『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

正覚院十王堂

2010年12月16日 | 「廿日市地区」ぶらり


天神山にある正覚院十王堂に安置されている十王像で寄木造の十王像9躯であるが破損がはげしい。
十王像を見ると坐像で冠をかぶった文官様の着衣であったことが想像できるのであるが、現在では何王か知ることが出来ないような状態である。

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速谷神社の注連縄づくり

2010年12月15日 | 「廿日市地区」ぶらり


昨日は氏神である速谷神社の各所に架け渡される注連縄を地域の人々によって新調された。
餅稲藁の芯を遣うためにアクタを取り除いて木槌で叩いて柔らかくして、二人一組で協力しあってしめ縄を綯っていくのであるが、力加減とひねり方が難しく3本に綯って、飛び出た藁を切り取って仕上げるのである。
藁のくずをアクタと親から聞いているが、地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというそうである。

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広島醤油跡地の石碑

2010年12月14日 | 「廿日市地区」ぶらり


本町地区にあった広島醤油㈱はフジボシブランドでよく知られていたがすでに廃業されているようであり、旧敷地の片隅に石碑2基が残されていた。
元広島醤油は昭和17年(1942)に戦時統制会社として設立されたもので、設立時当時の記念石碑と創業10周年記念の石碑が残されている。

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国道433号線改良工事の今

2010年12月13日 | 「廿日市地区」ぶらり


国道433号線の改良工事で平良地区と原地区境の長野川から原市民センター(公民館)までの工事はすでに完了していることを以前に紹介した。
現在原市民センターから半明原橋までの間に工事用の遣形杭が打たれており、近々に改良工事が行われるのであろうか。

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原地区での醤油醸造

2010年12月12日 | 「廿日市地区」ぶらり


原地区橋本にある民家で明治期から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残であろうか土蔵の横には醤油甕がみられる。
大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。

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醤油日の出醸造刻銘の石手摺

2010年12月11日 | 「廿日市地区」ぶらり


天満神社の石手摺の刻銘によるとかつての東合資会社は昭和3年(1928)頃には醤油日の出を醸造していたようである。
須賀町にあった醤油醸造の東合資会社は大正11年(1922)に東禄槌が創業したもので、醤油、味噌、酢製造をしていたようである。この石手摺は東合資会社創業者夫妻の寄進によって築造されたものである。

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銘酒家納喜醸造刻銘の石手摺

2010年12月10日 | 「廿日市地区」ぶらり


天満神社の石手摺の刻銘でかつての㈱家納喜酒造の前身では昭和3年(1928)頃には銘酒家納喜を醸造していたようである。
家納喜酒造の前身は、明治34年(1901)に丸亀小六が酒造業を始めており、大正3年(1914)頃には丸亀酒造場、大正11年(1922)頃には合資会社丸亀商店、何時の時代か不明であるが丸亀酒場で家納喜正宗を醸造している。その後の昭和3年(1928)頃には家納喜を醸造し、昭和12年(1937)に㈱家納喜酒造と改組された。

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正覚院十王堂の石燈籠

2010年12月09日 | 「廿日市地区」ぶらり


天神山にある正覚院の十王堂前にある石燈籠で、文化4年(1807)に廿日市の町人衆の寄進によって建立されたものである。
この石燈籠は通常の竿部分が4本の柱で造られているもので、このようなものをかんざし燈籠と呼ばれているようであり、以前に紹介した宮島長浜の常夜燈籠と同じような形式である。

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極楽寺歴代住持の墓所

2010年12月08日 | 「廿日市地区」ぶらり


極楽寺廿日市参道の35丁碑を過ぎてすぐに左手に上る山道があり、この道を進むと極楽寺歴代住持の墓所がある。
無縫塔や五輪塔の残欠などが多くみられ極楽寺の歴史が感じられる。この墓地の上は幕末期の砲台跡、草ケ城跡である。

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山境の石塚

2010年12月07日 | 「廿日市地区」ぶらり


標高693mの極楽寺山頂から憩いの森遊歩道を北進するとベンチとテーブルが設けられた680m峰に至り、この場所に山境石塚とみられる石積みがみられる。
江戸期から各村々では山論が起こっており、この石塚は両村双方の立ち合いで設けられた山境とみられるのである。現在ではコンクリート杭やプラスチック杭が使用されているが、かつては腐食しない貝殻や陶器片が使用されていたこともある。

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極楽寺山無給電中継所

2010年12月06日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


沿岸部の道路を走っていると極楽寺山に長方形の看板様のものがみられる。これは極楽寺への屋代参道(中国自然歩道)途中に設置されている第六管区海上保安本部の無給電中継所である。
施設をみると複雑なものでなく単純な看板のようであるが、電波の反射に適した板が張ってあり電気の供給なしに電波を反射させるだけの装置のようである。

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極楽寺佐方・屋代参道分かれ道碑

2010年12月05日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


極楽寺への佐方参道を登って屋代参道(中国自然歩道)との出会い手前に昭和十年(1935)に建立された「右廿日市道、左五日市道」と刻された分かれ道碑がある。
左側の五日市道は現在使用されてなく藪と化しており、もう少し上手で出会う新しい屋代参道(中国自然歩道)が設けられている。

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極楽寺上平良参道分かれ道碑

2010年12月04日 | 「廿日市地区」ぶらり


極楽寺への廿日市参道二十二丁碑手前に昭和十年(1935)に建立された「右速谷神社道、左廿日市道」と刻された分かれ道碑がある。
右側の山道を下ると河野原地区から国道433号線に至るが、現在は雑木が茂っているのと坂道に落ち葉が積もって滑りやすいので、山道に経験のある人でないと難しいコースである。途中、高地性集落遺跡である高尾山遺跡があるが藪こぎをしないと到達はできない。

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上勝成山の山頂

2010年12月03日 | 「佐伯地区」ぶらり


津田地区の南側に聳える標高684mの上勝成山の山頂で、中世の頃陶氏の出城があったようであるが詳しいことは不明である。江戸期には広島藩の烽火台が設けられていた。
現在山頂にはNHKのテレビ中継放送所と民放4局のデジタルテレビ放送所、NTTの送信所とみられる色んな種類のアンテナが林立しておりアンテナ銀座である。

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太古の巨樹林を伺わす巨根

2010年12月02日 | 「佐伯地区」ぶらり


勝成山の麓にある「勝成山いこいの森」の道路脇に置かれている杉の巨根で、「いこいの森」整備中に出土したようで樹齢1000年以上と表示されている。
三瓶埋没林の例から樹齢1000年は誇張し過ぎで、500年前後の樹齢ではなかろうか。これをみるとかつてこの地方にも巨樹が林立していたことが想像できるのである。このような貴重な資料も保存措置が講じられておらず雨ざらしで朽ちるのを待っているのみである。

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