教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

千里の歴史⑨・・・天神社と真覚寺つづき 

2006年05月22日 | 北摂T市の歴史
市内にある神社で多いのは住吉神社です。住吉神社は海の神をまつっている神社です。縄文時代の海岸線は今より数十メートル高く、日本列島の主な平野は海の底でした。弥生時代になっても大阪平野の多くは海で、阪急電車でいえば曽根駅、地下鉄でいえば緑地公園駅から南には海がせまっていました。そのため市の中南部には海をまつる神社が多くあります。しかし丘の上にあり水が得にくい新田村では、雨を呼ぶ雷の神といわれた菅原道真をまつる天神社を村の神社として選んでいます。

今でこそ菅原道真は学問の神といわれますが、古くは雷の神として恐れられていました。それは道真が大宰府に流された後京都で落雷が続いたためで人々は雷を道真のたたりとして恐れたのです。そのため北野天満宮をはじめとする天満宮・天神社を各地に造り、道真のたたりをしずめようとしました。

連休中に行われた中学校での試合の帰り、久しぶりに真覚寺の前を通ってみました。門前には金子みすずの有名な詩「鈴と小鳥とそれから私 みんなちがって みんないい」の一節と次のような言葉が掲げてありました。

信仰心を持ち合わせていない私ですが、住職さんの穏やかな心に触れたような気がしたので紹介します。
「拝まない者も おがまれている 拝まない時も おがまれている こどもたちが親の願いの中で生きているように」


千里の歴史⑧ 真覚寺

2006年05月21日 | 北摂T市の歴史
千里のもう一つの寺社といえば真覚寺です。真覚寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、寺の本尊は阿弥陀仏です。新田村が誕生してまもない1630年(寛永3年)に惣道場(惣=「そう」は今でいう市議会や村議会。道場は信者の集会所。)として発足したと記録されています。当時の寺は信仰の中心であるだけでなく、今でいう公民館のような役割も担っており、様々な行事や村の運営が話し合われました。

明治になり学校制度が始まると(1875年)、真覚寺を仮校舎として新田小学校がスタートしました。新田小学校は10年後に独立した校舎を持つことになりますが、戦後の1953年には、寺に寿光保育所ができました。この保育所は1972年に市立新田幼稚園ができるまでの20年間、地域の子どもたちを育ててきました。

真覚寺は10年ほど前に建て直され新しくなりましたが、私が子どもの頃は江戸時代の農村風景を思わせる家々が寺の周りにたくさんあり、時代劇のロケが行われることもありました。

新田には、徳林院と呼ばれる浄土宗の寺もあります。この寺は、箕面の勝尾寺に参拝する人たちが休憩するために1673年に建てられたとあります。

千里の歴史⑦

2006年05月20日 | 北摂T市の歴史
千里にある社寺では、天神社があります。天神社の創設は定かではありませんが、新田村の開墾とともに始まったようです。確かな記録として残っているのは、1686年の神社の拡張工事です。小路村の大工市郎兵衛が工事を請け負い、分銅谷(現在の社殿より北側、今でも分銅谷駐車場という名が残る)から、現在地に社殿を移したとされています。現在の本殿はそのときに作られたもので、一間社流造で、江戸時代の初期から中期にかけての特徴をあらわすものとなっています。天神社では、毎年1月14日午後7時に「とんど祭」が行われます。昨年の1年間お守りいただいたお礼と、これからの1年の無病息災を願って行われています。地方によっては左義長祭といわれるものと同じ祭です。

千里の歴史⑥周辺部寄り道・・水つながり

2006年05月17日 | 北摂T市の歴史
千里丘陵は南に傾斜し、その先端は10m程の崖となり低地部に続きます。丘陵地区では水の確保が大変だった半面、崖周辺では地下水が良質の湧き水として地表に出ていました。丘陵の南端にあたる阪急吹田駅近くには、垂水神社(『垂水の滝』という小さな滝がある)や泉殿神社など水にまつわる神社が古くから建てられています。垂水神社に関する記録は、平安時代の初期に編纂された『新撰姓氏録』に残されています。それによると、大化の改新のあと、都が奈良の飛鳥から大阪の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に移された時に、滝水を献上したとされています。また奈良時代に編集された『万葉集』には、志貴皇子(天智天皇の子)の詠んだ「いははしる垂水の上のさわらびの もえいずる春になりにけるかも」という歌もあります。垂水神社の境内には、その歌碑が建てられています。

泉殿神社の社史には、869年の旱魃(かんばつ)時に雨乞いを行い、泉が湧き出たことにより神社が建てられたとあります。幕末には大阪で『大塩平八郎の乱』が起こります。当時の宮司(ぐうじ)は平八郎の叔父で旧姓大塩権八郎といい、この乱の首謀者の一人でした。乱の失敗のあと、神社は幕府軍に包囲されます。逃げ場を失った権八郎は壮絶な切腹を遂げ、生き残った一族は島流しとなりました。明治の時代になり、この泉の水がビール製造に良いとされ、東洋初のビール工場が建てられました。泉の水が涸れてしまった今でもアサヒビール吹田工場がここにあります。今は豊中市と吹田市に分かれていますが、両市にまたがる千里は、水源の地として吹田地区とも深いつながりがあったのです。

千里の歴史⑤

2006年05月16日 | 北摂T市の歴史
 千里丘陵に人が住みだしたのは、江戸幕府ができてしばらくたった1626年(寛永3年)のことです。銭形平次が投げていたお金、寛永通宝が作られたのもこのころです。山田下村(現吹田市)の庄屋田中七兵衛・権兵衛兄弟が、当時幕府の直轄地であった千里地区の開発を願い出たことに始まります。当時の農家は、長男が財産を相続し、次男以下と父親が新しい田畑の開拓に出て行くならわしとなっていました。そこで入村者の募集をしたところ、山田・佐井寺・岸部の村を中心に33人の農民が集まりました。雑木を切り倒し、根をおこし、田をつくり、谷に堤を築いて水をせき止め池を作りました。樫ノ木池・あちら谷池・安場池・玉子谷池・深谷池・砂子谷池がこのとき誕生したと記録にあります。瀬戸内気候で雨の少ない大阪には、古くからたくさんのため池が作られてきましたが、丘陵地の千里は、「月夜の晩に田んぼが焼ける」といわれるほど水不足に悩んでいました。開拓と水の確保は、切っても切れない関係だったわけです。       

千里の歴史④

2006年05月15日 | 北摂T市の歴史
 千里地区は水の得にくい丘陵地帯であるため、江戸時代になるまでは集落が形成されず、赤松林や雑木林が生い茂っていました。しかし、人々の活動の足跡はあちらこちらに残されています。千里では良質の粘土が産出されたため、丘陵西部の野畑(のばたけ)や上野では、土器の須恵器(すえき)を焼くためにつくられた窯跡の遺跡(6韓世紀)が多数発見されています。奈良~平安時代には、皇族や貴族の狩猟の場として、猪やキジなどの狩が行われていました。また都に近く、山陽・瀬戸内地方への通過点ともなるため、たびたび戦火に巻き込まれました。戦国時代には、北に池田城(後に姫路城主となった池田輝政を輩出する池田氏の居城)、西に伊丹城(織田信長につかえた荒木村重の居城。後に毛利・石山本願寺連合と組み、信長と対立)を見渡す千里丘陵の一角に、織田信長は刀根山城を築き伊丹城攻撃の足場としました。市内の神社や寺などの古い建物は、このときにほとんど焼き払われてしまいました。私の祖父は、古くから岡町に住んでいましたが、「荒木村重の乱のため、原田神社は燃え、岡町はえらい目におうた」と見てきたような話をしていました。そのため、私は歴史を学ぶまでは、祖父の子どもの頃に荒木村重という乱暴な人がいたのだと思っていました。今でも、よく晴れた日に、千里中央から蛍池に向かってモノレールに乗ると、南は大阪の町、西は伊丹のはるか向こうの六甲山の山並み、北は五月山から中山連峰が美しく見えます。中国街道と能勢街道を見下ろすこの地を、毛利との戦いの前線基地とし城を構えた信長は、さすがだと思います。