教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

千里の歴史③~古墳時代のハイテク工場・千里

2008年05月10日 | 北摂T市の歴史
今から1500~1600年ほど前、河内(大阪)から奈良にまたがる地域に巨大な古墳を作る王が出現しました。これが大和朝廷です。大和朝廷は周辺の勢力を従え、徐々に力を伸ばしていきます。市内にも多くの古墳が造られました。その代表的なものが市中部の『桜塚古墳群』です。明治初期の記録によると桜塚古墳群には36基(き)の古墳があったのですが、今では5基が残るだけとなりました。最大のものは岡町図書館南側にある大石塚古墳で、全長80mを超える前方後円墳(かぎ穴のような形)です。桜塚高校南側にある大塚古墳や御獅子塚古墳からは、埴輪(はにわ)や鉄製の古代武器など多数出土しています。

 これらの古墳が造られた頃、猪名川や神崎川周辺には中国や朝鮮から大量の渡来人がやってきました。有名なのは応神天皇の時代、中国の呉(ご)から招かれ池田の地を与えられた呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)の二人です。二人の媛は日本に機織(はたおり)・裁縫(さいほう)・染色の技術を伝えました。池田にはこの二人を祭る神社、呉服神社・伊居太神社があります。市内の服部という地名もこれらの媛に由来していると言われます。

 古墳時代の千里は100基以上の須恵器窯(すえきがま)が築かれ、土器生産の中心地でした。(桜井谷・島熊山・永楽荘・上野などに窯跡があります)難波宮の建設にも千里地区で作られた瓦が使われました。弥生土器よりも軽くて丈夫な須恵器の生産は、機織技術とならび当時としては最新のハイテク技術でした。


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