子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

ばんこ(路地で)

2014年05月30日 | 小学生時代
路地で忘れられない物に「ばんこ」があります。
ばんこはわたしの地方では「縁台」のことです。もうご存知ない方もあるかもしれませんね。庭や路地などに置いて休憩や夕涼みなどに使う細長い腰掛けのことです。わが路地にはタタミ一畳くらいの広さの木製のばんこがありました。それは頑丈に作られていました。

暑くなると夕方には路地にばんこが出ます。ここにはよく「せどわ風」が吹きます。せどわも方言です。小さい道や家と家の間をわたしたちはせどわと言っていました。

ばんこは大人の男の社交場のようでした。夕食を食べて、シャツとパンツでうちわを持って三々五々と集まってきていました。前面に大人が座り、子どもたちは後ろ側に足をブラブラさせながら腰かけていました。子どもも出てくるのは男ばかりでした。

昭和19(1944)年ごろ、新聞を取っている家もラジオがある家もこの路地の周りにはなかったと思います。どんな話を大人たちはしていたかは記憶にありません。

斜め前の家に住んでいた、せいちゃんのお父さんのことをよく記憶しています。
せいちゃんのお父さんは目の大きい人でした。このころは病気で仕事には行っていませんでした。おなかがお相撲さんのように大きく、シャツの前を開けて、うちわをいつも使っていました。

わが家のふすまを張り替えて取っ手をつけ、エナメルで塗ってくれたことも覚えています。

疎開から帰って、せいちゃんの家族のことをおっかさんに聞くとお父さんは亡くなられたと言いました。おなかが大きかったのは病気のせいだったそうです。
せいちゃんともそれから会っていません。

せいちゃんのお母さんはいつも悲しい顔をしていたことも思い出します。それはご主人が病気だったためかもしれません。

鍋の修繕屋さん(路地で)

2014年05月27日 | 中、高時代
路地には鍋の修繕屋さんも来ました。これは太平洋戦争の戦後のことです。
戦争中に家庭の金属製品まで供出させられたので陶器の鍋に変わっていました。

戦後アルマイトの鍋が多かった記憶があります。そして粗悪だったのです。
「鍋の修繕はありませんか。鍋の修繕します」と鍋の修繕屋さんが来ていました。

依頼があると、タタミ半畳(はんじょう)くらいのゴザを敷き仕事を始めます。
鉄道のレールを20センチくらい切ったような鉄の台を下に置き、その上に鍋を置きます。
鍋の穴(修繕はこの穴を塞ぐのです)に鋲(びょう)を詰め、金槌で叩いて塞ぎます。

鋲と言うのは頭に笠形の物が付いた釘です。凸の形を思ってください。
わが家の鍋はこれでいくつもの穴を塞いでいました。

この鍋の修繕屋さんのほかにも、ノコ(のこぎり)の目立て屋さんや包丁の研ぎ屋さんも路地には来ていました。

包丁研ぎ屋さんはいまはスーパーの駐車場に来るようです。きょう近くのスーパーで見ました。

子どもたちはどの商売も眼をいっぱい開けて見ていました。

畳屋さん(路地で)

2014年05月16日 | 小学生時代
いまどきの家は畳がある部屋が少ないようです。そして畳を替えるときにも畳屋さんは自分のところで作業をして、出来上がった畳を持ってくるので注文主の家や路地で作業をすることはありません。

わたしの子どものころの畳屋さんは注文主の家の庭や路地で作業をしました。
畳1枚分の木組みの台を置きます。その上に古い方の畳を置き、畳表やヘリを替えます。その作業の手つきや道具が子どもにはたいへん魅力的でした。

道具は職人さんの手の届くところに置かれていました。針もいろいろあり、包丁も2種類あったと思います。
それらを手際よく使って畳表の裏返しをしたり、新しい畳表にしたりしていきます。
針も包丁も家で見るのとは違っていました。その珍しさ、包丁の切れ味、どれも珍しいことばかりでした。
邪魔にならない場所から瞬きもしないようにして見ていました。

部屋に畳を敷くときにも特別な鉤(かぎ)、先のまがったものを使い、上手に敷いていました。
このころは春と秋に大掃除の日がありました。各家庭で畳を外に干さなければなりませんでした。畳を上げるのはかねの火箸を畳の下に入れて持ち上げます。これには要領がいります(職人さんはかぎでひょいと上げます。慣れたものです)。1枚の畳をおっかさんかおとっつあんと抱えて出したり入れたりしていました。2人で持っても畳は重いです。
職人さんは軽々と持ち、上手に敷いていきます。感心して見ていました。

畳表は2度使うことも若い人はご存知ないかもしれませんね。
新しい畳表にして(このときのイグサの匂いはなんとも言えません。いい匂いです)それが日の光で焼けたりしたら裏返しして使います。1枚を表、裏と2度使うのです。

路地に畳屋さんは滅多に来ないので最初から最後まで飽かずに見ていたものです。

たが屋さん(路地で)

2014年05月14日 | 小学生時代
路地はわたしたち子どもの遊び場でしたが商売の人がよく来るところでもありました。

「アサリ貝、アサリ貝」「とーふ 豆腐」「長洲の漬けアミ」などの売り声も聞こえて来ましたが、これらはわたしが高校生になってからだったでしょう。「長洲の漬けアミ」には注釈がいるでしょう。長洲は熊本県の長洲町のことです。金魚の養殖でも有名ですが、海岸部にある町です。そこで獲れたオキアミを加工して売りに来る人がいました。

これより前小学生のころの訪問商売です。
「箍(たが)屋、たが屋」天秤(てんびん)の片方に竹の輪をかけもう一方に道具箱をかけて路地に入ってくる人がありました。
桶の輪(たが)を替える人です。たが屋さんは落語にも登場します。ご存知の方も多いでしょう。

念のための説明です。おっかさんが日向水で行水していたタライは木でできていました。湯桶も肥たご(肥桶)も木製でした。そうそう、おっかさんがヤミ屋に転業してカモフラージュに使っていた蓋つきの桶も木製でした。

金物が普及する以前は木製の物が多かったです。

たが屋さんは注文がればそこでゴザを敷いて作業を始めました。竹を編むように桶の周りに回して締めていきます。
作業を見ながらわたしたちは待っていました。何を?どうして?


古い輪(たが)をもらうためです。これがまた遊びの道具になるのです。あとでは古自転車のリムをもらいましたが、それが手に入らない時代にはこの輪をもらって回したものです。子どもの輪回しの道具になりました。

たが屋さんはわたしたちが待っている職人さんでした。

蹄鉄屋さん

2014年05月03日 | 小学生時代


大分県の湯布院に行ってきました。
遊覧馬車に乗りました。上の写真がその馬車です。御者の人がいろいろ話してくれました。近くに蹄鉄屋(ていてつや)さんがいなくなり、遠くに連れて行かなくてはならない。そこがなくなれば辻馬車は辞めねばならない。鞍(くら)は外国製になっているなどなど。

馬は少なくなっています。わたしの子どものころは荷馬車をよく見ました。
蹄鉄屋さんもありました。これは隣の小学校区でしたが、校区境にありました。鍛冶屋(かじや)さんのようでした。いつも火がおきていて、鉄を火に入れては出し、金槌で叩いて曲げたり伸ばしたりして、U字形にしていきます。

馬が連れてこられると、手綱を左右の柱につなぎます(ここはちょっと記憶があいまいです)。できるだけ動かないように、作業がしなすいようにしていたようです。

まずひづめ(蹄、堅い角質のつめ)を刃物で削ります。この刃物も独特で押して切るものでした。馬のペディキュアでしょうか。
そのあとU字形の蹄鉄を足裏に付けます。足裏の大きさに合わせるためにトッテンカントッテンカン。火の出し入れ、金槌で叩く作業が続きます。
蹄鉄が合ったらそれを金釘で止めていました。

馬が来るというのはラッキーで、一連の作業を店先で見ていたものです。

U字型の蹄鉄で遊んでいる西部劇の映画を見たような、これも記憶があいまいです。