生家の周り(敷地内です)には4本の木が植えられていました。
その1本は切り株しか見ていませんが、確かに木があった跡でした。玄関(というほどではありませんが)の横に直径30センチくらいの跡が残っていました。そこには桃の木があったそうです。
桃が食べごろになると子どもたちが石を投げて桃を落とそうとします。その石が屋根瓦を割ることもあったと言います。これがあると「悪作る」と切られたそうです。
わたしが生まれる前です。
グミの木は小学生のころまでありました。実が熟れると食べていました。実の大きさの割には種が大きく、うまさもそうないし、まあ果物もないから食べておくか、くらいの気持ちでした。
これも食べて病気になったら困るからか、おっかさんが切ってしまいました。
家の裏の隣りとの境辺に夾竹桃がありました。夏には赤い花をつけます。この木には毒があるから触るなとおっかさんが言っていました。
でも、小学生のときにはこの木はよく利用していました。
ちゃんばらの刀にしていました。手ごろの長さに切り、刃の部分になるところの皮を肥後守(ひごのかみ、おりたたみのナイフ)ではがしていました。
枝分かれの部分は十手にもなりました。
ゴム銃にもなりますが、小学生ころにはこれに使うゴムがなかなかありませんでした。
玄関の横(桃の木があった反対側)には青桐がありました。これはよく成長します。切らないとどんどん枝が伸びて持て余します。この枝を遊びの刀にすることもありました。
実の方がよく遊びに使いました。まだ実が青いうちに袋(実は袋の中にあります)ごと千切ります。洗面器に水をはりそのなかで袋の中の実をはずします。茶色の水分が袋に中にはあるので水のなかでの作業がいいようです。
この青い実は吹き矢の玉に使います。実よりも少し大きい口径を持つ女竹(めだけ)を切ってきて、青桐の実をつめて吹いて遊んでいました。
紙を噛んで玉にして吹き矢に使っていたころもありますが、戦争中は紙は貴重品で、こっそり持ち出そうならどこの家でも叱られました。
青桐に実は秋には水気がなくなり、ひからびます。いつも腹が減っているので食べることもありました。
その1本は切り株しか見ていませんが、確かに木があった跡でした。玄関(というほどではありませんが)の横に直径30センチくらいの跡が残っていました。そこには桃の木があったそうです。
桃が食べごろになると子どもたちが石を投げて桃を落とそうとします。その石が屋根瓦を割ることもあったと言います。これがあると「悪作る」と切られたそうです。
わたしが生まれる前です。
グミの木は小学生のころまでありました。実が熟れると食べていました。実の大きさの割には種が大きく、うまさもそうないし、まあ果物もないから食べておくか、くらいの気持ちでした。
これも食べて病気になったら困るからか、おっかさんが切ってしまいました。
家の裏の隣りとの境辺に夾竹桃がありました。夏には赤い花をつけます。この木には毒があるから触るなとおっかさんが言っていました。
でも、小学生のときにはこの木はよく利用していました。
ちゃんばらの刀にしていました。手ごろの長さに切り、刃の部分になるところの皮を肥後守(ひごのかみ、おりたたみのナイフ)ではがしていました。
枝分かれの部分は十手にもなりました。
ゴム銃にもなりますが、小学生ころにはこれに使うゴムがなかなかありませんでした。
玄関の横(桃の木があった反対側)には青桐がありました。これはよく成長します。切らないとどんどん枝が伸びて持て余します。この枝を遊びの刀にすることもありました。
実の方がよく遊びに使いました。まだ実が青いうちに袋(実は袋の中にあります)ごと千切ります。洗面器に水をはりそのなかで袋の中の実をはずします。茶色の水分が袋に中にはあるので水のなかでの作業がいいようです。
この青い実は吹き矢の玉に使います。実よりも少し大きい口径を持つ女竹(めだけ)を切ってきて、青桐の実をつめて吹いて遊んでいました。
紙を噛んで玉にして吹き矢に使っていたころもありますが、戦争中は紙は貴重品で、こっそり持ち出そうならどこの家でも叱られました。
青桐に実は秋には水気がなくなり、ひからびます。いつも腹が減っているので食べることもありました。