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北九州の先進文化が、まず出雲へ、次いで瀬戸内海航路で吉備へ、さらに「大和」へ! 320年代邪馬台国を滅ぼした大和朝廷が、4世紀中葉に出雲を制圧! 武光誠『「古代日本」誕生の謎』「第2章」(その4)

2019-10-04 09:32:48 | Weblog
※武光誠(1950-)『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』(1991, 1999, 2006)第2章「戦乱時代の勝者」

Cf. 出雲の最盛期(2世紀中葉)は邪馬台国卑弥呼の時代より約20-30年古い。
Cf. 2世紀初め、古代出雲の文化は最盛期に向かう途上にあり、その100年後、ようやく3世紀初め、220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立する。出雲は、大和より100年以上古い!
Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!

第2章(その4)「国譲りと出雲神宝」(170頁-)
(1)4世紀初頭(320年代)に邪馬台国を滅ぼした大王が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た!
A 大和朝廷は4世紀初頭(320年代)に邪馬台国を滅ぼし、北九州を押さえた。大王が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た。(Cf. 邪馬台国の後ろ盾の魏・晋が317年、滅んだ。)
A-2 紀元前200年ごろに弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。(Cf. 中国人が朝鮮半島に侵入し紀元前2世紀初頭に「衛氏朝鮮」を作ったので、朝鮮半島の住民が追われて日本に来て、弥生文化を発展させた。)(なお 紀元前1000年前後に、朝鮮半島からの移住者が水稲耕作を持ち込み、弥生文化を作った。)
A-3 4世紀初頭(320年代)以来、大陸文化が「大和」に直接入るようになった。各地の首長は先進文化を得るため、大和朝廷に従う。朝廷の日本統一が加速度的に進む。

《感想1》4世紀初頭(320年代)、大和朝廷が邪馬台国を制圧。その政治的・外交的意味は極めて大きい。「大王」(オオキミ、天皇)が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た!(Ex. 5世紀の倭の5王)

(2)4世紀初頭、日本海沿岸航路の中心だった出雲は、「大和」、北九州と並ぶ第3の文化圏だった!
B 出雲は4世紀初頭、「大和」、北九州と並ぶ第3の文化圏だった。(※吉備は「大和」と同盟していた。)320年代に北九州を押さえた大和朝廷は、出雲を支配下に組み入れようとした。
B-2 古代出雲は潟湖が多く良港をもち、日本海沿岸航路の中心だった。
B-3 出雲の首長は、九州の首長と交流し、また「越」(コシ、越前・越後)との関係も深かった。弥生時代の開始とともに北九州の稲作が出雲に伝わった。(※ここで弥生時代の「開始」とは紀元前200年ごろに弥生文化つまりをもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来たことを指す。)
B-4 出雲に独自の文化が生まれるのは弥生時代中期中葉(1世紀中葉)。(Cf. それ以前は北九州と連動。)それから100年で古代出雲の文化は最盛期をむかえる。(※2世紀中葉)

《感想2》2世紀初め、古代出雲の文化は最盛期に向かう途上にあり、その100年後、ようやく3世紀初め、220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立する。出雲は、大和より100年以上古い!

(2)-2 荒神谷(コウジンダニ)遺跡の2世紀中葉の358本の銅剣は、出雲の豪族の団結を示す銅剣祭祀の跡だ!
B-5 荒神谷遺跡の2世紀中葉の358本の銅剣(1984年発見)は、出雲の豪族の団結を示す銅剣祭祀を示す。(4地域の神社数に対応する。)政治を扱う意宇(オウ)郡の出雲氏と祭祀に当たる出雲郡の神門(カンド)氏。(聖地が仏経山、その近くに荒神谷遺跡あり。)
B-6 なお加茂岩倉遺跡(2世紀中葉~末)の38個の銅鐸は磐座(イワクラ)を祀る地方首長の祭祀だ。

《感想2-2》古代出雲の文化の最盛期2世紀中葉は、卑弥呼(位184-250頃)の時代の約20-30年前だ。(Cf. 107年、伊都国王帥升(スイショウ)の後漢への通交の約40年後。)要するに、古代出雲の文化の最盛期2世紀中葉は、卑弥呼の時代の前だ!

(3)大和朝廷は、その成立当初から、出雲・吉備と強いつながりを持っていた!
C  紀元前200年ごろに弥生文化(つまり「区分の発想」)をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。これによる水稲耕作の開始で、弥生時代の北九州の人口が爆発的に増加。
C-2 紀元前後に、北九州の人々が大量に西日本に移住。彼らが残した最大の遺跡が奈良県桜井市纏向(マキムク)遺跡だ。それは九州に発し、吉備を経てきた移住者が3世紀初頭に作った日本最古の都市だ。220年頃、纏向に「大和朝廷」成立。(既述)
C-3  要するに、北九州から、吉備を経て奈良盆地に移住した集団が、3世紀(200年代)初頭に大和朝廷を起こした。彼らは3世紀末に首長霊信仰を生み出し、全国支配への道を歩み始めた。(既述)
D 2世紀中葉から末にかけ、大和朝廷成立以前の大和や河内の人々は、当時先進地域だった「出雲」から多様な文化を受容した。そこに「吉備」の文化を持つ移住者が来て、3世紀初頭に「大和朝廷」を起こした。(220年頃、纏向!)
D-2 大和朝廷は、その成立当初から、出雲・吉備と強いつながりを持っていた。

《感想3》まとめ:2世紀(100年代)中葉から末に、大和や河内の人々は、先進地域だった「出雲」から多様な文化を受容した。そこに「吉備」の文化を持つ移住者が来て、3世紀(200年代)初頭に「大和朝廷」を起こした。(220年頃、纏向!)

(4)北九州の先進文化が、まず日本海沿岸(※出雲)に拡がり、次いで瀬戸内海航路を用いて各地(※吉備、次いで「大和」)に伝えられた!
E 出雲の銅剣は神そのもの(大国主命)だった。(Cf. 御神体の銅剣を仏経山の山麓に集めた2世紀の祭祀!)
E -2 出雲の剣神の信仰は、出雲平定後、石上神宮に取り入れられた。
E-3 素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して得た草薙剣(クサナギノツルギ)を天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したのは、剣神を祭る出雲氏が朝廷に服属したこと(320年代崇神天皇による邪馬台国併合)を示す。Cf. 三種の神器の中で八咫鏡(ヤタノカガミ)が最も重んじられる。(179-180頁)
E-4 出雲の荒神谷(コウジンダニ)遺跡は2世紀中葉(※150年頃)で、卑弥呼(位184-250頃)の時代の20-30年前、伊都国王帥升(シショウ)の後漢への通交(107年)の約50年後だ。当時、北九州では伊都国が全盛、出雲では出雲氏・神門氏の連合が支配し日本海航路で各地と交易。
E-5 吉備の文化が繁栄するのはその約20年後の2世紀末(※170年頃)、古代都市「大和」の形成はさらに50年後(※220年頃)。

《感想4》まとめ:北九州の先進文化(Ex. 伊都国の全盛、※100-150年頃)→出雲の荒神谷遺跡(※150年頃)→吉備の文化が繁栄(※170年頃)→古代都市「大和」の形成(※220年頃)。つまり北九州の先進文化が、まず日本海沿岸(出雲)に拡がり、次いで瀬戸内海航路を用いて各地(吉備、次いで「大和」)に伝えられた。(181頁)

(5)大和朝廷は4世紀(300年代)中葉に出雲を制圧する!
F 3世紀初頭になると、吉備の文化が出雲に浸透した。(Ex. 四隅突出型墳丘墓、吉備特有の特殊器台と特殊壺)
G 10代崇神天皇(実在した最初の天皇、《3世紀後半~4世紀初め》頃)のとき、大和朝廷の勢力が出雲に及ぶ。(Cf. 崇神天皇が320年代に邪馬台国を併合し、北九州を支配下におさめた。)
G-2 大和朝廷の勢力が出雲に及ぶと、出雲の豪族は親朝廷派と反朝廷派に分かれた。
G-3 大和朝廷は4世紀(300年代)中葉に出雲を制圧する。Ex. 370年頃、「大和」にならった前方後円墳が出現した。

《感想5》4世紀の天皇:10代崇神(320年代邪馬台国征圧)、11代垂仁、12代景行(※4世紀中葉に出雲征圧)、その子日本武尊、日本武尊の弟13代成務、14代仲哀(日本武尊の子)(妻が神功皇后)!

(6)大和朝廷による出雲征圧は4世紀中葉だが、「国譲り神話」は6世紀(500年代)中葉頃に整えられた!「天神(アマツカミ)」(大王の首長霊信仰)を、「国神(クニツカミ)」(祖霊信仰)(Ex. 出雲の大国主命が代表)の上に位置付ける!
H-2 それは大王の祖先とされる首長霊信仰に基づく「天神(アマツカミ)」を、祖霊信仰(※アニミズム)による「国神(クニツカミ)」の上に位置付けるために作られた。
H 大国主命が、天照大神の子孫に地上の神を差し出す「国譲り神話」は、6世紀(500年代)中葉頃に整えられた。
H-2 それは大王の祖先とされる首長霊信仰に基づく「天神(アマツカミ)」を、祖霊信仰(※アニミズム)による「国神(クニツカミ)」の上に位置付けるために作られた。
H-3 出雲の大国主命が「国神(クニツカミ)」の代表とされた。
H-4 天照大神の使者つまり朝廷の剣神、武甕槌(タケミカヅチ)の神が、出雲土着の武芸神、建御名方(タケミナカタ)の神を破る。(Cf. 朝廷の剣神が、すでに剣の祭祀のおおもとの出雲の剣神より上位だった。)

《感想6》「国譲り神話」(6世紀中葉頃)は、大和朝廷による出雲征圧(4世紀中葉)を反映する。
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