子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

32. 空襲対策

2012年12月09日 | 小学生時代
わが市が第1回の空襲を受けたのは1944(昭和19)年11月21日です。一部の地域が空襲を受けて死傷者33人と市史にあります。今のようにテレビもケータイ電話もなく、ラジオはあっても報道されなかったようで(わが家にはラジオはありませんでしたので、はっきりとは言えませんが)空襲があったことも当時は知りませんでした。

お上からの達しででしょうか、まず空襲対策として天井板をはずされました。焼夷弾が天井に留まり延焼する。天井がなければ下に落ちてくるので、そこで消すように、ということらしかったです。実際消せたかどうかはわかりません。
わが家には焼夷弾は落ちませんでした。戦後雨漏りが畳に落ちて困りました。

次には、防空壕を作るように達しがあったのでしょう。家の中に、畳の下に掘りました。とうちゃんとかあちゃんとわたしの3人が入れるようには掘れません。

これではダメと狭い庭に掘りました。これは3人が入れるくらいの広さでした。でも、爆弾が落ちればひとたまりもなかったでしょう。

消火のための水を溜めておく防火水槽を玄関の横に置いていました。セメント製のいま思えば貧弱なものでした。水が1立方メートルくらい入るものでした。
水を換えないので、夏はよくボウフラがわきました。ボウフラの動きは面白く、飽きずに眺めたものです。いまの子どもたちはボウフラは知らないでしょうね。
防火水槽はどこかに残っていないかと探しています。見つけたら写真でお見せします。

2メートルくらいの竹竿の先に藁を巻いて、火消の道具も作りました。焼夷弾が落ちたら、藁先を防火水槽につけて消火する道具でした。これも玄関の横に立てかけていました。

どれも空襲対策には役に立たなかったようです。