宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「2010年代 ディストピアを超えて」(その6):「原爆」青来有一!「原発」高村薫、東野圭吾、小林信彦!「震災小説」川上弘美、古川日出男、高橋源一郎、福井晴敏、木村友祐!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-26 11:30:40 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(68)「2011年、第1撃後の震災小説」:Cf. 「ゴジラ」『鉄腕アトム』『AKIRA』『風の谷のナウシカ』など戦後のサブカルチャーは原子力を物語のモチーフに積極的に取り込んできた!
F  「3・11」後の小説について述べる前に、原子力に関する過去の作品を見ておこう。(236-237頁)
F-2  川村湊(ミナト)『原発と原爆――「核」の戦後精神史』(2011)が指摘するように、マンガやアニメに代表される戦後のサブカルチャーは原子力を物語のモチーフに積極的に取り込んできた。(a)水爆実験の結果、古生代の眠りから蘇った映画の「ゴジラ」(1954~)。 (b)超小型原子力エンジンを備えた手塚治虫の『鉄腕アトム』(1952-1968)。(c)核戦争後の世界を描いた大友克洋(1954-)『AKIRA』(1982-1990)。(d)同じく核戦争後の世界を舞台にした『風の谷のナウシカ』(1984)。(237頁)
F-2-2 しかし果たしてこれらは、被曝の実態、放射性物質がばらまかれた世界の現実を正しく伝えていただろうかと、川村湊は問う。(237頁)

(68)-2 「原爆」の問題:林京子、青来(セイライ)有一『爆心』(2007)!
F-3  純文学は「核」すなわち「原爆」の問題には強い関心を示してきた。林京子(1930-2017)はその代表的な作家だ。(237頁)
《参考》林京子(※長崎で被爆)(1930-2017)『祭りの場』(1975、45歳)(芥川賞受賞)は、長崎の原爆に取材した小説だが、客観的かつ俯瞰的な作品で、斎藤美奈子氏は「芥川賞より大宅賞がふさわしいと思われるほどだ」と言う。(66頁)

F-4  近年では長崎在住の青来有一(セイライユウイチ)(1958-)が特筆される。代表作は短編集『爆心』(2007)。青来の作品には長崎の原爆とキリシタン弾圧が、重要なモチーフとしてたびたび登場する。(237頁)
《書評1》「長崎の爆心地での人間模様を描いた短編集」と聞いて戦争の話が中心かと思えばそうではなく、ほとんどが現代が舞台。知的障害者、不倫、幼子を失くした父、様々な人が出てくるが、必ずどこかで原爆と繋がっている。
《書評2》著者の出身地である長崎を題材に、キリスト教、原爆という難しい話題を織り交ぜながら書き上げた連作短編集。この作品には、欲望や禁断の愛、錯乱、妄想、生と死など、様々な話が交錯して、丁寧な文体に乗せながら、人間の営みを描く。
《書評3》戦後生まれの作者にとって、原爆のことを記すことにはかなりの葛藤と覚悟が必要だったろう。同郷で被爆者の作家林京子から「自由に書いていいのよ」と言われたという。6作品からなる短編集だが、「虫」は神の存在を問う内容で遠藤周『沈黙』にも通じる。なぜ神の国であるアメリカがキリスト教信者の住む長崎を、浦上天主堂を焼き尽くす所業を行ったのか?なぜ神は信者を守ることがなかったのか?

(68)-3 「原発」(チェルノブイリ原発事故後)の問題:高村薫『神の火』(1991)、東野圭吾『天空の蜂』(1995)、小林信彦『極東セレナーデ』(1987)!
F-5  もう一つの「核」すなわち「原発」については、1986年のチェルノブイリ原発事故後、いくつかの作品が書かれている。こちらはエンタメ系の独壇場だ。(237頁)
F-5-2  高村薫(1953-、女性)『神の火』(1991、38歳)は冷戦時代の末期を舞台に、元原発技術者にしてソ連のスパイだった男が、元原発労働者らと協力して原発襲撃を計画するという大がかりなサスペンスだ。(237-238頁)
《書評1》(ア)事故が起こったら最後の原発が、多重防護によって守られているとはいえ、あくまでも条件付の想定であること、(イ)北朝鮮が原爆の開発に強い意欲を持っていることを、高村さんは90年代初頭に作品化していた。にもかかわらず東日本大事震災の事故を起こして、なおその事故を「想定外」といい募る傲慢!
《書評2》発売当初はまだソ連が崩壊してなくて、その頃の話だが「原発テロ」というテーマは今まさにそこにある危機なので、そんなに色あせてない。
《書評3》「テロ」(1991)なんか起こさなくても、「地震と津波」(2011)でメルトダウンしてしまう原発をしれっと運営していた、という事実を突きつけられた作者の憤りって凄まじいんだろうなと「場外戦」を想像してししまう。

F-6 東野圭吾(1958-)『天空の蜂』(1995、37歳)は、「天空の蜂」を名乗るテロリストが福井県の高速増殖炉「新陽」の上空に大型ヘリをホバリングさせ、「日本中の原発の発電タービンを破壊せよ。さもなければヘリを墜落させる」と政府と電力会社を脅迫する物語だ。(238頁)
《書評1》原発の存在を意識したのは東日本大震災の時が初めてで、それから10年以上たった今、また意識の中から外れようとしている。テロリスト・三島のやり方が正しいとは言えない。でもそこまでしないと「沈黙する群衆」は関心を示さないということには納得した。賛成派、反対派ではなく、「沈黙する群衆」こそ悪というメッセージだった。
《書評2》「反原発」や「原発推進」のどちらかに偏った書き方だったら読みきれなかったかもしれないが、東野さんは「無知・無関心」が一番の悪なのだと説く。
《書評3》技術的な説明が長いのが難点だが、この小説が東日本大震災の前の1995年に書かれたことがスゴい。

F-7  小林信彦(1932-)『極東セレナーデ』(1987、55歳)は、新聞連載中にチェルノブイリ事故が起きたので、それが小説に取り込まれ、「広告業界でアイドル街道を駆け上がっていたヒロイン」が原発広告に出ることを拒否して業界から干されるという結末に至る。(238頁)
《書評1》エンターテイメントの凄味を思い知らされる。ここでは「写真週刊誌の特ダネ至上主義」も、「日本人のアメリカ信仰」も、「アイドル生成のメカニズム」も、果ては「チェルノブイリ」まで「ネタ」としてまぜこぜに飲み込まれて『極東セレナーデ』という一冊の本になってしまう。「なんでもあり」ながら、決して「なしくずし」でないところはこの著者の批評眼の鋭さを伺わせる。ただしキャラは「駒」にすぎず、その「駒」が小林信彦の意見を代弁しているだけとも言える。
《書評2》朝倉利奈がとても冷静で賢い。シンデレラストーリーと、そこからの脱却。正直、「原発の話をここで持ってくるのか〜」と思わなくもなかった。

(68)-4 「原発」(「3・11」福島第1原発事故後)の問題を描いた「震災小説」:川上弘美『神様2011』(2011・9月)、古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』(2111・7月)!
F-8  しかし全体としてみれば、日本の小説は「原発」積極に描いてきたとは言えない。震災(2011・3・11福島第1原発事故)にいち早く反応して書かれた小説は川上弘美(1958-)『神様2011』(2011・9月)だ。これは『神様』(1998)を3・11後バージョンに書き直したものだ。くまとの散歩の後、くまは別れ際に「ガイガーカウンター」で私の全身の放射能を計測する。(238頁)
F-8-2  単行本のあとがきで川上弘美は述べる。「静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから」(239頁)

《書評1》「あのこと」が起こった2011年に、書き直した『神様2011』。「あのこと」により、生活、日常は大きく変わった。それでも生きていかなくてはならない。日常は続いていく。川上さんは、静かに激しく怒っている。自分自身に向かって。『神様』には、熊の神様が『神様2011』には、ウランの神様が描かれている。そして、現在も大きな出来事により日常が変わっている。
《書評2》東日本大震災のあとこんなにも世界は変わってしまった。川上さんのあとがきはウランの分裂をやさしくわかりやすく説明してくれて、「私たちのすべきことは何か」ということを考えさせてくれる。
《書評3》ウランという神様は、人間の手によって、その力を悪い方向に発揮した。それは人だけでなく、他の神様をも殺め、日常に違和感を残した。「得体の知れないなにか」を気にして生きていく。その原因を作り出したのが人間である事を忘れてはならない。

F-9  もう1作、震災後ほどなく書かれたのは古川日出男(1966-)『馬たちよ、それでも光は無垢で』(2011・7月、45歳)だ。古川は震災から1か月後、被災地を自身の目で確かめるべく出身地の福島を訪れる。だが彼は何も書けない。(239頁)
F-9-2  そこに狗塚牛一郎(イヌヅカギュウイチロウ)―東北の歴史を描いた古川の小説『聖家族』(2008)の登場人物―が現れる。小説は牛一郎に乗っ取られる。フィクションとノンフィクションの融合。小説の後半は相馬の「馬」の記述で埋め尽くされる。テキストは混乱する。(239頁)
《書評1》3・11のあとの、古川日出男の備忘録。『聖家族』を読んでいたので、ちゃんと理解できた気がする。嘘はない、書けない、切実な思いがあふれている。故郷をよごされた怒り、悔しさ。
《書評2》当たり前のように物語を書いてきた。ただ書きたいから書いてきた。それができない。福島がFukushimaになったあの日から。なぜ私はこちら側でのうのうと生きている?時間の感覚を失う中でただ声だけがする、そこへ行けと。書けなくなった福島出身の小説家が震災後の福島を見る。誠実な言葉が行き場のない怒りと哀しみと涙を誘う。書けなくても書く。その姿が重たく苦しい。それでも聞こえる、「物語がいるんだろう?」って。誠実な記録を物語が侵食する。でも、それも小説家古川日出男の現実なのだ。

★古川日出男『聖家族』(2008、42歳)
《書評1》東北でありみちのくであり、本州の果ての鬼門であった地の700年にわたり連綿と繋がれてきた記録と記憶。正史の裏に密やかにしかし確実に存在していた、記録されていない記録、つまり口伝。はっきりいって物凄い。怒涛の勢いで押し寄せてくる文圧。
《書評2》青森の旧家に生まれた三人兄妹の長い長い物語。都から見て丑寅の鬼門、東北と呼ばれる地域で起きる様々な出来事。時代を超え綿々と続く物語。この作品は東日本大震災前に書かれているが、震災を経た今読むと、搾取され続けた東北の痛みを感じる。

(68)-5 「3・11」福島第1原発事故後「反応が早かった」だけの震災小説:高橋源一郎『恋する原発』(2011)、福井晴敏(ハルトシ)『震災後』(2011)!
F-10  2011年に発表された「震災小説」には、ほかに高橋源一郎(1951-)『恋する原発』(2011)がある。これは、AV監督の「おれ」が「恋する原発」という震災のチャリティAVを制作するという、不謹慎なだけが取り柄のドタバタ喜劇だ。(239頁)
《書評1》はじけてしまっている文章でなかなか感想が書きにくいが、よく見ると、社会に対する批判や風刺が浮き彫りになる。「あの日」以来、私たちの将来が不安の影に覆われているいま、科学技術との付き合い方もよく考えなければならないのだろう。なお、途中に挿入されている「震災文学論」の部分はまじめな評論になっている。
《書評2》登場人物たちの台詞や文章の所々に社会風刺が効いているところに、何かあればすぐに「不謹慎」と言われてしまうような、「発言しにくい最近の閉塞した空気感」を打破しようという高橋源一郎の熱い気持ちを感じた。
《書評3》全く意味がわからない。意味のわからない音を発してパンクロックをかき鳴らしたような・・・・。その衝動が戦っているのは世界の理不尽。理不尽に対抗できるのは、理不尽。読んで何かを得るようなものではないし、一つ一つの描写や表現を不快に感じる方も多いかと思う。オススメするような本ではない。でも強烈なインパクトはある。それは確か。

F-11  さらに、2011年に発表された「震災小説」に、福井晴敏(ハルトシ)(1968-)『震災後』(2011、43歳)もある、これは、東京のサラリーマン一家を主人公に、「原発」を「家族の問題」にすり替えた人情ファミリードラマだ。作者の意図はともかく、「反応が早かった」という以上の意義は認めにくい。(斎藤美奈子氏評。)(239-240頁)
《書評1》震災により「大人たちを信じられなくなり、未来に希望を見い出せなくなった」中学男子と、その家族の再生物語。主人公・野田と同じ中学男子の親として気持ちは分かる。でも同じ親だからこそ「オタオタして肝が据わってない」野田に嫌悪さえ感じた。あの時、私自身は「家なんて器はどうでも良くて、子ども達さえ元気に育てられるなら、宇宙の果まででも連れていく」覚悟が出来ていたよ。解説が石破茂氏ってのが凄い。そして思わず笑ってしまった。
《書評2》被災したとは言えない東京多摩地区に住む一家族にスポットライトを当て、あの日の爪痕が日本国民に「闇」となって巣くっていることを描き出した。
《書評3》ある時は人の親、ある時はだれかの子供。「試練を与えられた時にどのように立ち向かい乗り越えるか?」「わが子をちゃんと導けるのか?」そんなことを問いかける東日本大震災を題材にした親子三代そして家族愛の物語。ノンフィクションとフィクションを上手く取り混ぜて、最後は「未来に希望を忘れかけた日本人」へのメッセージをきっちり主張。(言いたいことがありすぎて冗長のきらいあり。)「日本は現場力の国」という言葉に大いに共感!

(68)-6 歴史的に虐げられてきた東北の悲しみをパワーに変えた:木村友祐(ユウスケ)『イサの氾濫』(2016)!
F-12  木村友祐(ユウスケ)(1970-)『イサの氾濫』(2016、46歳)は「震災小説」として特筆すべきだ。40歳にして会社を辞めた主人公の將司(マサシ)が震災後、故郷の青森県八戸市に帰る。亡き叔父イサは手のつけられぬ乱暴者だった。イサをよく知る老人が言った「こったら震災ど原発で痛(イダ)めつけられでよ。・・・・暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ」(240頁)
F-12-2  おらがイサだ。酔って突然そう思った將司=イサは、妄想の世界で西を目指す。進むにつれ人の群れは膨れ上がり、ダチョウ、牛、犬、猫も加わり、無数のイサが永田町になだれ込み、国会議事堂に矢を放つ。(240頁)
F-12-2 -2 この小説は歴史的に虐げられてきた東北の悲しみをパワーに変えた。数ある震災関連小説の中で、傑出した作品だ。(斎藤美奈子氏評。)(240頁)

《書評1》主人公は青森出身だが、都内での生活の方が長い。実家には折り合いの悪い父親が居り、故郷への強い思い入れもない。といって都内にも居場所はない。震災後、被災地にも東京にも身を置けない自分と、叔父イサを重ねるようになる。乱暴者だった叔父イサの孤独と怒りは自身のものとなり、それは東北の悔しさとして表れ、「頑張れニッポン!絆!」の嘘臭さに、絞り出すような叫びを上げ爆発する。重い。けれども、受け止めなければいけない重さに怯んだ。
《書評2》『イサの氾濫』は、震災、原発事故後の東京に溢れる「偽善と欺瞞」を真正面からぶん殴った作品。「東京五輪」の傲慢さや「がんばろう東北」の欺瞞!
《書評3》すごいものを読んだ。八戸出身の作者がどのような思いでこれを書いたのか?私も震災後やたらとメディアに踊る「ガンバレ日本」「絆」の文字に何だか言いようのない違和感をもった。でも小説内で語られる被災当事者の思いは、そんな違和感で片付くものではない。かといって「これだ」と断言できるものでもなく、ぶつけようのない、怒りにも似た「叫び」だ。

(68)-7 「人の死にかかわる震災を安易に書くべきでない」という「日本流の言論弾圧」?
F-13  古典文学研究者の木村朗子(サエコ)(1968-)『震災後文学論――あたらしい日本文学のために』(2013、45歳)は、「震災や原発事故を描いた作品が少ない」と指摘し、「日本流の言論弾圧」があったのではないかと述べる。確かに「人の死にかかわる震災を安易に書くべきでない」という雰囲気が震災直後にあった。(240-241頁)
F-13-2  だがその後、結果的に震災はおびただしい作品を生んだ。小説ももちろんだが、詩歌、エッセイ、ノンフィクション、評論、映画、演劇、アートなど。(後述)(241頁)
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