教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

改定 千里の歴史①~服部緑地が海岸だった縄文時代

2008年04月16日 | 北摂T市の歴史
私たちの町に人が住みだしたのは、いつごろでしょうか。文字が無かったので正確な年代はわからないのですが、市内各地で発見された土器を調べると1万年ぐらい前の縄文時代には人が住んでいたようです。
 
 今地球温暖化が問題になっていますが縄文時代の地球も温暖な時期でした。海面は今よりも3~5mも高く、大阪湾は右の図(大阪自然史博物館資料)のように生駒山のふもとまで入り込んでいたのです。(この湾を考古学者は河内湾と名づけています)中央に半島のように突き出ているのが大阪城のある上町台地です。

 1万年前は、阪急でいえば曽根駅、地下鉄でいえば緑地公園駅から南は海でし
た。地下鉄に乗って千里中央から梅田に向かったときの景色を思い浮かべて下さい。千里中央駅・桃山台駅・緑地公園駅まではプラットホームが地下にありますね。それが緑地公園駅を出るとすぐに大きな下り坂となり、線路は地上2~3階ぐらいの高さになります。この緑地公園駅と江坂駅の間の段差は、縄文時代に波で削られた崖(海岸段丘)のあとなのです。
 
 この時代に作られた縄文土器は、野畑・桜井谷周辺で発見されています。縄文時代の千里地区の様子については、1960年代の大規模開発により地表がごっそりと削りとられたので詳しいことはわかりません。しかし今から1万年ほど前の千里地区を縄文人が猪(いのしし)や鹿を求め移動していたことは確かです。

 私たちの町は古くから開けた地域です。古墳が並び、万葉集にも歌われ、菅原道真や織田信長もこの地に足を踏み入れました。みなさんと千里の歴史を学んでみましょう。



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