子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

72. 生徒も荒れていた

2013年06月30日 | 中、高時代
校舎だけでなく、生徒も荒れていました。

入学してから聞いた話ですが、予科練帰りの生徒が講堂で拳銃を発砲した、短刀を持ち歩いている上級生がいた、というのです。そのころはありうる話と思いました。

「1年○組、全員廊下に出ろ」
わたしたちの教室に4年生が来て叫びました。わたしたちは何が何かわからないまま、廊下に出ました。

「正座せろ」
みんな座らされました。廊下の穴ぼこを避けて、全員座りました。座ると、数人の4年生がびんたしていきました。なんでびんたされるのか、わかりませんでした。
4年生が気に障ることをわたしたち1年生の誰かがしたのでしょう。連帯責任を取らされたみたいです。

上級生には反抗できません。上級生のなかでは4年生がいちばん怖かったです。

戦争中に恐ろしかった先生も終戦後は恐ろしくありませんでした。小さかったから飛び上がってびんたした先生、罰に産業道路の馬糞を集めて来いと命じた先生(馬糞は学校の畑の肥料にします)、罰はいつも逆立ちと言うから名前を逆さにしてあだ名にされた先生。どの先生もわたしの入学ころは、ええそんな先生?と思うほどでした。

あまりにおとなしい先生は、代返やエスケープのターゲットにされました。

先生たちも、戦後の民主教育に戸惑っていたのでしょう。

71. ボロ校舎

2013年06月29日 | 中、高時代
中学校の校舎には驚きました。

わたしが中学校に入学したのは昭和21年(1946)4月です。その翌年7月からNHKラジオで「鐘の鳴る丘」というドラマが始まりました。このドラマの主題歌は”とんがり帽子”(菊田一夫作詞、古関裕而作曲)。その歌いだしは♪緑の丘の赤い屋根 です。これが放送されるとすぐに替え歌が作られました。

♪○○丘のボロ校舎 ほんとにボロ校舎でした。教室の窓ガラスは破れてなく(冬は風が吹き込み寒かったです)、廊下側の腰板も破れていました。後ろ側の戸(木製でした)も開け閉めしなくてもこっそり出入りできました。出席を取られた後抜け出す生徒が利用するのです。代返(代理で返事すること)は何人分もできないので、返事は自分でして、そのあとエスケープする者もいました。

廊下もひどかったです。あちこちの踏み板がなく、そこに足を突っ込んで大けがをした者もあったそうです。

荒れていたのは校舎だけではなかったです。

70. 幸いにも、中学合格

2013年06月26日 | 疎開生活
幸いにも、中学に合格しました。級長といっしょです。副級長も志望校に合格したと聞きました。

突然ですが、下の写真は打越神社というお宮です。級長の家の近くにあります。最近撮影しましたが、年代物の飾りや敷石のへこみ具合から当時のままのようです。


わが疎開先はここから歩いて10分以上かかります。

中学まで級長と歩いて通学しました。バスもなく、自転車もなく、使えるのは足だけです。

かあちゃんと暗いうちにこの神社に来て、拝殿の縁側あるいは入り口とういうのでしょうか、ここに座って明るくなるのと級長が来るのを待ちました。まだわが家には時計がありませんでした。時間がわからないので、早くから神社で待っていたのです。

ネットで調べてみましたが、ここから学校まで6キロ以上あります。途中に標高120メートルくらいの峠もあります。どのくらいの時間がかかったのか、記憶していません。

中学校は驚きの連続でした。次回以降に書きます。

69. また食べものの話

2013年06月18日 | 疎開生活
飢餓世代にとって、食べもののことは忘れられません。

早朝、伯母さんの家の畑でのこと。畑にスイカが植えてありました。伯母さんは指でスイカを弾いていきました。音を聞き、ひとつのスイカのツルを切り、鎌でざっくり切り割りました。わたしは渡されたスイカにかぶりつきました。朝露に冷えてそのうまいこと!近ごろは冷蔵庫で冷やしたスイカを食べますが、この畑で食べたスイカには及びません。朝露は天然の冷蔵庫だったのですね。

トマトも朝畑で食べたのはうまかったです。テレビではレポーターが「ジューシー」と言った食べますが、まさに畑で食べたトマトはジューシーでした。
あるトマト農家に尋ねたことがあります。「スーパーで買って食べるトマトはジューシーと思うことがない」と。その人は言いました。「それは仕方がないです。ハウスで栽培したトマトはまだ青いうちに収穫して、家で整えてから青果市場に持って行き、その翌日セリにかかり、その日か翌日の店頭に並びます。その時に赤く熟れて新鮮に見えればいいのです」

スイカもトマトも完熟を畑で食べるのが一番のようです。

木や草に生ったものは以前書きました、さくらんぼ、桑の実、ススキの穂、椎の実のほかにいくつかあります。

今ごろでしたでしょうか、ヤマモモを木に登って食べました。伯母さんちの入り口にヤマモモの木がありました。そこに一人登って黒赤色の実を食べました。
秋にはむかごを採って、塩茹でにしたりご飯に炊き込んだりしました。
ウベやアケビを採りに連れて行ってもらったこともあります。これはなかなか採れませんでしたね。

椎の実は町で昭和30年代に売っていたことがあります。菱の実を茹で、椎の実を煎っていました。懐かしいので、1度だけ椎の実を買って食べました。椎の実は疎開生活の思い出です。

68. トリわな ウサギわな

2013年06月14日 | 疎開生活
受験勉強中の楽しみにトリわなやウサギわなもありました。

冬にはトリの餌が少なくなるので、餌を置いたわなを作るのです。林の中やたんぼのすぐ横の森の中にわなは作りました。赤い木の実などを地面に置いてその周りを竹や木で囲みます。1か所だけ囲みに入れるよう開けます。トリが中に入って餌に食いつくと入り口が閉まる仕掛けです。

標的は「チョットコイ」でした。チョットコイはトリの鳴き声です。ほんとうはコジュケイ(小綬鶏)というトリですが、わたしたちは鳴き声からチョットコイと言っていました。

ウサギわなも森の中に作りました。これはウサギ道を見つけることから始めます。「ウサギはいつも通る道がある」これはしんちゃんたちの言葉です。ウサギのフンを見つけ、ウサギが通ったようなところを探します。針金の先に輪を作りそれを竹にくくりつけ、ウサギ道の上に来るようにします。針金の輪をウサギ道の上に隠します。ウサギが輪に首を突っ込むと竹がしなりウサギを釣り上げます。

トリわなもウサギわなも、毎日見に行きました。チョットコイやウサギがわなにかかっていそうな気ばかりしました。そうたやすくわなにはかかりません。

1度ウサギと人の通る道で遭遇しました。追いかけましたが、足の速いこと速いこと!!(^^)!