『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

『悩むこと 生きること』姜尚中

2013年12月02日 | 
これは、姜尚中が執筆した
信濃毎日新聞の夕刊コラム
『今日の視覚』を1冊の本にしたものである。

姜尚中という人物には、実はあまり興味はなかった。
加島祥造にまつわる一人として登場したのが
姜尚中だった、というだけのことなのだ。
どういうつながりだろう、そういう興味だけで
姜尚中を知る気になった。

このコラムを読んでいて、
いろいろ面白いことを発見した。

2011年10月14日のコラム「見えない糸」から

今月8日、私は伊那弥生ヶ丘高等学校の創立百周年を祝う
記念講演の講師として招待された。
校舎は東西駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に囲まれ、
天竜川の恵みを受けた豊かな伊那の沃野に佇んでいた。
校門から続く銀杏並木を眺めていると、
わたしは何か見えない糸で結ばれる
人生の機微のようなものを感じざるをえなかった。

校長の窪田先生から、前身の伊那高等女学校の時代、
金大中元韓国大統領の最初の伴侶であった
車容愛(チャヨンエ)女史が学んでいたことを
知らされていたからである。
金大中先生の自伝『死刑囚から大統領へ』(岩波書店)には、
妻の車女史を亡くした時の悲しみが切々と語られている。

1973年の東京での金大中拉致事件以来、
金大中先生の波乱に富んだ生涯は、
韓国の激動の現代史と重なり、
私もその波濤の飛沫を浴びながら青春時代を過ごした。
そして晩年、父親と息子ほどの歳の差がありながらも、
親しく先生の謦咳(けいがい)に接する機会に恵まれたのである。
先生との見えない糸は今も切れずに続いているかと思うと、
感無量であった。

そしてさらに驚いたのは、車女史をはじめ、
伊那高等女学校の女学生たちが、
敗戦間際の昭和19年から20年にかけて、
学徒勤労動員で名古屋の軍需工場で
海軍軍用機の生産に従事していたことである。
実はこの頃、私の父も名古屋の軍需工場で働いていたのである。
生前の父の話では、
そこは海軍軍用機を生産する工場であったらしく、
同じ工場であった可能性も考えられる。

名古屋空襲で一宮市に逃れた父と母は、
一粒種の息子(長男)を亡くしており、
父と母にとって名古屋での体験は終生、
忘れることができなかったはずだ。

こうして伊那の地での一日は、過去は死なず、
今を生きる者たちと見えない糸で結びついていることを
実感させることになったのである。


弥生が丘高校は私の母校でもある。
読みながら、姜尚中に
親近感が沸いてきた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶不調!

2013年12月02日 | 日記
土曜日から、体調は絶不調!

それでも土曜日は、
半日仕事に行った後、
主人がこいでおいてくれた野沢菜をきれいに揃え
翌日曜日、思い体に鞭打って野沢菜を洗い(約20キロ強)
午後それを漬け終えて、
たくあんも漬けてから、そのままベッドへ・・・・

イミグランが切れていたのがいけなかった・・・・

10月、11月は忙しく過ぎて
なんとなく調子もよくて
ちょっといい気になっていたかもしれない・・・

最後のイミグランを使ったときに
ああ、病院にいかなくちゃ、と思ったのに
忙しさにかまけて、
すっかり忘れていた・・・・

激しい頭痛、肩こり、背中の痛み
そして、吐き気・・・・
どんなに寝ても、頭痛が去らない・・・・
市販の薬を何回飲んでも
一向に治らない・・・・・

こんなことは、本当に久しぶり・・・・

少し「やすみなさい」ということ・・・だね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする