宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『つむじ風食堂の夜』吉田篤弘(1962生)、2002年、ちくま文庫

2011-09-11 22:22:38 | Weblog
 《食堂》
 つむじ風食堂にある皿にあるたくさんの「傷」。それらが思いおこさせる懐かしさ。
 
 《エスプレーソ》
 私、つまり「先生」の父は手品師だった。「先生」は物書き。
 父は、子どもの私を劇場に連れて行った。その地下のコーヒースタンドで、父はエスプレーソを飲んだ。
 マスターは、タブラさんと呼ばれた。
 「先生」は、すべてのものに平等に降る雨が好き。「先生」は人工降雨(雨乞い)について風俗史的に調べる。

 《月舟アパートメント》
 「先生」は月舟アパートメントの7階、屋根裏部屋に住む。
 「果物屋の青年」はいつも本を読む。
 月舟アパートメントの5階に舞台女優の奈々津さんが住む。彼女はいつも主役になれずイライラしている。
 「自信がなさそうに迷うのは嫌い!」と奈々津さんが「先生」に言う。後で、しかし「ごめんね」と謝る。

 《星と唐辛子》
 「先生」は、「ワニの涙とは虚構である」などの雑文を書く。今は、唐辛子について書く。
 走ることはない。急ぐことはない。人を走らせるのは醜い化け物と「先生」。
 「果物屋の青年」は夢を持つ。彼はイルクーツクの星を描きたい。

 《手品》
 「年を取ると無駄な知識が増え、大きなテーマを忘れる。夢や欲望が消える。」と「帽子屋」が言う。
 「オレは、世界に同化し外側になることで、オレを見ることができる」と「帽子屋」。
 「オレを、オレのまま逃がしたい」と食堂の店主。
 オレなどなくても「果物屋の青年」には「星」がある。

 《帽子と来客》
 「私のために、お芝居をひとつ書いてほしい」と奈々津さん。それも「ひとり芝居を書いてほしい」と頼む。
 「先生」は、考えさせてほしいと答える。

 《奇跡》
 父が手品を演じた昔の劇場は、美術館に建替えられた。
 美術館の地下に、昔のコーヒースタンドが残っていた。「珈琲タブラ」の看板!
 タブラさんの息子と、手品師の息子(「先生」)が出会う。
 「先生」が言う。書く仕事は手品のようなもので、小さなものを大きく見せたり、何もないところから花を咲かせたりする。

 《つむじ風》
 奈々津さんが言う。「ここ」とは、つむじ風みたいな「小さな交差点」のようなものだと。
 「先生」は芝居を書くと決意し、「どんなお芝居にしましょう?」と奈々津さんに尋ねる。

 《月舟町余話―あとがきにかえて》
 月舟町は頭の中だけにある。
 しかし頭の中にあるなら、それだけの理由がある。

 《評者の感想》
  1
 作品は、父の思い出を懐かしく描く。
  2
 「先生」つまり私は、手品を誇りに思う。
 また「先生」は、物書きと手品師がある点で共通だと言う。「小さなものを大きく見せたり、何もないところから花を咲かせたりする」。
  3
 「オレをオレのまま逃がしたい」と、自己の素直な肯定:食堂の店主。
 他方で、青年(「果物屋の青年」)の「夢」が肯定される。「夢」は、その人の自己(「オレ」)を超える。
  4
 人生において急ぐことを著者は拒否する。「走ることはない。急ぐことはない。人を走らせるのは醜い化け物」と著者が言う。
 しかし、そうだろうか?
 評者は、つい走ってしまう。急いでしまう。
 人を走らせるのは、人の生に内在する必然性、あるいは苛烈な運命。
 それは化け物かもしれないが、醜くはない。

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