子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

50円を返しに行く

2015年10月22日 | 大人になって
昼間ドラマの再放送を見ていました。

母親が息子の写真の前でお嫁さんの刑事に話していました。
息子はお釣りが10円多かったと言って夜中に返しに行った。
10円くらいいいじゃないかと言うと警察官がそれではいけないと亡くなった
息子は言った。

そんなシーンでした。
わたしもそれを見ながら思い出したことがあります。
わたしの場合50円玉でした。

バスでお釣りをもらって、降車しました。昭和40年代の前半だったと思います。
まだバスカードはなかったと思います。バスカードはあってもわたしが持って
いなかったのかもしれません。乗車賃を現金で払いました。

お釣りは50円のはずです。家に帰ってよく見ると100円玉でした。

同じ路線のバスを待って、「何時何分にどこ行きのバスでお釣りを多くもらった。
その時の運転手さんに返してください」と言って50円を返しました。

その時にはそれがベストと思いました。
でも、よく考えてみるとわたしが乗ったバスの運転手さんは営業所に帰り、その路線の
清算は終わったはずです。
あとから考えると、50円を別の運転手さんに託したのはわたしが乗ったバスの運転手さんに
不利益になったかもしれません。

バカ正直は死ぬまで治りそうにありません。

女学校は聖域

2015年10月04日 | 小学生時代
わたしたちの遊びの範囲内に女学校がありました。



この地図は昭和30年代の住宅地図の一部です。

この地図よりも20年くらい前の話です。遊び仲間は小学生でした。
女学校の近くには熊笹の竹やぶや空き地がありました。
そこではチャンバラごっこなどをして遊びました。

でも、女学校の中には入りませんでした。
↓のところは、土塀と言うべきか土塁と言うべきか、塀の代わりに高さが3メートルくらい、
幅が1メートル近い、土の壁がありました。

女学校の横をほぼ南北に走っている道路は拡げられたものです。いつかははっきりしません。
余談ですが、道路を拡張するときには、おっかさんはヒラクチ(マムシ)が何匹も出たと話していました。

土の壁はそのときに残されたものでしょう。

わたしと友だちはその土の壁には1,2度上りました。
でも、それから中には入りませんでした。女学校は聖域でした。
中学生まで男女共学でもなく、近所でも女子とは遊びませんでした。女子には近寄りがたく、女学校にも
入りがたかったです。

終戦後、中学生になってから1回か2回、グラウンドで野球をさせてもらいました。