宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『シズコさん』佐野洋子(1938生)、2008年、新潮文庫

2011-09-19 21:48:45 | Weblog
 著者が母親「シズコさん」について書く。反抗と和解の物語。
  1 反抗
 著者は母親にずーっと反抗してきた。4歳の時、手をつなごうとすると、母さんに手を振り払われた。二人のきつい関係の始まり。
 父さんは50歳で死んだ。私は19歳で母さんは42歳だった。1957年。
 母さんは劣等感からか、見栄をはる。
  2 モガ
 昔、1933-35年、母18-20歳、母さんはモガだった。(母、1915生)。
 父と母は恋愛結婚で結婚式を挙げていない。
 母さんはいつも、きちんと化粧していた。 母は、女として見栄と自慢を心棒にして生きた
  2-2 乳母捨て山
 今、母さんを老人ホームに入れ、自分は乳母捨て山に母を捨てた娘と思う。私の母への憎しみ、母を愛さなかったことへの自責の念から、母を特上の老人ホームにいれた。
  3 満鉄調査部
 北京での生活。父は帝大を出て満鉄調査部に勤務。母は20代後半だった。1945年まで。私7歳、母30歳まで。植民地支配者の「ワルモン」の生活。
  3-2 化粧
 1992年、母が77歳、私が54歳の時、私は罪滅ばしに母をヨーロッパ旅行に連れて行く。母はバッチリ化粧し、ネックレスをつけ、花柄のワンピースで、ハイヒールをはいて夕食に行った。母が旅行先から書く手紙はいつも感傷的で芝居がかっていた。
  4 父の死
 1957年(昭32)、父が死んだ(50歳)。父は地方公務員で官舎住まい。子供4人。母は負けん気と見栄で、この世を乗りきろうとした。母は市の母子寮の寮長となった。そして、父が死んで6年目、母は家を建てた。(1963年?)
 弟への父の期待は狂気じみ、弟は日記に「僕は父さんが死んでうれしい」と書いた。
 父の友人の渡辺先生が、残された子供たちの大学進学の学費を関係者から集めてくれた。
  4-2 嫁の悪口
 母は弟の嫁の悪口をさんざん言った。母は老人ホームにはいることを娘に伝えた。しかし娘3人、誰も引き留めなかったのでひどく泣いた。
  5 中国からの引き揚げ:《引き揚げ者時代(1947-49年)①》
 終戦の年、1945年、母が30歳、私が7歳の時、子供が5人いた。中国から引き揚げてくる。(1947年2月)父(7男)が買った家には長兄が居座った。この伯父は、父の死後、テテなし子4人からの無心をおそれ、絶縁状をよこした。
  5-2 兄の死
 私が9歳(小3)の時、1947年に、2歳上の兄が死んだ。兄の死とともに、母の私への虐待が始まった。
  6 仮小屋:《引き揚げ者時代(1947-49年)②》
 戦後、引き揚げ後に住んだ家はひどい家だった。田植え用に田んぼの中に作られた仮小屋を親戚から借りる。水道がないので川から水を天秤棒にバケツをくくりつけ運んでくる。それが私の役目。遊んで帰り水を汲まないと母が私の頭をグリグリ、柱に押しつける。赤ん坊が生まれると、川でのオシメの洗濯が私の役目となる。冬は寒く水が冷たい。きちんとオシメを洗わないと、母によって臭いオシメを顔に押し付けられた。「おしん」などたいしたこないと後に思った。畑の草取りも母から命じられた。大変だった。
 私は小学校の通信簿の「オール5」がうれしかった。
  7 虐待
 大学卒業後、就職し、デパートの宣伝部で私のポスターが採用された。母はしかし全く喜ばず暗く不機嫌だった。
 絵が抜群にうまかった兄が死んだ翌年、私が小4の時、1948年、絵で知事賞を取ったときも母は、不機嫌で喜ばなかった。
 妹は、母が私を虐待したのは、父の死(1957年)の後、母(42歳)が性的欲求不満だったからではないかと言う。私は、しかし、兄の死が、私への虐待の最大の理由と思う。母は私に死んで欲しかったのだ。
  8 静岡の官舎:《引き揚げ者時代(1947-49年)③》・《静岡の官舎へ(1949年)》
 私たちは引き揚げ者だった。昭和22年(1947年)2月大連から引き揚げて来る。母は百姓が嫌いだった。母は社交的で明るい人だった。享楽的で楽しいことが好きだった。
 小6になった年(11歳)、1949年に、一家は静岡の官舎に移る。水道があり、妹のおしめも取れた。母さんの手荒い仕打ちはぴたっと止まった。社交性が花開いた。陽気な笑い。客好き&もてなし好き。
 しかし母さんのおかげで私はめったに泣かない女になっていた。
  9 高校教師:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その1)。私11歳-19歳の年。母34歳-42歳。》
 母の水餃子はおいしかった。母は一生、「お若いですね」と言われていた。
 夕食の時、父は必ず訓辞をたれた。「創意工夫」と必ず言った。父は一度も浮気をしなかった。稀有なこと。父は帝大卒で、戦後は高校教師。
  10 シゲちゃん・キミちゃん:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その2)》
 叔母の家に、知的障害がある母の弟(ヒーヒーしか言わないシゲちゃん)&妹(ドタドタ歩くキミちゃん)がいた。私との結婚前、夫は、遺伝のことで「結婚したくない」と初めは言っていた。
 父と母は大恋愛。父さんが親友の恋人を取った。母は実用的で、帝大出と結婚すると言っていた。父は帝大出。「女はプロポーズされるように持って行くのが腕よ!」と母。
  11 反抗期:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その3)》
 私は大人に好かれない子どもだった。私は大学の附属中学に合格・進学するが、父母とも生意気になると反対だった。1951年、13歳、私の反抗期のスタート。1956年、18歳まで私は家で口をきかなかった。私を反面教師に二女は愛嬌が良く、父にも母にも気に入られた。私は、12歳年下の妹をかわいがった。
  12 母50歳-70歳
 母は長女だが、知的障害がある弟のシゲちゃん、妹のキミちゃんを引き取らなかった。母さんは知恵遅れの自分の弟・妹を嫌いだった。叔母がふたりを見た。
 母は身ぎれいで、化粧バッチリ、「若い」と言われた。母は牛込柳町の出身。母は「ごめんなさい」と「ありがとう」を言ったことがない。そう言うことが「人生の負け」と思っていたのかもしれない。
 私(1938生)の30歳-50歳、母(1915生)50歳-70歳は、私と母の関係は平穏だった。
  13 清水の一軒家:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その4)(この後半が、清水時代①)》
 私の反抗期が激しくて、母が泣きながら「私のどこが悪いのよ」と云った。私は「優しくない」と云った。母は黙った。
 母は人好きな父のため、料理を作り、機嫌良く同席し良く笑った。母は父の帰宅前、必ずお白粉をはたき口紅をムパッとつけた。父と母は毎晩、夫婦喧嘩をしていた。
 父の転勤で清水に移り、官舎が長屋から一軒家になった。母はお花を習い始めた。父が死ぬ前の5年間くらい、清水の時代は母が一番幸せな時代だった。母は父の教え子たちを上機嫌でもてなし、楽しそうに話に加わり、お客好きだった。
  13-2 現実主義者
 父は左翼だった。母は左翼かぶれにならず、頑迷な現実主義者で抽象的な議論などしなかった。母は有能な主婦。家はいつも「子どもが居ない家」みたいにきれい。
 私は「ごめんなさい」・「ありがとう」を言わない母が嫌いだった。母が呆けて初めて優しい会話ができるようになった。
 妹も私も、母が恋しくて「ホームシック」になるなどなかった。かわいそうな母さん、かわいそうな私たち。
  14 生け花:《父の死以後の時代(1957-、母42歳-):清水時代②》
 母は弟子をとって生け花を教え始めた。
 私は18歳のとき、東京に出てきた。私は大学を卒業した年の10月に結婚した。私は30歳で子どもを産んだ。
  14-2 母が家を建てる:《清水時代③》
 私が30歳の時、母(53歳)は清水に、家を建てた。(1968年?)「姉さん男が居るわよ」と叔母が言った。母さんは、ばれるようなドジは踏まない。黒でも白と平気で開き直る。母は生け花を教え、短歌、俳句、コーラスをやる。行動力と積極性。
  14-3 弟夫婦との同居と嫁ノイローゼ:《清水時代④》
 弟夫婦と同居すると、母は嫁の悪口ばかり言った。母は嫁ノイローゼだった。家は、母の家。
 70歳の時、母は胃ガンで胃を摘出した。母に親友がいて、母は彼女を本当に信頼していた。その親友が入院していた母に付き添った。
  15 《母、清水から東京へ:母78歳・79歳(1993-94年)》
 公務員の弟が、飲酒の交通事故で公務員を懲戒免職になる。清水の家から母は、嫁によって追い出され、東京の私のところに来た。私は、弟の嫁から「お母さんを引き取っていただきます」と言われた。
 2年近く、私は母と同居とした。母は、生活基盤を失って、優しいおばあさんになってしまった。母は私の連れ合いに遠慮して、何も云わない。自分の部屋で母は1日中、テレビを見ていた。
 母はショッピングカートを「嫌だわ、年寄りくさい」と云って一度も使わなかった。
 1994年、母79歳のとき(私56歳のとき)、母は呆けがすすみ目の前の病院がわからない。
  16 《母、老人ホーム時代(1995-2006)》
 1995年、母80歳、老人ホームに母を入れた。毎月30万円以上かかる高価な老人ホーム。母は社交を開始し、化粧をし、洋服を取り替え、ネックレスをつけて食事した。妹は毎週、老人ホームに行った。私がたまに行くと「まあ洋子なの」と母が喜んだ。
  17 健気な母親
 母は22歳から子を産み、32歳に5人の子持ちだった。(私は32歳で2歳の子ども一人なのに髪を振り乱していた。)32歳の母は引き揚げ船の船底で、健気な母親だった。10歳の兄から乳飲み子まで5人いた。
  17-2 戦後民主主義
 個性の戦後民主主義の時代になり、母の地金が全開した。母は父に口答えするようになり、子どもを小突きまわすようになる。権利だけを主張する時代。夫婦喧嘩の最中に父が「お前は変わった」と言い、母が黙った。
  17-3 父の帝大出の友人たち
 父が死んだとき、母は42歳。19歳の私をかしらに4人の子ども。母は公務員になり(母子寮の寮長)、子どもを大学まで通わせた。父の友人(帝大出)たちが母を支えた。友人の友人が知事だった。
  17-4 『中国農村慣行調査(満鉄調査部)』
 母は父を尊敬していた。父たちが行っていた『中国農村慣行調査(満鉄調査部)』6巻(1952-58出版)は朝日文化賞を受けた。彼らグループは一生の付き合いだった。父(サノリイチ)は‘カミソリ’と言われた。病弱で頭ばかり冴えていた父が、現実的でたくましく健康だった母に惚れたのかもしれない。
  18 母:精神はタフで荒っぽかった
 父が死に42歳の母には女の色香があったはず。性的誘惑も多かったはず。母が「お父さん、お父さん」と泣いたことがあった。母には後に男友達もいたが、母は父を尊敬していた
 18歳で私は東京に出て、一浪して美大に入った。
 母は愚痴をこぼし人の悪口も言ったが、しょぼくれた母は見たことがない。精神はタフで荒っぽかった。母は子どもの話をしみじみ聞くことがなかったので、子どもは母に話さなくなった。
  19・20・21 母は老人ホームに12年も居続けた(母80-91歳)
 母は、77歳で自分の家を追い出された。80歳のとき、老人ホームに入る。やがて母は呆け、優しいおばあさんとなる。ヘルパーさんに「どうもありがとう」「ごめんなさい」と母は言うようになった。
 母が正気のとき、強く、荒っぽく、乱暴で険しい人だったから生きてこれたと思う。私が父のお気に入りだったのが、母には気に入らなかったのかもしれない。
  22 北京時代
 北京時代、黒いビロードの支那服にハイヒールを履いて、母は父と出かけた。母は綺麗だった。中国時代は、普通の母さんらしい母さんだった。
  22-2 かわいい母さん
 母さんは呆けてかわいい母さんになった。
  23 母は満91歳で死去した
 私は父に似て、母の嫌なところをつめてつめまくった。母は、父に似て優秀な娘に嫉妬した。
 母は、2006年、満91歳で死去した。(2006年)母さんは、波乱に満ちた生涯を実に力強く生きた。母は、一番気の合わない娘の私を、一番、信頼していた。私は70歳(2008年)。静かで懐かしいそちら側に私も行く。ありがとう。すぐ行くからね。


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