ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

かなしみの向こう

2018年07月30日 | Weblog
いつも見る夢があった。

とてもかなしい夢。

胸が痛くなるような夢。

それは、わたしの人生に本当に起きた出来事。



あの、心が壊れるようなかなしみを、わたしは、本当には乗り越えていないのではないか・・

ただ時が流れたというだけで・・。


あの痛みをなぞるように、あの深いかなしみを呼び覚ますように、幾度も幾度も夢にあらわれる。

もう遠い昔のことなのに。



夢は、かなしみの場面を繰り返すばかりで終わる。

その先はない。


あともう少し・・、あともう少しで、違った展開になるかもしれない・・

そうなることなく、必ず終わる。



過ぎたこと、夢でしかなくても、

目覚めた朝から、立ち直りの努力をしなくてはならない。

その夢ごとに、その朝ごとに。


でも、通いなれた道だから、その痛みも道のりも、懐かしい友だちだった。




今朝のこと。

いつもの夢は、違う道を行った。

かなしみで終わるはずの夢が、その先へ行った。



違う道の先にあったのは、大きな安堵のような幸福。



うれしくて、うれしくて、わたしは泣いていた。

遠く懐かしい人を、しっかりと抱きしめて、

声をあげて泣いた。




自分の声で目が覚め、時空がわからなくなった。


わたしは、自分の声で、夢を胸に刻み、同時に、その夢を破ってしまった。

もう、かなしいあの夢を見ることは、ないかもしれない。


わたしは、古びた痛みの向こう側に、行ってしまったのか。




夢の終わりには、静かな夏の朝が残された。


まだ白い空は、まっしぐらに、青へと走り出していた。

ひかり

2018年07月28日 | Weblog
忘れな草色の空を見ていた。

ついさっきまで輝いていたサーモン色の雲は色を失い、

なにもない無垢な一瞬を経て、

空は、見る者の心が付いていけない速さで、深い藍へと移っていく。



讃美歌を聴いていたい。

この頃、そんな気持ちになることが増えた。

この世界にはたくさんの音楽がある。

たくさんの楽器があり音色がある。


ごく限られたものしか聴いてこなかったが、

それは、わたしの聴覚に堪えられるものが少なかったことが大きい。



静かに奏でられるピアノや竪琴

鳥や木の葉や水の音


そんなものしか聴かないわたしが、いま唯一聴く歌、人の声が、讃美歌だった。




讃美歌との出会いは、高校三年の音楽の授業だった。

ミュージカル映画『サウンドオブミュージック』を、先生は小間切れに数回に分けて見せてくれた。


内容も歌も素晴らしかったが、わたしの心をナイアガラの滝のように打ちのめしたのは、讃美歌だった。


修道院に響く、荘厳で神聖で繊細な声。

その響き、その声の行き先は、この世界で最も美しく善良な場所であると感じた。



それは、信仰心や宗教的な憧れのようなものとは少し違っていたと思う。

最も美しいであろう世界を、そのまま音にしたような歌があることに、驚いたことと、

「あなたは何を目指して歩いていくのですか」

そう問われた気がしたのだ。


修道女たちは、目指すものを明確に掲げ、静かに真っ直ぐに歩んでいた。

美しいと思った。




マザーテレサの伝記を読み、カルカッタに飛んでいきたくなったのも、この頃だった。

マザーが行っていることも素晴らしかったが、何より惹かれたのは、

「最も美しい場所」に近づいていく、明確な道に見えたことだった。


家族の反対に、その道は閉ざされたが、

父の言葉が胸に刺さり、やがてそれが灯台になった。

「困っている人は日本にも近所にもいる」




やがて、わたしは知るようになる。

最も美しい場所は、どこか遠い高みにあるのではなく、自分の心の中に育むものだと、

どこで何をしていても、美しい場所を指して生きることができると、

長い時間と痛みを経て、やっと、知るようになる。   




空が藍に変わっても、蜩は鳴き続けている。


意識しなければ聴こえなくなるようなその歌は、讃美歌とまじりあい、やさしい手のひらとなって、わたしをいざなう。


美しい音の舞いのなかで、小さな光が見えた。


混沌とした、喧騒のようなこの世界のただ中にこそ、最も美しい場所、最も美しい思いを、拓くこと・・


それは、わたしの灯台。


それは、あの日に父がくれた、思いだった。

矢車草

2018年07月26日 | Weblog
「矢車草、わたしの大好きな花」

その人は、遠い何かを懐かしむように言った。


もう、20年も前の夏に聞いた言葉が、この花の季節ごとに、よみがえる。



「あの、青い青い矢車草が好きでね、

あなたのご実家の庭にあるでしょう?

時々、通ることがあって、その度に、眺めていたの。」



それは、わたしの亡き祖母が育てていた花で、

今はもう、木々や野花の中に埋まっている。



実家を離れ、暮らすわたしは、小さな小さな庭に、種を蒔こうと思った。

整然とした庭も素敵だけれど、野草や野花の居場所もあるような、庭と呼ぶには野原に近い、そんな風にしたかった。


夏野菜をほんの少し、

それから、野花をほんの少し。

それだけでいいと思った。



花と野菜の苗が楽しげに並ぶ園芸店を、半ば途方に暮れながら歩いていたら、

どこにでもあるような、花の種の棚が目に入った。

袋入りの、花の種。



わたしの目は、ひとつの袋に止まった。


ああ、これだ。

これがいい。

この種を蒔こう。

この種を蒔きたかった。


「矢車草」

そう書かれた袋を手に取り、駆け出すような足取りでレジへ向かった。




種蒔きからしばらく経ち、美しい花が開いた。

白と、紫がかった青と、淡く気品あるピンクの花。

少女の頃の夢そのもののような、小さなドレスが何枚も広がるような花に、時を忘れて見とれた。

その花の中に、娘だったわたしの全てがあるように感じた。




矢車草が好きだと言った人は、わたしの初めての恋人のお母さまだった。


恋が壊れてしまった後も、

「わたしはずっとあなたの友だちよ」

と、時々、お手紙をくださった。


隣町に住んでいたから、お母さまがわたしの実家のそばを通ることもあり、

庭の矢車草を、いつも見ていたという。


なぜ、わたしに、矢車草の話をしたのだろう・・


お母さまの親切や想いを、どう受けたらよいのかわからぬまま、わたしは実家を離れ、進学し、就職をした。


懐かしく、お会いしたかったし、お話ししたいこともたくさんあった。


二度ほど、実際に会ったこともあった。

挨拶だけの、短い時間だけ。


でも、それが精一杯だった。

わたしが、とても長いこと、壊れてしまった恋を、忘れられずにいたから。



風のたよりに、彼が結婚をしたと聞いたのは、こんな夏の日だった。

宵の空が薄紫に染まり、蜩がいつまでもいつまでも鳴いていた。


わたしは、ずっと動けずにいた後、夜空に向かい、心のなかで、お母さまにお別れと感謝を告げた。



ずいぶん時が流れ、いま、わたしは母を生きている。

楽しい夫と、可愛い息子が、そばにいる。


あのお母さまがお元気かどうか、もう、わからない。



それでも、

矢車草、わたしの大好きな花。

飛翔

2018年07月24日 | Weblog
そのセミのサナギは、郵便局の塀のコンクリートブロックに飛翔の場を定めていた。

やがて脱け殻となるその体から、セミが抜け出そうとしている。



あんなに小さな脱け殻から、普通のサイズの、もう立派なセミが出てくる。


どうやって入っていたの?というくらい、殻は小さく、セミは大きい。

脱け出しながら大きく膨らんでいくようにしか見えない。

そうでないとしたら、この作業は、大きな痛みを伴うのではないかしら・・

それくらい、大変な大変なことに見える。



初めに出てきたセミの頭には、小さなビーズのような目。

念願の脱出だというのに、その目はまだ輝いていないし、何かを見ている風でもない。

生まれでる痛みに耐えている、そんな目。


あとどれくらい時間をかけたら脱出できるのか、わからないくらいゆっくり、セミは頑張っていた。

虫たちは、あまり得意でないが、そのセミは美しかった。

美しくて尊くて、胸が痛くなった。



塀を離れながら、わたしは、わたしの何があんなに懸命だろうかと、考えた。


いくつかの答えがよぎるうち、ひとつの、とても大切な想いが、しずかにわたしの心に留まった。


そこには、息子の姿があった。

笑い、泣き、悩み、怒り、一生懸命に生きる息子の姿があった。


(一見、)あれほどの痛みを伴いながらも生まれようとするセミに匹敵するものが、わたしにもあるとしたら、

それは、息子の母を生きること、

その痛みと大きなよろこび以外、ないと思った。


そのひとつがあるだけで、わたしの生涯は、素晴らしい。

そう、わかった。




明日、その塀を訪ねても、そこには脱け殻が、かろうじて付いているか、どこかに落ちてしまったか。


そして、来週の今ごろには、飛翔したあのセミは、その生涯を終える。

全てが、堂々たる道

2018年07月20日 | Weblog
「息子が、ものすごく苦しみながら学校に行っていて・・

私は、どうしてあげたらいいのか、全然わからなくて・・

苦しい時は休んでいいんだから、と、休ませてあげるようにしているんですが、

ますます勉強がわからなくなっていって・・

苦しそうで、苦しそうで・・


もう、なにがよくて、なにがいけないのか、わからなくなりました

どうしたらいいのかわからないまま、ずっとそんな感じで・・」



あるお母さんが、涙をにじませながら、話してくださいました。

息子さんは、中学一年生。

小学生の頃から、ずっと頑張ってきた子どもさんです。



お話しをききながら、わたしが思っていたことは、こういうことでした。



息子さん、偉かったね、こんなに長い間、踏ん張ってきて

お母さんも、偉かったね、こんなに長い間、一緒に悩み続けてきて


わたしはそのことを、ささやかでも優しい花束を差し上げるような気持ちで、労りたいのです



正しいことも、間違っていることも、本当は、ないように思います

息子さんとお母さんが、たくさんたくさん悩んで考えて、歩いてきた一歩一歩に、どうして間違いなんてあるでしょう

全てが、堂々たる道です

その道を歩く意義があったのです


いつか、ずっと先に、振り返って眺めてみたら、

たくさん曲がりくねった、でも立派な一本道が、見えるでしょう

息子さんとお母さんの、いとおしいような道が



わたしも、まさに、息子と一緒に、不思議な道を歩いているところです

その一歩一歩は、わからなくて、自信がなくて、こわいような時もあるのですが、

そう思いながらも、どこかで、この道とこの日々を、いとおしんでいる私がいます


そして、このお母さんに会えたことも、不思議な道を進んできたお陰だと、うれしく思っているのです

昇華

2018年06月17日 | Weblog
“気分転換なら小さな山がいい。

心に重荷があるならば、大きな山のほうがいい。

それだけ多くの汗を流す必要があるからだ。


そして山は、まるで合わせ鏡みたいに人それぞれの想いを映し出し、昇華してくれる。

ここが旅と登山との違いである。


旅はいろいろな想いを与えてくれるが、山のような充足感や心の澱(おり)のようなものを昇華する力は持っていない。”


“旅から帰る人と違って山から帰る人の、力を出しきったかのような穏やかで満ち足りた表情が、どんな言葉よりも雄弁に物語っている。”



細田弘 著
『山に入る日』より




山登りをしている時の、苦しさと背中合わせの、あの、素晴らしく美しいものは、なんだろう・・

ずっと考えていました。

下山していく人の、ほとんどの人の顔にあらわれている、あの美しさは・・



「昇華」

ひとことであらわせば、この言葉がぴったりだと思いました。


何かが洗われ、何かが祓われ、何かが清められ、何かを越える。

そういうものだと。



図書館で手にした本に、おなじ想いを見つけて、とても嬉しくて、

ここに記しました。

ありがとう「イタリアンの日」

2018年06月14日 | Weblog
昨日は、うんまんまさんでの朗読会でした。

あまりゆっくりできずに残念だったのですが、

次回は、のんびりお邪魔したいと思っています。



なんでも、昨日は「イタリアンの日」で、

馴染みのお母さんが新潟を離れることになり、最後に、新潟のソウルフードと呼ばれる「イタリアン」を、みんなで食べよう!

ということで、朗読会後のお昼に、みんなでいただきました。


こういうことを考える、うんまんま代表の五十嵐さんて、素敵だなあと思いますし、

一致団結して実行されるスタッフさんたちも、本当に素敵。



ちょうど、広島からいらしていた、元スタッフさんも、

「いろんな場所があって、それぞれに、個性があって素晴らしいけど、ここは、本当にいいですよねえ~」

と、しみじみ言っておられました。

同感、同感、と、二人で頷きあいました。



いらしたお母さんたちが、それぞれバラバラでなく、朗読会やイベントを通じて集合する。

離れられないお子さんは一緒に、そうでなければスタッフさんに見守られながら。


わたしの朗読会では、お母さんたちに自由に思いを語っていただくのですが、

その時のお話をみんなで共感したり、

シンボルツリーの話題を介して、初対面の方とも意気投合したりして、

せっかくの出会いを、そっと後押しできると、とても嬉しいのです。



そうして、みんなでお昼を食べる。

お弁当を持って来られる方もいるし、手ぶらで来て、みんなでお弁当を注文することもできます。

家庭的で美味しい(飽きない)お弁当で、わたしはいつもご馳走になっています。

(スタッフさんたち、本当にありがとうございます。いつもいつも、感謝の気持ちでいっぱいです。)


昨日は、お母さんたち個別にお話しをお聞きしていて、せっかくの「イタリアン」をいただく時間がなかったのですが、

このソウルフードが大好きな主人への、よいお土産になりました。

持ち帰らせていただいて、家族みんなで分けて、楽しく美味しくいただきました。



さて、うんまんまさんへは来月もお邪魔します。

7月11日(水)10時半からです。

再会や出会いを楽しみにしています。




また、シンボルツリーのお話しをじっくり聞きたい、という方には、わたしの家で開いている講座やワークショップのご案内です。

お気軽にご連絡くださいね。


*****************


“木々に囲まれた小さな家。

窓からは空と森が見えます。

お気に入りの本とお茶とお菓子、それだけですが、

今日も、お客さまをお待ちしています。

ゆっくりとおしゃべりをしに、

シンボルツリーを学びに、

いらっしゃいませんか。

何も持たないで、そのままのあなたで。”



お茶やお菓子はもちろんご用意していますが、メニューはこちらなのです。


「ほっこりおしゃべりコース」500円
お茶を飲みながらゆっくりおしゃべり

「じっくりシンボルツリーコース」1000円
ご家族のシンボルツリーについてじっくり知りたい方に

「がっつり養成講座コース」2000円×3回
全てのシンボルツリーを学び“育み人”を目指す方に


♪開いている時間
月曜、火曜、木曜の午後
水曜の午前
(週末がいい方はご相談ください。)

♪完全予約制です。お申し込みはこちらまで。
himawari.bless-you@ezweb.ne.jp

♪お子さま連れやお友達とご一緒もOKです。

明日は、朗読会

2018年06月12日 | Weblog
二ヶ月ぶり。


冬以外は毎月、ひらいていただいてきた、「うんまんま」さんでの朗読会ですが、

今年は、実家の農業を手伝うため、農繁期はお休みさせていただきます。


ですので、二ヶ月ぶり。

みなさんに会えるのが楽しみです。



明日は、4月の続き、「幸せなお母さんになるミニ講座」の2回目を予定しています。

わたしが見つけた、穏やかな気持ちでいるための小さなヒントを、みなさんに。

ヒントにまつわる詩も、朗読します。


それから、シンボルツリーのお話しも、少し。

今回は、「木の雰囲気」について触れたいと思います。


お昼まで、少しですが時間がありますので、個人的にお話ししたい方や、ご質問など、どうぞ気兼ねなく声をかけてくださいね。



初めての方も、リピーターさんも、大歓迎です。

お会いできるのを楽しみにしています。


梅雨入りしましたので、みなさまどうぞ気をつけて。

山に、母に

2018年06月07日 | Weblog
急な上り道で上を見たら、嫌になるから、一段先だけを見ながら、ゆっくりゆっくり。

そしたらそのうち、上に着いてしまうから・・


それが、昔、母が教えてくれた山登りの秘訣。



いま、山登りをすると必ず聴こえてくる、母の声。

いつしかそれは、母の声から私の声に変わって再生されるようになった。


一人で登っていても、母が一緒にいるようで、心強い。

むしろ、一人でなければ、母をあんなに近くには感じられないだろう。



母は、わたしの心の中にいる。

母は、山の中にもいる。


登るほど、母の心に近づいていく。



下山をしていく人たちは、みんな、すごくいい顔をしている。

汗だくで、何もかもが剥ぎ取られているのに、晴れやかで美しい。

ささやかでも、何かが、山によって昇華されるのではないか・・。



ひとつ登る度に、わたしも、そんな顔になっていくような気がする。


知らずに、わたしの何かが磨かれているとしたら、わたしの何かが祓われているとしたら、

山に、どう恩返しができるだろう。

こんなに素晴らしい道を教えてくれた母に、どう恩返しができるだろう。




一歩、一歩、登りながら、

今日も問いかける。

講座、たのしく開催中です

2018年06月05日 | Weblog
お返事が、とても長くなってしまいました。

講座受講生への、お手紙です。


涼しい風が、カーテンを揺らす午後。




わたしの樹木好きが高じて始まった、シンボルツリーの講座。

三回の講座には毎回宿題があり、あえて郵便で送っていただいています。

お手紙のやりとりをするのです。


「手紙なんて久しぶり!」という方も多いです。



宿題が送られてくると、それはそれは嬉しくて、大切に大切に読みます。

そして、お返事を書きます。

感じたこと、ご質問へのこたえ、ヒントになりそうなことなど、自由に綴っています。



講座では、植物の不思議な力や、暦にある全ての木について(人について)、びっしりと学びます。

そして、宿題では、ご自分の心と向き合う作業をしていただきます。


みなさんの発見は、片付けものをした時に見つかる懐かしい宝物みたいに尊いものだから、

わたしは、感嘆しながらお返事を書いています。



受講生のみなさんが、

ご自分を含め、まわりのみなさんを理解し、

受け止める、まではいかなくとも、納得することができるようになり、

心が楽になれますよう。



この頃、近くの山に呼ばれるような気がして、時間を見つけては登っているのですが、

木々に、ありがとう、ありがとう、とつぶやきながら、

ああそうか、わたしは、御礼参りをしているのかもしれないな、

そう感じているところです。

田んぼと山と木と

2018年05月19日 | Weblog
実家の田植えが、ようやく始まりました。

今年はとても遅いスタートでした。


コシヒカリ以外の田んぼは(古代米など)、小さな手押し田植え機の力を借りながら、家族でゆっくり作業を進めていきます。

田植え機を押すのは、ずっと父でしたが、今年から、わたしも息子も手伝いました。

裸足で作業をするため田んぼ長靴を持たない主人も、

「来年は俺も長靴を買って、押そう」

と言っていました。


父が、大変そうなのが、誰の目にもはっきりとわかりましたから。


去年はそれが寂しくてたまりませんでしたが、今年は、なんだか、あたたかな気持ちでした。

父は、監督としていつまでも、田んぼにいられるのだから。

それに、みんなで力を合わせることは、豊かで素敵なことなのでした。




さて、田んぼを中心にしながら、畑の手伝いにもちょこちょこ通い、

シンボルツリーの講座もちょこちょこ入っていて、

あっちに行ったりこっちに来たり、そんな毎日です。


手入れを後回しにしているお庭は気になっているけど・・、

とっても元気。



来週も講座がありますし、楽しみな再会も待っていて、嬉しい気持ち。


初夏の日差しも雨も風も、みんなみんな、ありがとう。

素敵なおさんぽ

2018年04月27日 | Weblog
色鮮やかな若葉が輝く森を、嬉しく嬉しく歩いていたら・・

ガサガサ・・と、藪から飛び出してきたもの。



雄のキジ。



鮮やかな赤に染まった顔。

俳優みたいに自分の美しさに満足し、

堂々とした態度で、こちらを見ています。



キジは、どうするでしょう?

こんなところに人間がいたんだもの。

逃げてしまうかしら?



わたしは、なんとなく、キジを気にしない素振りで、なにもなかったように通りすぎてみました。


・・なんとまあ、キジが、付いてきたのです。



数歩あるき、足を止めてみました。


すると、キジは、わたしのそばまで来て、止まりました。

こちらを見たり、あちらを見たりしながら、そこにいます。



わたしは、また少し、歩いてみました。


キジは、引き続き、わたしに付いてきて、そばで止まりました。

またキョロキョロしています。



わたしは、楽しくなってきました。

そして、ドキドキしてきました。



キジは、どこかに行きたくて、でもわたしがいたから、ゆっくりゆっくり進んでいるのかしら?

なにか、そばを歩いてみようと思ったのかしら?


わかりません。

でも、とってもドキドキ。



めいちゃんに追いかけられるトトロの気持ち。

キジが、めいちゃん。

わたしが、トトロ。


トトロ側の立場は、はじめてですが、

息子に、“ママはトトロに近い”
と言われたことがあり、あんまり違和感はありません。



・・まさか、

まさか、キジのほうが、“へんなもの見つけたぞ”、と思ったのかしら。

まさか・・。





それから、もう少しの間、わたしとキジは、一緒に歩いたのです。

距離にしたら、100メートルあったかどうか・・。



キジの道連れとして、わたしは、相応しかったでしょうか。

キジは、心地よく歩けたでしょうか。

キジには、好奇心による大冒険だったでしょうか。



わたしは、時の止まったような、不思議で素敵なひとときをもらって、キジや大自然にお礼を言いたいような気持ちでした。

だから、ちゃんと、小さな声で、ありがとうと、言いました。

アボンリー

2018年04月26日 | Weblog
「ここもアボンリーですね」

「ほんとね、まさにまさに」

仲良しの奥さまと、ほがらかに笑います。




アボンリー、

それは、『赤毛のアン』の舞台。

実に様々な、愛すべき人物が登場します。


わたしは、自分の暮らす、現代のこの村も、アボンリーとして眺めています。


どこにも必ず、変わった人がいます。(もちろん、わたしもその一人ですね)


不器用な人がいて、

世話好きな人がいて、

噂好きな人がいて、

人付き合いが苦手な人がいて、

近寄り難い人がいて、

鋭い人がいて、

楽しい人がいて、

静かな人がいて、

豪快な人がいて、

村は成り立っています。



わたしは、みんなみんな、そのままで好きです。

それはきっと、アボンリーとして見ていることが大きい。



“あの人はハリソンさん。口は悪いけど親しくなったら楽しいタイプ”


“あの人はマリラ。人付き合いは苦手のようだけど、心のなかには豊かな愛情が満ちている”


そんな風に(勝手に)考え、こっそり好きでいるのです。



また、同じように考えている人がすぐそばにいて、分かち合えることも、得難い幸せ。


思いがけないこと、びっくりすること、素敵なことも悲しいことも、

「アボンリーね」

と、感じあえるのです。



奥さまはわたしを、

「あなたはアンよ。みなさんを繋いでいるもの」

と言ってくださる。

(わたしは、オッチョコチョイのところがアンに似ている自覚あり)



わたしは、奥さまは、幸福なミスラベンダーだと思う。

結婚した後の、幸せなミスラベンダー。

歳を重ねても少女の心を失わない人。

そこが本当に素敵な人。


そして、ミスラベンダーとアンは、大の仲良し。



愛すべきこの村。

愛すべき人びと。


きっと、どの村もどの町も、バラエティー豊かな人びとが揃う、アボンリーなのだと思います。

音楽のちから

2018年04月25日 | Weblog
そのCD には『ending music 』という名前がつけられていました。

人生の最期の時に聴きたい音楽を集めたものだという。



静かな夜、蛙の歌をたっぷりと聴いた後、流してみました。


ああほんとうに・・

わたしの人生の最期の時にワープしたよう・・



素晴らしい音楽。

静かで、穏やかで、清らかで。



聴いていたら、急に、文章を書きたくなりました。

書きかけのエッセイがあって、全くはかどらないままだったのですが、

この音楽を聴いていたら、続きがブワーっと浮かび、最後まで一気に書き上げてしまいました。


なんという力でしょう。



いい音楽、その時に相応しい音楽というのは、芸術活動の後押しをしてくれますね。

今回、この音楽が、わたしの表現したいものに、ぴたりと一致していたのでしょう。

嬉しい驚きでした。



これから、仕上げたエッセイを投函します。

送り先はまだナイショ。



想いが、届きますように。




素敵な音楽よ、ありがとう。

父は空 母は大地

2018年04月23日 | Weblog
部屋の窓から木が見えて、嬉しいなあと思います。


わたしの家は、全方角の窓から木が見えます。


おひさまに照り輝き、
雨にしずかに濡れ、
風のままに揺れる木々。

美しい在り様です。



窓から木に心を向ければ、ほとんどいつも、木はわたしを労ってくれる。

できるだけその葉を揺らして、わたしの心を撫でてくれる。


時には、諭してくれる。

がっしりとそびえ立ち、ほんとうのところを問いかけてくれる。


木は、森は、すごいなあ。



この森、この木が、誰かのものである(所有者がいる)って、どういうことだろう、

いつからそうなったのだろう、

不思議に思って、勉強した事がありました。



日本では、昔は、木も森も、自然は、誰のものでもありませんでした。

恵みを分けてくれる神聖な場所でした。


それが、だんだん、力を持った人により、囲われるようになりました。

奪い合うようになりました。

国は、自然はみんなのものだから占有してはならない、と、幾度もおふれを出しました。


でも、やがて、所有を認めるようになっていきました。

稲作が始まったこと、定住するようになったこと、人口が増えたことが、大きな理由でした。

仕方のないことでした。



木たちは、自身が、誰かのものになったり、争いなどでまた違う人のものになったりすることを、どう感じていたのかな。

知らなかったかもしれないな。

木は、たぶん、ただそのいのちを生きてきたのだろうな。




友だちが、絵本を貸してくれました。

『父は空 母は大地』


アメリカ先住民の人たちが、白人たちに、大切に暮らしてきた土地を渡さなくてはならなくなった時、

その首長が大統領宛に書いた手紙です。



「どうしたら空が買えるというのだろう?

そして大地を。

わたしにはわからない。

風のにおいや水のきらめきを

あなたはいったいどうやって買おうというのだろう?」



「わたしにはわからない。

白い人にはなぜ

煙を吐いて走る鉄の馬のほうが

バッファローよりも大切なのか。

わたしたちの命をつなぐために

その命をくれるバッファローよりも。」



「獣たちがいなかったら

人間はいったい何なのだろう?

獣たちがすべて消えてしまったら

深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう


大地はわたしたちに属しているのではない

わたしたちが大地に属しているのだ」



「だから白い人よ。

わたしたちが子どもたちに伝えてきたように

あなたの子どもたちにも伝えてほしい。

大地はわたしたちの母。

大地にふりかかることはすべて

わたしたち

大地の息子と娘たちにもふりかかるのだと。」



「あらゆるものがつながっている。

わたしたちがこの命の織り物を織ったのではない。

わたしたちはそのなかの一本の糸にすぎないのだ。」




「もしわたしたちが

どうしても

ここを立ち去らなければならないのだとしたら

どうか白い人よ

わたしたちが大切にしたように

この大地を大切にしてほしい。」



「どうかいつまでも」




心をふりしぼるような、魂の深く深くから発せられた言葉たち。

胸に、心に、こたえます。



“深い魂のさみしさ” という感覚は、わたしにも強くあって、

森に入ったり、ふるさとの山にいると、それが慰められるのがわかります。

息子も同じようです。



つながっているから、なんですね。

あらゆる命と。


包まれているから、なんですね。

わたしたちの祖先に。




わたしは、息子に、何を伝えよう。


伝えたいと思う。

本当に、大切なことを。



こんなに大切な言葉をのこして、愛する土地を去っていった、先住民のみなさんのためにも、

わたしの祖先のためにも、

息子を含む、未来のすべての子どもたちのためにも。