実家の田植えを手伝っていた時のことです。
田んぼ仕事は、できるだけ手作業にこだわってきた父ですが、体力の低下と共に、手作業の面積が少なくなってきていました。
そして、数年前から、機械(手押しの小型の田植え機)を使うようになりました。
今年は、機械に付いていくのが大変そうでした。
田んぼはぬかるみ、機械は重いのです。
一度にはできず、何度も休みながら、やっと植えていました。
わたしは、苗を渡したり、植えられなかったところを手で植えたり。
そうしながら、父の姿を、じっと見つめていました。
今年で最後になるのかなあ・・・と思っていました。
父のお米、父が「自分で育てた」と誇りをもって言えるお米は、今回で最後になるかもしれない、と。
周辺の田んぼは、大型機械が威勢よく走っています。
みな、大型機械を持つ人に委託して、お米を育ててもらいます。
やがては父も、その選択をしなくてはならなくなるのでしょう。
誇り高い父には、切ないことに違いありません。
父の田んぼ。
頼んで作ってもらっても、父の田んぼ。
でも、きっと、まったく違うお米になるでしょう。
毎日見廻り、水の管理や草のこと、鳥のこと、農薬の一斉散布を断っている田んぼを守りに現場へ走り、見届けていた父。
父のお米は、父が育てたもの。
父そのものでした。
わたしは、なんとか頑張って機械を押す父を見つめながら、
「ありがとう、こんなに長い間お米を育ててくれて、食べさせてくれて。」
そう、心で伝えました。
もし、来年も、「自分で植えたい」と父が言ったら、わたしは何としても手伝いたい。
よろよろしてても、転んでしまっても、わたしはそれを支える。
田んぼがめちゃめちゃになってもいい。
父の想いを、遂げさせてあげたいと思います。
不意に、想いが溢れ、悲しくなってきて、横を見たら、
息子が楽しそうに、小川で、空になった苗箱を洗っていました。
その姿を見たら、わたしの心が、穏やかなところへと戻りました。
しっかりと見ておこう、そして、おぼえておこう。
大好きな、父の、この姿を。
今日という日を。
母も同様です。
膝の痛みのため、今年から田んぼ仕事ができなくなった母。
わたしは、離れて暮らしているし、嫁に出た娘ですが、
そのわたしにできる範囲で、してあげたいことを、ひとつひとつ、大切にしていこうと思います。
そして、その時その時のよろこびを、しっかりと感じていようと思います。
洗い物ひとつ、洗濯ひとつ、してあげられることは、素晴らしいことですものね。
だから、いま、わたしには、何でもない日常のひとつひとつが、みんな、輝いて見えます。
ほんとうに、みんな、みーんな、輝いて見えるのです。