『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

キッチン掃除

2024年07月20日 | 生活

なんか、とっても久しぶりに

キッチン(特にレンジ周り)の大掃除をしました。

本当に久しぶりだったようで、

その汚れっぷりに愕然としました(笑)

 

ここ数年、

庭や畑の草ばかりが目についてしまったせいか、

「草取り」作業には力を入れていたけれど、

家の中は・・・・・、という日々だったなあ、とちょっと反省。

 

昔(古い家の時)は夏になると、

大きなたらいに、洗濯用の粉せっけんと

お湯(ぬるま湯よりちょっと熱いくらい)を入れて、

その中に、キッチンに並べてある小物や食器類を片っ端からぶち込んで

しばらくほおっておく、というのが

我が家の毎年恒例のキッチン掃除でした。

(「粉せっけん」というのがミソですが、それで、結構汚れが落ちてしまうのです。)

 

隣にもう一つのたらいを置いて、これはすすぎ用。

すすいだ小物や食器類を、これまた大きなざるに上げて、

夏の日光で天日干し、天然の消毒。

干している間に、キッチンそのものの掃除。

シンク前の窓も、全部外して洗います。

そして、解放されたキッチンの掃除は、それでずいぶんはかどりました。

 

今は、レンジ周りに多くの物は置いてないので

もっぱらレンジと換気扇の掃除でしたが、

昔と同じように

たらいにお湯をためて、粉せっけんを入れて

そこに、換気扇のフードやフィルター、そしてファン、

魚を焼くグリルの部品等をつけこんで・・・・・。

ファンの部分は、油汚れが一度では落ちなかったので、

相当なものだった、ということですね。

 

半日以上かかった大仕事でしたが、

気になっていたので、終わってヤレヤレ・・・、です。

 

これで母の新盆を迎えられます。

 

 

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世界文化遺産 特別史跡「平城宮跡」

2024年07月18日 | 旅行

和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。

元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、

大宝の遣唐使がもたらした中国・唐の都、長安城の最新の情報にもとづいて、

飛鳥に近い藤原京から再度 都を移したのです。

               (奈良文化財研究所「平城宮跡」パンフレットより)

 

3年前に奈良を旅した時、

姉に「平城宮跡の朱雀門を見てらっしゃい」と言われていたのですが、

遠くから見るだけで、しっかり見学しなかったので

今回、ここに半日を割きました。

 

第一次大極殿院復元図1/100模型

太極殿(古代の都における中心施設、元日朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際天皇が出御する場所)

奥に見える建物が太極殿

 

明治の末に、田んぼの中にある小高い芝地が太極殿(第二次)の基壇であることが発見され、

1952年に特別史跡に指定されたことから、本格的に発掘調査・研究がされてきた、ということでした。

早くから史跡があることが分かっており、建物など立てられず田んぼや畑が多かったことから

発掘作業も比較的スムーズだった、と係の方が説明してくれました。

 

発掘した遺構を、遺構展示館で見ることが出来ます。

 

同じ場所に何度も建て替えられたことが、柱の穴で判るそうです。

 

遺構をもとに、模型も作られていました。

 

 

出土した瓦

 

発掘された「役人の仕事机」

 

当時の貴族の食事(再現)だそう・・・

 

あの、朱雀門(復現)

 

暑くって、遠くって・・・・

近くまで歩いていく気に慣れず、道路からちょっと入った場所でパチリ!

修学旅行の生徒さんたちは、元気いっぱい門の中ではしゃいでいました。

この朱雀門、この門よりもっと広い幅75メートルの朱雀大路が再現されていましたが

長いと思っても、そんなのは一部。

この朱雀大路が、唐招提寺、薬師寺のほうまでずっと続いていた、と想像するだけで、

平城京がいかに大きいか、が分かります。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代(平安京)よりも

凡そ250年くらい前の時代です。

 

最後は庭(東院庭園)

東院とは、宴会や儀式を催した場所、今でいうなら迎賓館に当たる場所。

遺構にもとづいて復元した建物と庭です。

 

 

 

こちらの「平城宮跡歴史公園」も広くて広くて・・・・・。

「遺構展示館」~「東院庭園」は、駐車場があるので車で行けますが、

復元されたそれぞれの建物・門までは徒歩でなくてはいけません。

自転車を借りて回るのが良いようですが・・・・・。

 

いずれにしても、ここは天皇・貴族の住まい、生活空間です。

文献には、多くの民の暮らしがどのようなものだったかは、ほとんど記されていません。

その民たちの心のよりどころは何だったんだろうか、と

奈良時代に思いを馳せながら見学しておりました。

 

 

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魅力の尽きない「法隆寺」

2024年07月13日 | 旅行

梅原猛氏の『隠された十字架—法隆寺論』に魅せられて

夢中になって一気に読んだのは、もう半世紀も前のこと。

そして、

法隆寺を訪れたのは、

半世紀以上前の修学旅行と十数年前の娘との旅行の二回だけ。

 

南大門から中門(仁王門)を望む。後ろには五重塔。

梅原猛氏は『隠された十字架』のなかで、

いくつかの「不思議」を提示し、その不思議(謎)に対する推論を述べている。

その中で、私が大いに興味をそそられたのが、

「中門(仁王門)」の謎。

下は、大阪四天王寺の中門(仁王門)

因みに、四天王寺は聖徳太子によって593年創建された、とされ、

法隆寺は、607年の創建とされる。

 

二つの写真を比べて見てわかる通り、法隆寺の中門には「柱」が5本ある。

普通なら、四天王寺の中門のように柱は4本で、くぐる場所は「ここ」とはっきりわかるのに、

法隆寺の中門には中央に1本柱が立ち、まるで入る人を拒むかのようだ。

梅原氏は、

「法隆寺は、王権(蘇我入鹿)によって子孫(聖徳太子の子、山背大兄皇子ら親族)を抹殺された

 聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないか」

入るのを拒むのではなく、怨霊を封じ込めるために中央に柱が建つ、という説を唱えた。

Wikipediaの説明では、

「中門  日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが

     この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が立つ点が特異である。」とある。

 

   643年(皇極年)蘇我入鹿が山背大兄皇子らを斑鳩宮にて襲い、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡。

   670年(天智9年)法隆寺炎上

   708年(和銅元年)詔により法隆寺を再建

 

さらに、五重塔の九輪にかけられた「鎌」

これにもまた、聖徳太子の怨霊封じ、との自論を提示しています。

 

さらに、明治初期にフェノロサによって白布を解かれ

数百年間誰も見たことがなかったという「救世観音(観音菩薩立像)」についても

光背が直接頭から打ちつけられているさまを見て

「呪詛の行為」(聖徳太子を呪う)ではないか、と主張しました。

 

 

 

猛暑の中を約2時間かけて拝観しました。

いや~、ひろいひろい!

夢殿~中宮寺も回ったので、余計時間がかかったかもしれません。

どの建造物も、どの仏像、観音様も、橘婦人、玉虫の両厨子も

本当に魅力的で、

眺めていて一向に飽きない法隆寺なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あこがれの「甲子園」!!

2024年07月12日 | 旅行

やってまいりました!

あこがれの「甲子園」(笑)・・・・(まるで高校球児みたい・・苦笑)

今まで、野球観戦と言えば、

雨天の場合を心配してドームばかりでした。

昨年の阪神日本一に刺激を受けて、私たちも「賭け」に出ました。(笑)

一生に一度でいいから、「甲子園」で野球が見たい!!

 

試合は調子が上がってきた、対「横浜」戦。

 

ああ、晴れてよかったなあ・・・・。

 

試合前の腹ごしらえ。

 

次第にビジター席も、全部埋まってきました。

が、ほとんどは阪神ファン。

 

試合は負けちゃいましたが、めっちゃ面白かった!!

やっぱり、本拠地は違う!

京セラドームも半分阪神のホームだって言われてるけど、

全然 雰囲気が違う!

ビールもおいしかったし、応援も楽しかったし、

出来れば、もっと「六甲おろし」が歌いたかったねえ。

 

「来年も来よう!」

って、主人は言ったけど、

ねえ、私たちが観戦した試合は、1勝5敗だよ!

 

見に来ない方がいいんじゃないかねえ?

 

 

 

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はてさて・・・・、やれやれ・・・・。

2024年07月01日 | 雑感

いつのまにか、6月が終わっておりましたねえ。

梅雨入りが遅かったので、

畑の草も、まだまだ…、と思っておりましたら、

ここにきて、程よい気温とお湿り(雨)で、

一気に雑草が目立つようになりました。

 

春から高めだった気温のせいか、

梅の成長もいつもの年より早かったようで、

草取り真っ盛りの最中に、大町から梅が届きました。

梅も生ものですから、放っておくわけにもいかず

草取りをいったんやめて、

梅の処理をしました。(梅干しだけですけれど・・・)

たった、6.5キロなんだけれど、

へたを取ったり、桶を出して来たり、

酢やらリカーやらを買いに行ったりして、

梅の処理で一日が終わりました。

 

だんだん、体が重くなって(年齢的にも、重量的にも・笑)

「ずく」もなくなって、

梅を漬けるの、もういいかなあ・・・、なんて

思ったりしています。

 

でも、姉は、

自分ちの梅の木から、60キロもの梅をもぎ、

あちらこちらに送り、

自分も30キロを超える量を、

梅干しやら、甘いカリカリ梅やらをつけるので

年下の私が、

甘ったれたことを言っていてはいけないなあ、

と反省も、しているところです

しかし、いかんせん、体がなあ・・・・・。

 

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