子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

家の周りに4本の木

2014年10月30日 | 小学生時代
生家の周り(敷地内です)には4本の木が植えられていました。

その1本は切り株しか見ていませんが、確かに木があった跡でした。玄関(というほどではありませんが)の横に直径30センチくらいの跡が残っていました。そこには桃の木があったそうです。
桃が食べごろになると子どもたちが石を投げて桃を落とそうとします。その石が屋根瓦を割ることもあったと言います。これがあると「悪作る」と切られたそうです。
わたしが生まれる前です。

グミの木は小学生のころまでありました。実が熟れると食べていました。実の大きさの割には種が大きく、うまさもそうないし、まあ果物もないから食べておくか、くらいの気持ちでした。
これも食べて病気になったら困るからか、おっかさんが切ってしまいました。

家の裏の隣りとの境辺に夾竹桃がありました。夏には赤い花をつけます。この木には毒があるから触るなとおっかさんが言っていました。
でも、小学生のときにはこの木はよく利用していました。
ちゃんばらの刀にしていました。手ごろの長さに切り、刃の部分になるところの皮を肥後守(ひごのかみ、おりたたみのナイフ)ではがしていました。
枝分かれの部分は十手にもなりました。
ゴム銃にもなりますが、小学生ころにはこれに使うゴムがなかなかありませんでした。

玄関の横(桃の木があった反対側)には青桐がありました。これはよく成長します。切らないとどんどん枝が伸びて持て余します。この枝を遊びの刀にすることもありました。
実の方がよく遊びに使いました。まだ実が青いうちに袋(実は袋の中にあります)ごと千切ります。洗面器に水をはりそのなかで袋の中の実をはずします。茶色の水分が袋に中にはあるので水のなかでの作業がいいようです。

この青い実は吹き矢の玉に使います。実よりも少し大きい口径を持つ女竹(めだけ)を切ってきて、青桐の実をつめて吹いて遊んでいました。
紙を噛んで玉にして吹き矢に使っていたころもありますが、戦争中は紙は貴重品で、こっそり持ち出そうならどこの家でも叱られました。

青桐に実は秋には水気がなくなり、ひからびます。いつも腹が減っているので食べることもありました。

カイコさんもいた

2014年10月21日 | 小学校入学前
伯父さんと伯母さんところではカイコさんも飼っていました。二人は仲がよく働き者でした。二人はカイコのことをカイコさんと言っていました。

カイコは牛小屋の上で飼っていました。桑の葉を敷いてあってその上にカイコはいました。食べている様、動いている様にびっくりしたものです。

それが繭になるのはわたしにはよく理解できませんでした。

もちろんそれから糸が取れるのもわかりませんでした。

わたしたちが疎開をした昭和20年ごろにはカイコよりもカライモ(甘藷)が喜ばれるようになっていたのでしょう。食糧難でしたからね。桑畑が少なくなり、多くはイモ畑になっていました。

わたしが桑の実を食べた桑畑もありましたが、もう養蚕はしていなかったようです。
伯母さんたちの集落では、戦後もカイコさんを飼う農家はなかったようです。

タバコ乾燥小屋

2014年10月18日 | 小学校入学前
時間の流れ順に書いて行けばいいのですが、思い出す順に書いていますので小学校入学前にさかのぼります。

ヒラクチを捕まえた伯母さんのうちではタバコも栽培していました。
今ごろかもう少し季節が進んだころに伯母さんのうちに行ったことがあります。

タバコを乾燥していました。そのころは栽培の検査もたいへんでタバコの葉1枚まできちんと届けていたようです。ほかに横流しなどできない仕組みがあったようです。

小学校にも行っていない子どもにはよくわかりませんが、検査する人の目が光っているような話をしていました。

タバコの乾燥は夜を徹して行われていました。母屋や牛小屋とは別に乾燥小屋が建てられていました。今はほとんど見られませんが、戦後しばらくは農家に残っていました。わたしにはこれはタバコ乾燥小屋の跡だとすぐにわかりました。規格の建物だったのでしょうか、どこでも同じでした。

乾燥小屋では火が真っ赤に熾っていました。堅木と言われる火持ちのよいものが多かったようです。
タバコはどこに吊るされていたか、記憶にありません。

火の番に伯父さんが座り、そのあぐらの中にわたしが座っていました。おとっつあんもそばにいますが、わたしは伯父さんのあぐらの中です。おとっつあんのあぐらの中ではないのです。そんな記憶しかありません。

火の熱で頬が熱く、灰の中で焼いたカライモ(甘藷)を食べた記憶は残っています。

伯母さんはヒラクチを捕まえた

2014年10月12日 | 小学生時代
ヒラクチ(マムシ)でまた思い出したことがあります。

疎開していた昭和20年の秋のことです。
わたしとおとっあんは畑仕事をしていました。伯母さん(おっかさんの姉さん)が鎌持って畑回りをしていました。
鎌は草鎌でした。(ブログ「初めての麦刈りで」で使っていた鎌と同じです)この種の鎌が軽くて持ち運びによく、草やちょっとした木も切れます。ですから、畑回りには普通この鎌を持って行きます。

伯母さんは田んぼの畔でヒラクチを見つけました。すぐに近くで竹を切り、先を割り、その竹でヒラクチの首に押し付け、捕まえました。少し離れた位置から見ていましたが、慣れたもので手際がよかったです。

ヒラクチは焼酎漬けにするか日に干して乾燥させるかします。このときはまだ焼酎が手に入りにくいときでしたから、天日干しにされました。
あとの始末までは聞いていません。

いなかの子どもたちはヒラクチに慣れているので、不用意に手を出すことはないと思います。


ヒラクチは怖い

2014年10月10日 | 小学生時代
新聞に小学校4年生の男子児童がヒラクチ(マムシ)に噛まれて入院する事故があったと報じていた。

屋外での学習を終えたこの児童が足洗い場にヘビがいたので捕まえようとして右手を伸ばしたところ人差し指の付け根付近を噛まれました。毒ヘビの可能性があるので応急処置をして救急車で市立病院に搬送しました。ヘビは先生が捕獲してヒラクチとわかりました。

おおよそこんな記事が書いてありました。

児童はヒラクチの怖さを知らなかったのでしょう。わたしは小学生のときにはヒラクチの怖さを聞かされていました。特に秋のヒラクチは恐ろしい、と教えられていました(その理由は忘れました(-_-;))。
ほかのヘビは人を見たらだいたい逃げます。ヒラクチは動きません。棒を差し出すとそれに噛みつきます。

今はヘビが少なくなってほとんど見なくなりました。
おそらく噛まれた児童はヒラクチを見たことがなかったのでしょう。恐ろしさも知らなかったのでしょう。

ヒラクチの恐ろしさは子どもに教えておくべきでしょう。