廿日市後小路にある光明寺の地は江戸期の地誌によると護念山浄厳寺の廃跡に建立されたようである。
桜尾城主毛利元清の子宮吉丸が天正17年(1589)に早世しており、浄厳寺は宮吉丸法名清厳院浄厳幻了の菩提寺であったものとみられる。毛利氏防長移封に伴って浄厳寺は下関市長府に移って明治時代に大乗寺と改称されている。浄厳寺の廃寺跡に光明寺が建立されたものと思われるが地誌の年代とは相違がみられ疑問点が生じるのである。
廿日市後小路にある光明寺の地は江戸期の地誌によると護念山浄厳寺の廃跡に建立されたようである。
桜尾城主毛利元清の子宮吉丸が天正17年(1589)に早世しており、浄厳寺は宮吉丸法名清厳院浄厳幻了の菩提寺であったものとみられる。毛利氏防長移封に伴って浄厳寺は下関市長府に移って明治時代に大乗寺と改称されている。浄厳寺の廃寺跡に光明寺が建立されたものと思われるが地誌の年代とは相違がみられ疑問点が生じるのである。