子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

かあちゃんの商売替え

2013年08月12日 | 中、高時代
かあちゃんの仕事はわたしが小さいときには選炭婦でした。坑内から石炭がベルトに乗って揚がってくると両脇に女の人が並んでいて、石炭以外の不純物を見つけて取り除きます。それが選炭婦です。

太平洋戦争のころには同じ会社の建設部の雑用をしていました。

終戦後には、かつぎ屋になっていました。まだ、かつぎ屋という言葉がないころです。いわゆるヤミ屋で、いろいろな品物を扱っていました。どうして、会社を辞めたのかはわかりません。

「かあちゃん、中学の書類に家の職業を書かんといけんバッテン、なんと書くとよかね」
かあちゃんはひとこと「日雇いと書いとかんね」

この「日雇い」がわたしのコンプレックスの一つになりました。
中学でも高校でも家の職業が「日雇い」という人はいませんでした(と、思います)。高校からずーっと後まで付き合うH君は両親とも学校の先生、Y君はお父さんが大企業の職員で、お母さんは後で化粧品の販売所を開きます。T君は店のある商売の家の子どもでした。

周囲を見渡しても、「日雇い」の子どもはいませんでした。肩身が狭かったです。
親の職業は言えませんし、遊びにおいでよとも言えませんでした。中学時代は、近所の野球仲間のほかには友だちはいませんでした。

恥ずかしいですが、かつぎ屋のことも書かねばなりませんね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿