子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

30. ヒサばあちゃんの後継ぎ

2012年10月30日 | 小学生時代
前回ヒサばあちゃんには男2人、女4人の子どもがいたと書きました。女の2番目が熊本市の迎町という所に嫁いでいました。白川のそばの米屋さんでした。ここも男2人、女3人のあまり裕福ではない家庭でした。

この叔母が母親の後継ぎをしたようです。近くに長六橋という橋があり、その下に家族がいました。余談ですが、橋の下は雨露をしのぐにはよかったようで、戦後中学に通学するときに橋の下に住んでいる人を見て通ったものです。
叔母は子どもにも十分食べさせられないのに橋の下の家族に食べ物を持って行ってたそうです。

それを見ていたからでしょうか、一番下の娘が母の遺志を継いで今愛知県で毎月1回自宅を開放してサロンを開き、お年寄り(自分もすでに高齢者です)が集える場所を提供していると話しています。

29. ヒサばあちゃんのこと

2012年10月24日 | 生まれる前
わたしは父方のじいちゃんばあちゃんも、母方のじいちゃんばあちゃんも知りません。どちらもわたしが生まれる前に亡くなっています。


写真は父方のヒサばあちゃんです。ヒサばあちゃんの話はいくつか聞いています。
わが家は貧乏でした。主とした働き手はかあちゃん1人で、家族は多いときは6人いました。十分に食べるだけのコメもなかったようです。

そんなときにも、ヒサばあちゃんは困っている人にあげるのだそうです。
家の近くに小さい神社があります。そこにいまで言うホームレスの家族がいたそうです。そこにコメやおにぎりを届けさせるそうです。持って行く役目は姉で、嫌だったと言いました。かあちゃんも稼いだコメやおにぎりを見ず知らずの人たちにあげるのは不満だったそうですが、姑のすることだから何も言えなかったといいます。

いまではヒサばあちゃんの生まれや育ちに興味がありますが、知っている人たちは亡くなってしまい、だれにも聞けません。
ヒサばあちゃんの子どもは男2人、女4人ですが、こんなばあちゃんの心を継いだ者はいるのか。それはまたの話にしましょう。

28. 好き!好き!

2012年10月20日 | 余談
電話が鳴りました。
「もしもし、平平です」とわたしが出ると「ヘルス○○です」と女性の声が聞こえました。
「ご主人ですか、息子さんですか」

大体電話では、投資や健康食品の売り込みなどが多いです。
黙っていると「膝や腰によい薬を配っています」
「そうですか」
「でも、40代ですか、30代ですか」
「………」
「まだ膝や腰は大丈夫ですね。必要ありませんね」
ひとり合点で、電話は切れました。

30代や40代に間違われるのなら、大歓迎です。好き!好き!また電話待ってま~す。