※前野隆司(1962-)『脳はなぜ「心」を作ったのか――「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫2010)(2004刊行、42歳)
第1章 「心」――もうわかっていることと、まだわからないこと
(1)「心」の5つの働き(松本元):「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」!
A 松本元『脳・心・コンピュータ』は、「心」は「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」の5つの働きからなると言う。(18頁)
(2)「知」「情」「意」!
B「知」(intellect)は考える作用。「情」(emotion)は感情。(Cf. 「感情」+身体反応を伴う「情動」。)「意」(volition)は意図や意志決定の働き。3つ合わせて「知情意」と言う。(19-20頁)
(3)「記憶と学習」(その1):「記憶」には「宣言的記憶」(言語で宣言できる)(「エピソード記憶」・「意味記憶」)と「非宣言的記憶」(Ex. からだで覚える)がある!
C 「記憶」とは覚えることだ。「記憶」(memory)には「宣言的記憶」(declarative memory)と「非宣言的記憶」(nondeclarative memory)がある。(20頁)
C-2 「宣言的記憶」は記号(※言語)やイメージを使って表せる(宣言できる)記憶だ。(20頁)
C-2-2 「宣言的記憶」には「エピソード記憶」(episodic memory)と「意味記憶」(semantic memory)がある。「エピソード記憶」は「日記」のようなもので、自分がいつ何をしたかをエピソードの連続として時系列的に順番に覚えていく記憶だ。「意味記憶」は「辞書」のようなもので、モノやコトの「意味」の記憶だ。時系列とは関係なく、例えばリンゴとは何か、色とは何か、心とは何かなどを、定義として覚えることだ。(20頁)
《感想1》人間世界は巨大・膨大な「意味」の記憶の世界だ。人間は「意味記憶」を背負って生きる。あらゆる「世間知」、学校の教科、諸々の「実学」・「資格」・「能力検定」、理学・工学・化学・天文学・経済学・法学等々「諸科学・学術」、諸企業・諸官庁の「文書」、文学・演劇・造形・芸術・エンタメの意味世界、政治・法・経済・文化・社会の意味世界、意味の担い手の基礎としての諸「言語」等々。人間が作り出す一切のモノ・コトは「意味」を担う。数十億の人間の膨大な「意味」的コミュニケーション!
《感想2》「エピソード記憶」は連続したアイデンティティ、つまり一個の人間を可能とする。
C-3 「非宣言的記憶」は記号(※言語)やイメージを使って表せない(宣言できない)記憶だ。日記(「エピソード記憶」)や辞書(「意味記憶」)に書けないような記憶。例えば「ボールの投げ方」や「スキーの滑り方」についての記憶など。しばしば「からだで覚える」と言われる。「ボールの投げ方」や「スキーの滑り方」は「脳が非宣言的記憶として覚えている」と言える。(21頁)
C-3-2 俗に「運動神経がいい」とは「自分のからだをどう動かしたらどうなるかということ」(内部モデル)を非宣言的記憶として覚えるのがうまいということだ。(Cf. 「内部モデル」については後述。)(21頁)
(3)-2 「記憶と学習」(その2):「学習」とは「記憶」の更新だ!
D 「学習」(learning)とは記憶している内容をよりよいものに更新していく働きだ。例えば、勉強における「意味記憶」の学習や、スポーツにおける「非宣言的記憶」の学習。(21頁)
(4)コンピュータやロボットも「知」「情」「意」「記憶と学習」という心の4つの働きは多かれ少なかれやっている!
E 心の5つの働きのうち、「知」「情」「意」「記憶と学習」の4つの働きは、コンピュータやロボットも、多かれ少なかれやっている。(21頁)
E-2 「知」(という心の働き)は、知的な情報処理。情報を検索したり、わかりやすく並べたりする働きを、コンピュータはむしろ人間よりも得意とする。(21頁)
E-3 「情」(という心の働き)をもったコンピュータは「ない」かもしれない。しかし(a)ペットロボットは「感情のようなもの」を示す。(b)ペットロボットは「怒るのか泣くのか笑うのかを決める働き」を持つ。(22頁)
E-3-2 感情が心で「意識」されるときの感じ(「クオリア」)をコンピュータやロボットが持つかどうかは「複雑」(※不明)だ。(「クオリア」については後述。)(22頁)
E-4 「意」(という心の働き)をコンピュータやロボットが持っていないと言えない。(ア) コンピュータは問題さえ正確に与えられれば、最もいい答えを見つけ出す意思決定が得意だ。(イ)例えば掃除ロボットはバッテリーが減ってきたら自分で電源のところに行く。(22頁)
E-5 コンピュータは「記憶」(という心の働き)は得意だ。またロボットは運動や行動を「学習」する(という心の働き)をもつ。(22頁)
E-6 要するにコンピュータやロボットは、心の5つの働きのうち、「知」「情」「意」「記憶と学習」の4つの働きは、多かれ少なかれやっているor少なくとも少しはできる。(22頁)
(5)コンピュータやロボットは「意識」(心の5つ目の働き)をまったく持っていない!
F かくてコンピュータやロボットは、心の5つの働き・要素(「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」)のうち、「意識」という心の働きをまったく持っていない。(22頁)
F-2 「意識」とは、モノやコトに注意を向ける働き(awareness)と、自分は私であることを認識できる自己意識(self consciousness)を合わせたものである。(22-23頁)
F-2-2 なおここで「意識」とは、「覚醒している」(be aroused、起きている)という意味でない。(22-23頁)
F-2-3 「意識」とは、「自分は今、見ている、触っている、喜んでいる、記憶を思い出している、自分のことを考えている」といったいろんなことを「感じる」心の感覚だ。(23頁)
(6)心の6つ目の働き:「意識」にもたらされたかぎりでの「無意識」!「意識化された無意識」!
F-3 ところで「無意識」とはなんだろうか。(23頁)
F-3-2 フロイトは「抑圧されたために意識に上らないような心の働き」を「無意識」と呼んだ。(23頁)
F-3-3 これに対し日常生活では普通に「無意識に何々した」と言う。ここではこのような「無意識」について考える。(23頁)
F-3-3-2 例えば立食パーティーでワイングラスを片手に談笑する私たちは(a)コップを落とさないような力を「無意識」に手の筋肉に加え、(b)転ばないような力を「無意識」に足の筋肉に加えている。また(c)ざわめきの中から話者の話を「無意識」に抽出してから聞き、(d)相手の顔のどこに目があるかを「無意識」に判断し、(e)自分の目の内直筋と外直筋肉を「無意識」に動かして視点を相手の目に定める。(23頁)
F-3-3-3 私たちは「意識」する以上にいろんなことを「無意識」にやっている。(23頁)
F-3-3-4 「意識」にもたらされたかぎりでの「無意識」、つまり「意識化された無意識」は、「心」である。(24頁)
F-3-3-5 かくて「心」は、「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」さらに「意識化された無意識」の6つの働きからなるということができる。(24頁)
《感想1》自分が「無意識」に動作・行為している・いたと、事後的に「意識」してはじめて、それらの動作・行為が「無意識」だったとわかる。
《感想2》さて今や、脳科学によって「脳」が「心」を可能にしていること、すなわち「脳」の働きは「心」の必要条件であることが明らかとなったと言われる。つまり「無意識」な「脳」の働きが、脳科学によって「意識化」された。かくて脳科学(の内容)は「意識化された無意識」であり、「心」の6つ目の働きに属する。
《感想2-2》「脳科学・医学等の身体や脳に関する一切の知見」は、「意識化された無意識」である。すなわち「脳科学等の知見」は「心」の(6つ目の)働きに属する、つまりそれら知見は「心」に属する。
《感想2-3》この前野隆司氏の著作『脳はなぜ「心」を作ったのか』における「脳」の「小人たち」(ニューラルネットワーク)についての知見も、「意識化された無意識」(脳の無意識な働きの知見としての脳科学)であり、それら知見は「心」に属する。
《感想2-3-2》つまり脳科学そのものが「心」の一部、つまり「意識」である。
《感想3》「心」とは「意識」のことだ。実は、「知」「情」「意」「記憶と学習(記憶の更新)」「意識化された無意識」(Ex. 脳科学・医学)すべてが「意識」に属する、つまり「心」に属する。
《感想3-2》 「意識」とは「世界の開け」である。あるいは宇宙の自己認識である。宇宙にずれが生じる。フッサールは「超越論的意識」(※宇宙そのものであるモナド)におけるノエシスとノエマへの「分裂・開け・ズレ」について語る。
《感想3-2-2》また唯識仏教においては、「自体分」(「認識以前の心」)が、「みる領域」つまり「見分」(ケンブン)(※ノエシス)と「みられる領域」つまり「相分(ソウブン)」(※ノエマ)に分化することによって認識が成立する(「認識する心」となる)と考える。(多川俊映『唯識、心の深層をさぐる』上下2022年、上73頁)
《参考1》「唯識仏教」における第八阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐって:「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下80-83頁)
[感想1] (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》をも、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》をも、《そのもの》として含む。
[感想1-2](2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。
[感想2] E. フッサールは『デカルト的省察』第55節「モナドの共同化と、客観性の最初の形式としての相互主観的自然」において、「動物」は「人間性(※「超越論的主観性」としての人間)の・・・・変様態」であると述べている。
[感想2-2] おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」も考えうる。なお無生物は「識体」でない。
[感想2-3]「識体」(心)(※超越論的主観性)においては、世界(宇宙)そのものが「現象」=「自体分」として出現し、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、つまり意識化される。つまり「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
[感想2-4]「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」=「自体分」である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
《参考2》「唯識」における認識の仕組みとしての「四分(シブン)義」:未分化の識「自体分」が、認識される「相分」と 認識する「見分」に分化し、「自証分」が認識の成立を自覚し、さらにそれを再確認するのが「証自証分」だ!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上110-113頁)
(A) 日本の唯識仏教である法相宗は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(上110-111頁)
(A)-2 唯識仏教は「識のはたらき」(認識の成立)をこれら4つの要素によって考察する。(上110-111頁)
(A)-2-2 この四分(4つの要素)は、八識の心王(識体)それぞれに、またそれらに相応する心所にもある。(上111頁)
(A)-2-3 未分化の心王(識体)(「自体分」)が、認識される領域の「相分」(※ノエマ)と 認識する領域の「見分」(※ノエシス)に分化し、いちおう認識の成立を見る。(上111頁)[感想]「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
(A)-2-3-2 そして「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)
[感想]「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
(A)-2-3-3 その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)
[感想]「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。
《参考3》「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(E. フッサール『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」中央公論社『世界の名著51』259頁)
[感想1]「心」(※超越論的主観性)において「対象」(もの・ことがら)は「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている」。これは言い換えれば、「対象」《それ自身》が「心」(※超越論的主観性)において出現するということだ。「心」(※超越論的主観性)において出現するこの「対象」《それ自身》が「現象」と呼ばれる。
[感想2]この「心」(※超越論的主観性)において「現象」として「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられ」る「対象」(もの・ことがら)の意味的規定=意味構成物(※ノエマ)(「相分」=「影像ヨウゾウ」)は、「心」(※超越論的主観性)の受動的総合と能動的総合によって構成される。
《参考4》第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる!「有根身」が消え去れば、身(シン)識は消え、触(ソク)境(キョウ)(「物」あるいは「物世界」)は認識対象でなくなるつまり《そのもの》として「現象する」ことがなくなる! ※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
(B)-3-3 第八阿頼耶識は有根身および器界(自然・環境)を認識の対象とすると、それ以降、いわゆる寿命のある限りは、第八阿頼耶識は無間断(ムケンダン)に(とぎれなく)、接触(「触」ソク)・起動(「作意」サイ)し続け、また「受」(捨受)(苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める)・「想」(受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる)・「思」(シ)(認識対象に具体的に働きかける)の三心所もそれぞれはたらき続ける。(下82-83頁)
(B)-3-3-2 しかし物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる。(下83頁)
(B)-3-3-3 「有根身」(ウコンジン)の死とは、「(※識体である)第八識およびそれに相応する心所」がその「はたらきを止める」ことだ。(下83頁)
(B)-3-3-4 かくて《「有根身」と「器界」》(※したがって「物」および「物世界」)は、認識対象でなくなる。(※《そのもの》として「現象」することがなくなる。)(下83頁)
《参考4-2 》「有根身」(ウコンジン)(※身体)の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
[感想1]「有根身」(ウコンジン)の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる。(評者の見解)
[感想1-2]そもそも《「物」あるいは「物世界」》(触境ソクキョウ)は、身(シン)根と不可分だ。身根と触(ソク)境(キョウ)が相互に触れあうことによって、身根と触(ソク)境の境界面に「物」が出現する。「有根身」の消滅は、同時に《「物」あるいは「物世界」》(触境を根本とする前五識の境の世界)の消滅だ。
[感想1-3]唯識仏教は、感覚器官(五根)がない意識を「第六意識」と呼ぶ。「第六意識」は倶舎仏教では、単に「意識」と呼ばれる。「意識」(「第六意識」)の認識対象は「法(ホッ)境」である。「法」とはものごと・ことがらであり、「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
[感想1-3-2]「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官(眼耳鼻舌身)がないので、多川俊映師は、端的に「現代風には『意根』とは脳神経かもしれない」と言う。(上46頁)
[感想1-3-3]「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)
《参考4-2-2 》「唯識」を体系化する以前の世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』について!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上43-47頁)
(C)-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(上43-44頁)
(C)-4-2 倶舎仏教は「心王」(※主観性)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(上45頁)
(C)-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(上45頁)
(C)-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の《認識の直前に滅した眼識ないし意識》を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(上46頁)
(C)-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
(C)-5 倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(上46頁)
(C)-5-2 倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(上47頁)
(D) 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(上47頁)
《参考4-2-3 》「唯識仏教」の立場にたつ世親『唯識三十頌(ジュ)』について!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上21-22頁)
(E)世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(上21-22頁)
《参考4-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ!「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
[感想2]「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、すなわち、「現象」としての世界(宇宙)《そのもの》(「自体分」)が、「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化することだ。これが認識の成立、意識化、意識の成立である。「自体分」はその認識の成立を自覚する。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものである。
[感想3]おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」、人間の「識体」が考えうる。無生物は「識体」でない。
[感想3-2]「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、世界(宇宙)そのものが「現象」として出現し(「自体分」)、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、すなわち意識化が生じる、意識の成立という出来事そのものだ。
[感想3-3]「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
《参考4-4》人人(ニンニン)唯識:認識される世界は人それぞれ!「能変の心」(※構成する超越論的主観性)と「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下122-125頁)
(F) 唯識仏教は「人人(ニンニン)唯識」つまり「認識される世界は人それぞれ」と述べる。「心」は「能変の心」(※構成する超越論的主観性)であり、認識対象の「境」も「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)である。(下122頁)
(F)-2 カエサル(前100-前44)は「人は見たいものだけ見る」と言った。(下125頁)
《参考5》自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しない!「自分《と》世界」ではなく、「自分《が》世界」である!(池田晶子)
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下125頁)
(G)哲学者の池田晶子氏(1960-2007)が『知ることより考えること』(新潮社)で次のように言う。
「自分と世界」と人は言う。見える(※触れられる「物」としての)世界が先に在り、それを自分が見ている(※「物」としての「身体」において触れている)のだと、こう思うわけである。世界は、視界は(※触れる触れられるという出来事において)、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。(下125頁)
[感想1]評者は、池田晶子氏は次のように言うべきだったと思う。
「自分と世界」と人は言う。触れられる「物」としての(※見える)世界が先に在り、それを自分が「物」としての「身体」において触れている(※見ている)のだと、こう思うわけである。世界は、触れる触れられるという出来事(※視界)において、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。
[感想2]「触れる触れられるという出来事」が「物」の開け(そのものとしての「現象」の出現)である。「触れる触れられるという出来事」の境界面に「物」が「相互に他である」という出来事として出現する。この
「相互に他である」物の一方が《「身体」としての物》と呼ばれ、他方が《単なる「物」》と呼ばれる。触覚が「物」(相互に触れあう身体と物)を「現象」として出現させ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚は「物」の諸性質を「現象」として出現させる。
[感想3]《「身体」としての物》すなわち「有根身」(ウコンジン)は感覚器官として五根のほかに「意根」を持つとの倶舎仏教の考え方は修正されねばならない。倶舎仏教的には五根のはたらき(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とは別に「意根」のはたらきが「意識」と呼ばれる。
[感想3-2]だが唯識仏教的には「意識」には感覚器官としての五根のはたらき(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)も含まれる。唯識仏教の世親『唯識三十頌(ジュ)』によれば、「意識」は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性の「第七末那識」(マナシキ)、そして(「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として)最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)の全体である。「意識」は「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)である。
[感想3-3]またフッサール的には「意識」とは、「生命」の超越論的主観性であり、「意識」するつまり「開け」としての世界(宇宙)そのものであり、「モナド」である。
第1章 「心」――もうわかっていることと、まだわからないこと
(1)「心」の5つの働き(松本元):「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」!
A 松本元『脳・心・コンピュータ』は、「心」は「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」の5つの働きからなると言う。(18頁)
(2)「知」「情」「意」!
B「知」(intellect)は考える作用。「情」(emotion)は感情。(Cf. 「感情」+身体反応を伴う「情動」。)「意」(volition)は意図や意志決定の働き。3つ合わせて「知情意」と言う。(19-20頁)
(3)「記憶と学習」(その1):「記憶」には「宣言的記憶」(言語で宣言できる)(「エピソード記憶」・「意味記憶」)と「非宣言的記憶」(Ex. からだで覚える)がある!
C 「記憶」とは覚えることだ。「記憶」(memory)には「宣言的記憶」(declarative memory)と「非宣言的記憶」(nondeclarative memory)がある。(20頁)
C-2 「宣言的記憶」は記号(※言語)やイメージを使って表せる(宣言できる)記憶だ。(20頁)
C-2-2 「宣言的記憶」には「エピソード記憶」(episodic memory)と「意味記憶」(semantic memory)がある。「エピソード記憶」は「日記」のようなもので、自分がいつ何をしたかをエピソードの連続として時系列的に順番に覚えていく記憶だ。「意味記憶」は「辞書」のようなもので、モノやコトの「意味」の記憶だ。時系列とは関係なく、例えばリンゴとは何か、色とは何か、心とは何かなどを、定義として覚えることだ。(20頁)
《感想1》人間世界は巨大・膨大な「意味」の記憶の世界だ。人間は「意味記憶」を背負って生きる。あらゆる「世間知」、学校の教科、諸々の「実学」・「資格」・「能力検定」、理学・工学・化学・天文学・経済学・法学等々「諸科学・学術」、諸企業・諸官庁の「文書」、文学・演劇・造形・芸術・エンタメの意味世界、政治・法・経済・文化・社会の意味世界、意味の担い手の基礎としての諸「言語」等々。人間が作り出す一切のモノ・コトは「意味」を担う。数十億の人間の膨大な「意味」的コミュニケーション!
《感想2》「エピソード記憶」は連続したアイデンティティ、つまり一個の人間を可能とする。
C-3 「非宣言的記憶」は記号(※言語)やイメージを使って表せない(宣言できない)記憶だ。日記(「エピソード記憶」)や辞書(「意味記憶」)に書けないような記憶。例えば「ボールの投げ方」や「スキーの滑り方」についての記憶など。しばしば「からだで覚える」と言われる。「ボールの投げ方」や「スキーの滑り方」は「脳が非宣言的記憶として覚えている」と言える。(21頁)
C-3-2 俗に「運動神経がいい」とは「自分のからだをどう動かしたらどうなるかということ」(内部モデル)を非宣言的記憶として覚えるのがうまいということだ。(Cf. 「内部モデル」については後述。)(21頁)
(3)-2 「記憶と学習」(その2):「学習」とは「記憶」の更新だ!
D 「学習」(learning)とは記憶している内容をよりよいものに更新していく働きだ。例えば、勉強における「意味記憶」の学習や、スポーツにおける「非宣言的記憶」の学習。(21頁)
(4)コンピュータやロボットも「知」「情」「意」「記憶と学習」という心の4つの働きは多かれ少なかれやっている!
E 心の5つの働きのうち、「知」「情」「意」「記憶と学習」の4つの働きは、コンピュータやロボットも、多かれ少なかれやっている。(21頁)
E-2 「知」(という心の働き)は、知的な情報処理。情報を検索したり、わかりやすく並べたりする働きを、コンピュータはむしろ人間よりも得意とする。(21頁)
E-3 「情」(という心の働き)をもったコンピュータは「ない」かもしれない。しかし(a)ペットロボットは「感情のようなもの」を示す。(b)ペットロボットは「怒るのか泣くのか笑うのかを決める働き」を持つ。(22頁)
E-3-2 感情が心で「意識」されるときの感じ(「クオリア」)をコンピュータやロボットが持つかどうかは「複雑」(※不明)だ。(「クオリア」については後述。)(22頁)
E-4 「意」(という心の働き)をコンピュータやロボットが持っていないと言えない。(ア) コンピュータは問題さえ正確に与えられれば、最もいい答えを見つけ出す意思決定が得意だ。(イ)例えば掃除ロボットはバッテリーが減ってきたら自分で電源のところに行く。(22頁)
E-5 コンピュータは「記憶」(という心の働き)は得意だ。またロボットは運動や行動を「学習」する(という心の働き)をもつ。(22頁)
E-6 要するにコンピュータやロボットは、心の5つの働きのうち、「知」「情」「意」「記憶と学習」の4つの働きは、多かれ少なかれやっているor少なくとも少しはできる。(22頁)
(5)コンピュータやロボットは「意識」(心の5つ目の働き)をまったく持っていない!
F かくてコンピュータやロボットは、心の5つの働き・要素(「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」)のうち、「意識」という心の働きをまったく持っていない。(22頁)
F-2 「意識」とは、モノやコトに注意を向ける働き(awareness)と、自分は私であることを認識できる自己意識(self consciousness)を合わせたものである。(22-23頁)
F-2-2 なおここで「意識」とは、「覚醒している」(be aroused、起きている)という意味でない。(22-23頁)
F-2-3 「意識」とは、「自分は今、見ている、触っている、喜んでいる、記憶を思い出している、自分のことを考えている」といったいろんなことを「感じる」心の感覚だ。(23頁)
(6)心の6つ目の働き:「意識」にもたらされたかぎりでの「無意識」!「意識化された無意識」!
F-3 ところで「無意識」とはなんだろうか。(23頁)
F-3-2 フロイトは「抑圧されたために意識に上らないような心の働き」を「無意識」と呼んだ。(23頁)
F-3-3 これに対し日常生活では普通に「無意識に何々した」と言う。ここではこのような「無意識」について考える。(23頁)
F-3-3-2 例えば立食パーティーでワイングラスを片手に談笑する私たちは(a)コップを落とさないような力を「無意識」に手の筋肉に加え、(b)転ばないような力を「無意識」に足の筋肉に加えている。また(c)ざわめきの中から話者の話を「無意識」に抽出してから聞き、(d)相手の顔のどこに目があるかを「無意識」に判断し、(e)自分の目の内直筋と外直筋肉を「無意識」に動かして視点を相手の目に定める。(23頁)
F-3-3-3 私たちは「意識」する以上にいろんなことを「無意識」にやっている。(23頁)
F-3-3-4 「意識」にもたらされたかぎりでの「無意識」、つまり「意識化された無意識」は、「心」である。(24頁)
F-3-3-5 かくて「心」は、「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」さらに「意識化された無意識」の6つの働きからなるということができる。(24頁)
《感想1》自分が「無意識」に動作・行為している・いたと、事後的に「意識」してはじめて、それらの動作・行為が「無意識」だったとわかる。
《感想2》さて今や、脳科学によって「脳」が「心」を可能にしていること、すなわち「脳」の働きは「心」の必要条件であることが明らかとなったと言われる。つまり「無意識」な「脳」の働きが、脳科学によって「意識化」された。かくて脳科学(の内容)は「意識化された無意識」であり、「心」の6つ目の働きに属する。
《感想2-2》「脳科学・医学等の身体や脳に関する一切の知見」は、「意識化された無意識」である。すなわち「脳科学等の知見」は「心」の(6つ目の)働きに属する、つまりそれら知見は「心」に属する。
《感想2-3》この前野隆司氏の著作『脳はなぜ「心」を作ったのか』における「脳」の「小人たち」(ニューラルネットワーク)についての知見も、「意識化された無意識」(脳の無意識な働きの知見としての脳科学)であり、それら知見は「心」に属する。
《感想2-3-2》つまり脳科学そのものが「心」の一部、つまり「意識」である。
《感想3》「心」とは「意識」のことだ。実は、「知」「情」「意」「記憶と学習(記憶の更新)」「意識化された無意識」(Ex. 脳科学・医学)すべてが「意識」に属する、つまり「心」に属する。
《感想3-2》 「意識」とは「世界の開け」である。あるいは宇宙の自己認識である。宇宙にずれが生じる。フッサールは「超越論的意識」(※宇宙そのものであるモナド)におけるノエシスとノエマへの「分裂・開け・ズレ」について語る。
《感想3-2-2》また唯識仏教においては、「自体分」(「認識以前の心」)が、「みる領域」つまり「見分」(ケンブン)(※ノエシス)と「みられる領域」つまり「相分(ソウブン)」(※ノエマ)に分化することによって認識が成立する(「認識する心」となる)と考える。(多川俊映『唯識、心の深層をさぐる』上下2022年、上73頁)
《参考1》「唯識仏教」における第八阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐって:「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下80-83頁)
[感想1] (1) 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」は、小宇宙としての「モナド」である。「本識」たる第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)のみでなく、(b)有根身(ウコンジン)(身体)も(c)「器界」(自然など)も、《そのもの》として含む。つまり多くのモナド(八識という構造を持つ「心王」)が存在し、それぞれが小宇宙であり、それらモナド(小宇宙)(八識という構造を持つ「心王」)は《触覚の世界としての「物」(身体を含む)の領域》をも、つまり《 (b)有根身(ウコンジン)(身体)と(c)物世界としての「器界」(自然など)》をも、《そのもの》として含む。
[感想1-2](2) なお《 (c)物世界としての「器界」(自然など)》および《「器界」にとりまかれた(「物」であるかぎりの)(b)有根身(ウコンジン)(身体)》は、多くのモナド(小宇宙)に同一の共有されたものとして、それぞれの小宇宙つまりそれぞれの「モナド」(八識という構造を持つ「心王」or超越論的主観性)のうちに《そのもの》として出現する。
[感想2] E. フッサールは『デカルト的省察』第55節「モナドの共同化と、客観性の最初の形式としての相互主観的自然」において、「動物」は「人間性(※「超越論的主観性」としての人間)の・・・・変様態」であると述べている。
[感想2-2] おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」も考えうる。なお無生物は「識体」でない。
[感想2-3]「識体」(心)(※超越論的主観性)においては、世界(宇宙)そのものが「現象」=「自体分」として出現し、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、つまり意識化される。つまり「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
[感想2-4]「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」=「自体分」である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
《参考2》「唯識」における認識の仕組みとしての「四分(シブン)義」:未分化の識「自体分」が、認識される「相分」と 認識する「見分」に分化し、「自証分」が認識の成立を自覚し、さらにそれを再確認するのが「証自証分」だ!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上110-113頁)
(A) 日本の唯識仏教である法相宗は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(上110-111頁)
(A)-2 唯識仏教は「識のはたらき」(認識の成立)をこれら4つの要素によって考察する。(上110-111頁)
(A)-2-2 この四分(4つの要素)は、八識の心王(識体)それぞれに、またそれらに相応する心所にもある。(上111頁)
(A)-2-3 未分化の心王(識体)(「自体分」)が、認識される領域の「相分」(※ノエマ)と 認識する領域の「見分」(※ノエシス)に分化し、いちおう認識の成立を見る。(上111頁)[感想]「認識の成立」において、「相分」は《そのもの》として「現象」している。
(A)-2-3-2 そして「自体分」はその認識の成立を自覚する。これが「自証分」である。(上112頁)
[感想]「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。
(A)-2-3-3 その「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。(上113頁)
[感想]「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。
《参考3》「対象は、受動的経験の総合の中で、《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている。対象は、能動的把握作用とともにはじまる《精神的な》はたらきに対して,既成の対象として、あらかじめ与えられている。」(E. フッサール『デカルト的省察』第38節「能動的発生と受動的発生」中央公論社『世界の名著51』259頁)
[感想1]「心」(※超越論的主観性)において「対象」(もの・ことがら)は「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられている」。これは言い換えれば、「対象」《それ自身》が「心」(※超越論的主観性)において出現するということだ。「心」(※超越論的主観性)において出現するこの「対象」《それ自身》が「現象」と呼ばれる。
[感想2]この「心」(※超越論的主観性)において「現象」として「《それ自身》という根源的ありさまにおいて与えられ」る「対象」(もの・ことがら)の意味的規定=意味構成物(※ノエマ)(「相分」=「影像ヨウゾウ」)は、「心」(※超越論的主観性)の受動的総合と能動的総合によって構成される。
《参考4》第八阿頼耶識は有根身および器界を認識の対象とする!物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる!「有根身」が消え去れば、身(シン)識は消え、触(ソク)境(キョウ)(「物」あるいは「物世界」)は認識対象でなくなるつまり《そのもの》として「現象する」ことがなくなる! ※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
(B)-3-3 第八阿頼耶識は有根身および器界(自然・環境)を認識の対象とすると、それ以降、いわゆる寿命のある限りは、第八阿頼耶識は無間断(ムケンダン)に(とぎれなく)、接触(「触」ソク)・起動(「作意」サイ)し続け、また「受」(捨受)(苦でも楽でもなく、また憂でも喜でもなく、ただそのまま大きく受け止める)・「想」(受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる)・「思」(シ)(認識対象に具体的に働きかける)の三心所もそれぞれはたらき続ける。(下82-83頁)
(B)-3-3-2 しかし物質である肉体(「有根身」ウコンジン)も絶えず変化し、ついに老病死の終末となる。(下83頁)
(B)-3-3-3 「有根身」(ウコンジン)の死とは、「(※識体である)第八識およびそれに相応する心所」がその「はたらきを止める」ことだ。(下83頁)
(B)-3-3-4 かくて《「有根身」と「器界」》(※したがって「物」および「物世界」)は、認識対象でなくなる。(※《そのもの》として「現象」することがなくなる。)(下83頁)
《参考4-2 》「有根身」(ウコンジン)(※身体)の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
[感想1]「有根身」(ウコンジン)の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる。(評者の見解)
[感想1-2]そもそも《「物」あるいは「物世界」》(触境ソクキョウ)は、身(シン)根と不可分だ。身根と触(ソク)境(キョウ)が相互に触れあうことによって、身根と触(ソク)境の境界面に「物」が出現する。「有根身」の消滅は、同時に《「物」あるいは「物世界」》(触境を根本とする前五識の境の世界)の消滅だ。
[感想1-3]唯識仏教は、感覚器官(五根)がない意識を「第六意識」と呼ぶ。「第六意識」は倶舎仏教では、単に「意識」と呼ばれる。「意識」(「第六意識」)の認識対象は「法(ホッ)境」である。「法」とはものごと・ことがらであり、「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
[感想1-3-2]「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官(眼耳鼻舌身)がないので、多川俊映師は、端的に「現代風には『意根』とは脳神経かもしれない」と言う。(上46頁)
[感想1-3-3]「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)の消滅も生じる!「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である!(評者の見解)
《参考4-2-2 》「唯識」を体系化する以前の世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』について!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上43-47頁)
(C)-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(上43-44頁)
(C)-4-2 倶舎仏教は「心王」(※主観性)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(上45頁)
(C)-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(上45頁)
(C)-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の《認識の直前に滅した眼識ないし意識》を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(上46頁)
(C)-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(上46頁)(※第六識は「広縁の識」だ!)
(C)-5 倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(上46頁)
(C)-5-2 倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(上47頁)
(D) 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(上47頁)
《参考4-2-3 》「唯識仏教」の立場にたつ世親『唯識三十頌(ジュ)』について!
※『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(上21-22頁)
(E)世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(上21-22頁)
《参考4-3》「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ!「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識することだ!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下82-83頁)
[感想2]「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、すなわち、「現象」としての世界(宇宙)《そのもの》(「自体分」)が、「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化することだ。これが認識の成立、意識化、意識の成立である。「自体分」はその認識の成立を自覚する。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものである。
[感想3]おそらく、すべての生命が「識体」(心)(※超越論的主観性)である。細菌の「識体」、植物の「識体」、動物の「識体」、人間の「識体」が考えうる。無生物は「識体」でない。
[感想3-2]「識体」(心)(※超越論的主観性)とは、世界(宇宙)そのものが「現象」として出現し(「自体分」)、それが「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、認識が成立する、すなわち意識化が生じる、意識の成立という出来事そのものだ。
[感想3-3]「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
《参考4-4》人人(ニンニン)唯識:認識される世界は人それぞれ!「能変の心」(※構成する超越論的主観性)と「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)!
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下122-125頁)
(F) 唯識仏教は「人人(ニンニン)唯識」つまり「認識される世界は人それぞれ」と述べる。「心」は「能変の心」(※構成する超越論的主観性)であり、認識対象の「境」も「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)である。(下122頁)
(F)-2 カエサル(前100-前44)は「人は見たいものだけ見る」と言った。(下125頁)
《参考5》自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しない!「自分《と》世界」ではなく、「自分《が》世界」である!(池田晶子)
※『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映、2022年(下125頁)
(G)哲学者の池田晶子氏(1960-2007)が『知ることより考えること』(新潮社)で次のように言う。
「自分と世界」と人は言う。見える(※触れられる「物」としての)世界が先に在り、それを自分が見ている(※「物」としての「身体」において触れている)のだと、こう思うわけである。世界は、視界は(※触れる触れられるという出来事において)、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。(下125頁)
[感想1]評者は、池田晶子氏は次のように言うべきだったと思う。
「自分と世界」と人は言う。触れられる「物」としての(※見える)世界が先に在り、それを自分が「物」としての「身体」において触れている(※見ている)のだと、こう思うわけである。世界は、触れる触れられるという出来事(※視界)において、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。
[感想2]「触れる触れられるという出来事」が「物」の開け(そのものとしての「現象」の出現)である。「触れる触れられるという出来事」の境界面に「物」が「相互に他である」という出来事として出現する。この
「相互に他である」物の一方が《「身体」としての物》と呼ばれ、他方が《単なる「物」》と呼ばれる。触覚が「物」(相互に触れあう身体と物)を「現象」として出現させ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚は「物」の諸性質を「現象」として出現させる。
[感想3]《「身体」としての物》すなわち「有根身」(ウコンジン)は感覚器官として五根のほかに「意根」を持つとの倶舎仏教の考え方は修正されねばならない。倶舎仏教的には五根のはたらき(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とは別に「意根」のはたらきが「意識」と呼ばれる。
[感想3-2]だが唯識仏教的には「意識」には感覚器官としての五根のはたらき(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)も含まれる。唯識仏教の世親『唯識三十頌(ジュ)』によれば、「意識」は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性の「第七末那識」(マナシキ)、そして(「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として)最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)の全体である。「意識」は「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)である。
[感想3-3]またフッサール的には「意識」とは、「生命」の超越論的主観性であり、「意識」するつまり「開け」としての世界(宇宙)そのものであり、「モナド」である。