵が会場でした。

普段は、ギャラリーとして、地域のみなさんの作品展示のためにと開放していらっしゃるところです。

今の時期にはちょうどよい、あたたかな居心地。

次回11月の朗読会では、よりその柔らかなあたたかさを感じることができそうです。





今回も、主催者の夏子さん、お手伝いをしてくれる友人のたかちゃん、幸江さんが、心をこめて準備、サポートをしてくれました。

朗読会のテーマは“またあなたに逢いたくて”でした。

様々に想い、悩み、頑張っておられるお母さんたちが集まってくれました。




わたしがいつも思っていることは、みんなが安心して気持ちを打ち明けられる空間をつくりたい、ということなのですが、

わたしの詩や朗読は、その空間に添えられる小さな野花のようなものです。

なにか、わたしの言葉や声のひとつが、みなさんの心の扉に触れることができたら・・・、

表現できずにいた想いを、なんにも心配しないで、言葉に声にしてもらえるかもしれない。

そう願って、いつも、朗読会の席にとまっています。





だから、

今回も、嬉しかった・・・。

みなさんが、想いを言葉に、声にしていらして。




どんな言葉も、どんな想いも、美しい。

わたしには、二度とない音楽のように聴こえます。




もっと、もっと、話してもらえるように、

いっぱい動くエネルギーに満ちたお子さんを追いかけるお母さんにこそ、もっと、気持ちを話してもらえるように、

この次も、また伺います。






みなさん、ありがとうこざいました。






明日は朗読会@長野市*お知らせ*

2015年09月24日 | Weblog

明日は長野市へ朗読会に伺います。

第二回目です。



昨日、朗読会のイメージを描きました。

今回のテーマは“またあなたに逢いたくて”としました。



わたしが出逢った5人のお母さんや子どもたちの本当の話と、みなさんに贈った詩をご紹介したいと思っています。



かけがえのない人たちとの出会いと別れを、どう受け止めて生きていったらいいでしょう。

そして、その人に、再び出会うことはできるものでしょうか。


そのヒントになりそうな、幼い子どもたちの言葉や想いも、ご紹介したいと思います。



朝陽館 荻原書店さん、今回もどうぞよろしくお願いします。

電車にコトコト揺られて、お伺いします。



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会場:朝陽館荻原書店(長野市新田町1532)
時間:10:00 ~ 11:30
参加費:500円(お茶とお菓子つき)
定員:先着10名(要申し込み)

*お申し込み、お問い合わせは荻原書店さんへ
026-234-2059

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『しまのないトラ』*息子の本棚*

2015年09月15日 | Weblog

絵本は、読んでもらうための本。

子どもの本に関する高名な先生たちは、みなそのように著述しています。


息子は9才ですが、ひとりでもたくさん本を読みますし、寝る前はわたしに本を読んでもらうことを未だに喜びます。



字が読めることと本を読むことは、別のようですね。

特に絵本の場合、文字を追うことに忙しいと、せっかくの美しい絵を堪能できません。

繰り返し読んだり読んでもらった絵本でも、展開も結末もわかっていても、それを母と一緒に辿っていくことの楽しさは色褪せないのでしょうね。


寝る前に息子が抱えてくる本を見て、息子の気持ちやその時の悩みがわかることも、母にとっては貴重なことです。

何より、わたしが本好きなので、読ませてもらえることがとても幸せです。




さて、昨夜、息子が抱えてきた本は、『しまのないトラ』。

斉藤洋 作
廣川沙映子 絵



息子がまだ読んでいない、第五話を読むことにしました。

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しまのないトラがいました。

仲間外れにされていました。

茂みに隠れるための縞がないので、近距離からの狩りもできません。

しまいにはジャングルのみんなにバカにされるようになりました。

しまのないトラは、ひとりぼっちで、いつもお腹を空かせていました。



すっかり落ち込んでいたところに、一頭のワシが来ます。

ワシは、しまのないトラに、狩りの姿を見せます。

獲物と定めた一羽の鳥は、すぐにワシに気づき逃げていきます。

かなりの距離がありました。

でも、ワシはそこから時間をかけて、ぐんぐん追い詰めていきました。



ドサリ。

トラの前に鳥が落とされます。

ワシが仕留めた鳥でした。

そしてワシは飛び去ります。



トラは、悔しかった。

でも、鳥を食べました。

お腹が空いて仕方がなかったのです。

そして、そんな悔しさは二度と味わいたくないと思いました。



トラは考えました。

そして、発見しました。

縞がないことで近距離の狩りができないなら、遠距離からの狩りができるように、走る練習をしよう!


しまのないトラは、くる日もくる日も走る練習を続けました。




そのうち、遠くからでも獲物を追い詰められるようになりました。

もう、茂みに隠れる必要がなくなったのです。

しまのないトラは、いつもお腹いっぱい食べられるようになりました。

それだけでなく、たくましく大きな体になっていきました。



もうだれもバカにしません。

他のトラたちも、からかうことができなくなります。

しまのないトラは、自分たちよりずっと体が大きく、狩りも上手になったから。




しまのないトラは、あの時のワシを空に見つけ、大きな声でお礼の言葉を叫びます。

ワシが教えてくれたのです。

みんなとは違う自分を生きるとは、どういうことかを。


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物語が終わりに近づいた時、息子が言いました。

“なんか、オチがありそうだなあ。”

斉藤洋さんの本はみなユーモアがありますので、この物語にも何かありそう、と感じたようです。

事実、やはりオチがあったのです。


“やっぱりねえー。”

息子は笑いました。




感想を聞きたかったけれど、そのまま眠るのを見守りました。

言葉にしなくてもいいのですよね。

心で大切に、感じているだけで。






本は心のたべもの。

この小さな時間が、どうか、息子の心の、よい食べ物になりますよう・・・。








さよなら、さよなら *日々のつれづれ*

2015年09月14日 | Weblog

水と土の芸術祭のため来日し、わたしの暮らす村で作品づくりをしてきたアイルランド人のクインビンさん。

作品もほぼ完成し、帰国する日が迫ってくると、毎日のように、クインビンさんが村を歩く姿を見かけました。

この村をいとおしむように、ゆっくりゆっくり、歩いていました。





そして昨日、送別会が開かれました。

お茶とお菓子だけの小さな会でしたが、彼を愛する人たちによる、あたたかな時間でした。




小さな青い目のクインビンさん。

いつも明るく優しい、紳士でした。

作務衣を着て、手ぬぐいを首にかけ、僧侶のように恭しくお辞儀をする、礼儀正しい人でした。





来日は三度目でしたが、今回ほど制作が困難だったことはなかったようです。

日程も厳しく、村のみなさんのサポートも追いつきません。



自治会長さんは、多忙なスケジュールをおして、毎日毎日、早朝からサポートに当たっておられました。

副自治会長さんの一人は、自費で、クインビンさん用の大型の自転車をプレゼントし、クレーン車を使っての骨組みを作る作業を頑張っておられました。

村の長老のようなおじいさんも、高齢にもかかわらず、毎日のように現場でお手伝いをしておられました。

週末には、村の青年のみなさんが集まり、作業をしては、夜には未完成の作品の元で、楽しそうに飲み会をしていました。

そして、なんとか、完全に近づくことができました。





わたしにできたのは、ほんのささやかな作業でした。

でも、お手伝いができて、よかった。

そして、もっとできることがあったのではないか、と、悔やんでもいます。

下手な英語なんかものともせず、もっとお話ししたかった。

せっかく巡り会えたのに。






水と土の芸術祭はこれからも続いていくと思いますが、クインビンさんの来日は、これが最後かもしれません。


一期一会を、わたしは、大切にできたでしょうか?

そのように生きているでしょうか?


問いかけ、見に染みて感じていることです。






お別れの言葉も、感謝の言葉も、たどたどしく簡単な言葉にしかできませんでしたが、

クインビンさんは、わかってくれました。

青い目に、そう書かれていましたから。




息子は、クインビンさんに、折り紙の鶴を作って渡していました。

紙ひこうきの作り方を身ぶり手振りで説明し、一緒に飛ばして遊んでいました。

よく飛ぶ紙ひこうきに、クインビンさんはびっくりしていました。


息子のほうが、よほど、想いを伝えるのが上手でした。





さよなら、さよなら、クインビンさん。

出会ってくれて、ありがとう。

村の素晴らしさや、人々の善意、お金で買えない大切なものを教えてくれて、ありがとう。






クインビンさんは、今日、成田に向かいます。





さよなら、さよなら・・・













生きていけるように *日々のつれづれ*

2015年09月12日 | Weblog

まだ独身の頃でした。

7・13 水害に遭いました。

わたしの家は水没、その日着ていた服と手提げ鞄の他は全て失いました。



たくさんの人たちに、物心ともに助けていただきました。

ひとつも忘れずに覚えています。








あれから10年、11年。


わたしは、こうして、生きています。

生きることができるように、助けられ、支えられ。






また、今年も、あのような悲しみ、辛さの中に放り出された人がたくさんだなんて・・・。






わたしのように、みなさんも、生きていけるように、支えられ、助けられなくては。




そうしなくては。


そうしなくては。











降り注ぐのは *日々のつれづれ*

2015年09月12日 | Weblog

この何日か、しみじみと感じていること。


降り注ぐのは、すべて、わたしが発したもの。



わたしが、よいものを発すれば、よいものは素早く巡り、必ずわたしに還ってくる。

わたしが、恐れを発すれば、恐れは素早く巡り、必ずわたしに還ってくる。



その速さは、想いの強さに比例する。

その力も、想いの強さに比例する。





“よいもの”とは、明るいもの、清々しいもの、美しいもの、あたたかいもの。

簡単に言えば、愛です。

それ以外のものは、“恐れ”と考えます。





ここ数日、わたしが発していたものは、

初めのうちは、7割が“よいもの”、3割が“恐れ”でした。

それがだんだん、“よいもの”が8割になり、9割を越えてきました。




“よいもの”が8割を越えると、感動的ですね。

9割を越えてくると、すごいですね。

全てが美しく、いとおしく感じられます。

大きく揺るがぬものと一体になった感じがします。

やわらかであたたかいものが、わたしを包み込んでいる感じがします。

ランナーズハイ、クライマーズハイにも似ている感じがしますが、大きく違うところは、危険ではないこと、穏やかで安定しているところです。






面白いのは、発した時は目に見えない想いであったのに、還ってくる時に目に見えるものになってくることがあること。

でも、それは一部。

ほんの一部。

しるし、のように。

残りはすべて、形を越えた素晴らしいもの。







そのシステムは、気体が液体に、液体が個体へと変化するのと同じ。

空気が水になり、氷や雪になるように。

見えるものになったり、見えないものになったり。



あたためるのか、冷やすのか。

それを決めるのが、心なのですね。









さあ、新しい一日が始まりました。


発していきましょう、よいものを。

弱くてもいい、少しずつでいい。

必ず、あなたに、まわりに、降り注ぐから。


花びらのように。












追われて、そして追いかけて*日々のつれづれ*

2015年09月10日 | Weblog

思いがけないことがいくつも起こった昨日でした。

そして、そのお蔭で、素晴らしい虹に出逢うことができました。





追われるよりも、追う方が好きです。

どうしても追われてしまう時は、その勢いを自分の力にして、素敵なものを生み出せるように頑張ってみる。




昨日は、追われに追われた一日でした。

そして、それを力にできました。

自らのエネルギーを本来の方向に向けて使うことができた、という、素晴らしい気持ちでの帰り道、虹に出逢えたのでした。


嬉しかった。


ありがとう、大いなるもの。





さあ、今日はわたしが追いかける番です。

全速力で追いかけなくてはいけません。



追いかけますとも。

思いきり追いかけますとも。




幼い頃、虹を取りに走った、あの日のように。

学生の頃、大好きな人のところへ自転車を走らせた、あの日のように。














何度でも、抱きしめて*日々のつれづれ*

2015年09月09日 | Weblog

幼い子どもとの毎日、お母さんたちは必死です。

キーっとなってしまうことも、怒鳴ってしまうことも、ひどいことを言ってしまうことも、あるものです。

そして、そんな自分を許すことができなくて、いつまでも苦しむ。





そんな、さまざまな状況を平面的に見れば、子育てに苦しんでいる、ということになりますが、

もうちょっと視点を上に、天上に上らせてみると、そのお母さんが直面しているのは、子どもではなく自分自身である、ということに気づくかもしれません。




意識していなくとも、お母さんが向き合い、闘っているのは、自分自身の弱さや痛み、なのではないでしょうか。



受け入れられずに来た、過去の痛み。

受け入れられずに来た、自分の心。

受け入れられずに来た、ご両親との日々。




一見無関係に見えても、そういうものはみな、子育てに大きな影響を及ぼします。

それは、言い換えれば、子どもたちは、過去をゆるし乗り越えるチャンスを、わたしたちに与えてくれている、ということです。





苦しくて、苦しくて、泣いているお母さんも、

そのうち必ず、越えられる瞬間が来ます。

思いきり、子どもを、全てを、抱きしめられる時が来ます。




“あ、今だわ。”

そう思える時が来ます。






子どもを抱きしめる時、子どもたちはみな、その小さな手で、母を抱きしめてくれます。

その、あたたかな手は、母の心に届き、

さらに、母の心の痛みにも届き、

さらに、母の両親にまでも、届いていくように感じられます。


全てをまるごと包んでしまう力を持つ、素晴らしい、素晴らしい手です。





何度でも、何度でも。

子どもがそうさせてくれる間、何度でも、抱きしめていきましょう。

母の心が救われ、幸せを感じられるようになっていくことは、子どもたちの願いでもあるから・・・。





今日が、自分が、どんなにつまらなくちっぽけに思えても、

必ず越えられる日が来ること、

そんなあなたを完全に愛する小さな人がそばにいてくれることを、

忘れないでいてください。













『リンバロストの乙女』*日々のつれづれ*

2015年09月08日 | Weblog




この二冊の本は、先日お話しした『そばかすの少年』の姉妹編です。

アメリカはインディアナ州にある、リンバロストと呼ばれる豊かな原始林が舞台です。



本当に素晴らしい本でした。

わたしの感想よりも、訳者である村岡花子さんの、あとがき(抜粋しますが)に記された次の言葉が、はるかに雄弁に、この物語の真価を語るでしょう。





(上巻あとがきより)

“私は日本のティーンエイジャーの読むものについて非常な不満を持っていた。

それは若い人たちが悪いのではなくて、適当なものがないのだ。

ティーンエイジャーともなれば愛情の問題に関心を持ち異性に対しても興味を持つのが健康な自然な状態である。

そしてまたこの年頃は正義感の強いものである。

これらの性格に対して適当な読みものが日本には少ない。


(下巻あとがきより)

今日までに私はずいぶんたくさんの英米の小説を翻訳しております。

若い人々を読者として、若い日の情熱を正しい方向へ導きたいというのが、私の生涯の仕事の基調です。

リンバロストの森の乙女の物語を私が初めてひもといたのは、昔、学生時代に・・・(省略)、夏の毎日をどんなに熱心に読みふけったことだったでしょう!

これを訳したいという願いはすでにそのころ私の胸に燃えました。”






今朝わたしは、散歩をしながら、白く咲くコスモスに見とれていました。

どんな色の花も素敵ですが、白い花は別格です。

白は、わたしにとって、あるべき姿や行くべき道を示してくれる、崇高な存在です。


そして、この、リンバロストの本たちも、たいへん白く美しい物語でした。




出逢えて本当によかった。


背筋を伸ばして、わたしの道を、しっかりと、歩いていけそうです。












ぼくのマラソン(2)

2015年09月03日 | Weblog


いまね

「歴史」と「物語」が

この辺を走っていて


「動物」は

それよりずーっと前を

走っているの



圧倒的なんだ




「工作」はね

「動物」に引っ張られて

一緒に走っているの



「工作」は

引っ張られていくものなんだ




ぼくはずっと

「動物」が好きでいたいけど

変わっちゃうのかな





変わりたくないな



変わったら

さみしいな





そうだ、


ぼくは

他のことも大事にしよう



そしたら

「動物」をずっと好きでいられると

思うんだ