子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

レインコート遺失

2013年08月26日 | 中、高時代
今思い出しても自分のバカさに悔いることがあります。レインコート遺失です。中1のときに起きました。その後だれにもしゃべっていない、恥ずかしくもあることです。

朝から雨が降りそうな日でした。かあちゃんにレインコートを持たされて登校しました。そのころは電車通学をしていました。幸い、あるいは不幸にも帰りも雨は降りませんでした。

レインコートを大事に脇に挟んで持っていました。このレインコートはかあちゃんがわたしの小学校入学前に買ってくれたものです。かあちゃんは目先が利くのか、入学の服も早く買ってくれていました。

当時は電車の運行数は少なく、乗客は多かったです(この時間の乗客はほとんど中学生でした)。
電車がホームに入ってきました。みな乗降口に群がりました。小さいわたしは押しに押されて、電車に乗られたのはいいのですが、レインコートを線路に落としてしまいました。

電車はそのまま発車します。次の駅まで身動きできませんでした。

わたしが降りるのは次の駅です。
ほんとにバカです。駅員さんに届けることも乗車駅に引き返すこともなく、家へ帰りました。

かあちゃんからはレインコートはどうしたか、しっこく聞かれました。このころレインコートは貴重品でした。買おうとしても買えなかったと思います。
わたしはだんまりを続けました。
かあちゃんは腹を立て、叱りました。時計を壊した時よりも叱られました。それでも、わたしはだんまりを続けました。

駅に届けたらもしかしたらコートは帰ってきたかもしれません。でも、それもしませんでした。

最近、ある所に傘を忘れました。数日してそこに行くと傘は無くなっていました。だれかが差して帰ったようです。それをカミさんに言うと「なんで責任者に言わんと、いちばんよか傘じゃったとに」と責められました。

今でも脳の回転が悪いのです。

食いもんが、よか

2013年08月19日 | 中、高時代
戦中、戦後食べ物に飢えていました。配給だけでは生きていけませんでした。配給生活を守り、栄養失調で判事さんが亡くなられたのは1947(昭和22)年10月のことでした。

かあちゃんは「タバコより食いもんが、よか」と闇市に食べ物を持って行くようにしました。

白米(銀シャリと言いましたね)でおにぎりを作り、ゴマ塩をつけただけのおにぎりです、今コンビニにあるような具がいろいろあるようなおにぎりではありません。
これは飛ぶようにと表現できる売れ行きでした。

餅を作って売りに行ったこともあります。
餅のあんこの材料は小豆です。これを求めてかあちゃんは姉さん(疎開のときにお世話になった伯母さん)と国鉄の汽車に乗って買い出しに行きました。小豆を買って帰りの汽車で警官が来たそうです。二人は慌てて窓から小豆の入った袋を投げました。次の駅で下車して線路を歩いて小豆を見つけ出したと話していました。
伯母さんは妹のため小豆買いに付き合ったのだと言います。仲のよい二人でした。

この餅もよく売れました。
闇市ではわたしはいつも見張り役でした。

どぶろくのときでもそうでしたが、どぶろくがあるところやその売れ筋がどことかあちゃんはどうして知っていたか、不思議です。白米やもち米、砂糖があるところもどうして知ったのか、今では聞くことはできません。

このあと、からいも(甘藷)、白米と運ぶものが変わっていきますが、仕入れ先はわかりませんでした。

タバコ売りのおばさん

2013年08月17日 | 中、高時代
市の中心には南北に国道が走っています。その東側に狭い道がありました(いまは6メートルくらいに拡幅されています)。
この道は夕方には闇市になりました。人がお祭りのように集まります。そこにいろいろな品物を持ち寄る人が来ます。

かあちゃんはタバコを売りに行ったことがあります。
当時巻きタバコが少なかったです。学校でも上級生はコンサイス英和辞典を破ってそれできざみタバコを巻いて吸っている人がいました。

家できざみタバコを巻くのです。巻く器具がいろいろありました。どこかにこの器具は残っていませんでしょうか。戦後すぐの文化遺産?です。
巻きタバコを作るのはわたしの仕事でした。とうちゃんもかあちゃんも手先の小さい仕事はむりでした。

出来たタバコは紙箱に入れ、風呂敷に包んで、この闇市に持って行きました。このときもわたしはかあちゃんに付いて行きました。
かあちゃんが買いそうな人にこっそり見せて売ります。1本でも2本でもばら売りでした。

わたしは見張り役でした。「おまわりさんが来(こ)らしたら、すぐ教えるとぞ」
わたしはあっちこっち真剣に見ていました。

タバコ売りはそう長くではありませんでした。なぜかはわかりません。


どぶろく買いに

2013年08月15日 | 中、高時代
かあちゃんのかつぎ屋で最初に思い出すのはどぶろく買いのことです。

さかなの骨をのどに詰まらせたときに行っていた耳鼻咽喉科の西藤医院の近くまでかあちゃんと乳母車を押していきました。


この乳母車は姉の子どもが使っていたもので、かご(?)の部分は籐で編んでありました。(図はイメージです)

昭和の初めまでわたしたちの市には刑務所(監獄と言っていました)があり、そこにいる受刑者(囚徒と言っていたそうです)が炭鉱で使役されていました。

これからは伝聞です。囚徒たちが炭鉱へ向かう道を囚徒道と言い、道のそばの人がその囚徒道にたばこを埋めていたこともありました。それを受刑者は見つけて持ち帰り、吸ったと聞きました。

こんなことも聞きました。刑期を終えた受刑者でこの近くに住みついた人もあると。

心の広い人が多かったのでしょう。

さて、かあちゃんとわたしは囚徒道の近くに着きました。かあちゃんは「ここで待っとれ」と言って、どこかへ行きました。
わたしは乳母車のそばで待っていました。近くで異臭が臭っていました。豚を飼っているらしい臭いでした。

臭いを我慢して待っていると、やっとかあちゃんが出てきました。大事そうに水枕を持っていました。(いまはほとんど見かけませんし、家にもありませんが、熱が出たときにはよく使ったものです。熱帯夜に氷を入れて使えばいいかも)

水枕の中にどぶろくが入っていたのです。
かあちゃんはこれをどこに売ったのかはわかりません。

かあちゃんの商売替え

2013年08月12日 | 中、高時代
かあちゃんの仕事はわたしが小さいときには選炭婦でした。坑内から石炭がベルトに乗って揚がってくると両脇に女の人が並んでいて、石炭以外の不純物を見つけて取り除きます。それが選炭婦です。

太平洋戦争のころには同じ会社の建設部の雑用をしていました。

終戦後には、かつぎ屋になっていました。まだ、かつぎ屋という言葉がないころです。いわゆるヤミ屋で、いろいろな品物を扱っていました。どうして、会社を辞めたのかはわかりません。

「かあちゃん、中学の書類に家の職業を書かんといけんバッテン、なんと書くとよかね」
かあちゃんはひとこと「日雇いと書いとかんね」

この「日雇い」がわたしのコンプレックスの一つになりました。
中学でも高校でも家の職業が「日雇い」という人はいませんでした(と、思います)。高校からずーっと後まで付き合うH君は両親とも学校の先生、Y君はお父さんが大企業の職員で、お母さんは後で化粧品の販売所を開きます。T君は店のある商売の家の子どもでした。

周囲を見渡しても、「日雇い」の子どもはいませんでした。肩身が狭かったです。
親の職業は言えませんし、遊びにおいでよとも言えませんでした。中学時代は、近所の野球仲間のほかには友だちはいませんでした。

恥ずかしいですが、かつぎ屋のことも書かねばなりませんね。