子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

公民館の結婚式

2013年09月28日 | 大人になって
前回の「昭和初期の料理カルタ」で昭和初期に「生活改善運動」があったことを初めて知りました。

戦後にも「生活改善運動」がありました。わたしが知っているのは農村の生活改善運動で、かまどの改善、台所や風呂の改善、給水設備の設置などがありました。疎開先も台地でしたが水道が引かれました。かまどや風呂も改善されました。

昭和30年代に公民館で結婚式が行われていましたが、これも新生活運動だったかもしれません。(断定はできませんが)

こんな結婚式でした。
公民館の和室に新郎新婦、両方の親兄弟、親戚、仲人、両方で20人くらいが出席します。司会者は公民館の職員、お謡い、雄蝶雌蝶(おちょうめちょう。婚礼のとき銚子で三々九度の酌をする人)も公民館の職員か市の職員。これで式が進み、誓いの言葉を色紙に書いて式は終了です。
そのあと両方で会食しました。銚子は1人に2本、料理も質素。初めての顔合わせで、歌も出ませんでした。

こんな結婚式でした。友だち、職場の上司、同僚は式の後で会費制での披露宴でした。

わたしとかみさんはこの公民館での結婚式と会費制の披露宴で結ばれました。

このころも貧乏でした。3万円の結納金がなくてかみさんに借りました。新婚旅行のカネがなく義兄からのお祝い3万円を持ってでかけました。かみさんも最初はやさしかったです。

でも、でも。綾小路きみまろ風に言えば「あれから五十年、今では……」(-_-;)

*このブログは高校生で終わるつもりです。新生活運動で結婚式のことを思い出したので書きました。

昭和初期の料理カルタ

2013年09月22日 | 余談
わたしの「中、高時代」は昭和21年以降ですが、面白い料理カルタを見たのでそのことを書きます。

最近カルタ館で見たカルタです。後で書きますが、昭和8年の教科書に横に置かれていましたので、そのころのカルタかもしれません。11組展示してありました。そのうちの6組です。

読み札「年よりに 大根おろしを すすむれば ますます長命出来る めでたさ」
取り札(文字だけ)「ますます ちやうめい できるめでたさ」

読み札「安い肉 こなれわるしと 馬鹿にする たたけばやをく こなれよくなる」
取り札「たたけば やをく こなれよくなる」

読み札「鰯をば 国益魚と名づけけり 安くて人を こやす魚とて」
取り札「安くてひとを こやす魚とて」

読み札「ご飯焚き ふきこぼすなよ おねばりを あれはお米の滋養なりけり」
取り札「あれは お米のじやうなりけり」

読み札「バケツには塩けのものは禁物ぞ 亜鉛がとけて すぐに破ぶれる」
取り札「あえんがとけて すぐにやぶれる」

読み札「お国には米が足らぬぞ 麥めしや 菜飯 混食 常に守れよ」
取り札「なめし 混食 つねに守れよ」

横に展示してあったのが、昭和8年の『高等小学家事教科書』でした。家事科は1926(大正15)年に高等科女子の必修科になり、科学的な内容、家庭生活の合理化、当時盛んだった生活改善運動を反映しているものになっていたそうです。

カルタにもそれが反映しているようです。

*カルタは旧仮名づかいです。すすむはすゝむ、ますますはます~と表記されていました。国も旧字で國です。すったくしました。

軽リヤカーの装備

2013年09月20日 | 中、高時代
かあちゃんの軽リヤカーには必ず載せている物がありました。
それは肥たご(肥桶)でした。

化学肥料を使う前は人の糞尿が肥料でした。各家庭のトイレはポットンでした。溜まったころには農家の人がそれを収集に来ていました。農家の人がお金を払ったところもあるらしいですが、家ではたまに大根などをもらったと聞いたことがあります。
便ツボから柄杓(ひしゃく)で汲み肥たごに入れます。それをリヤカーや馬車に載せて運びました。

かあちゃんの肥たごはカモフラージュです。いかにも田舎の人が物を運んでいるように見せかけたのです。肥たごには蓋がついていて、中は見えません。秋には藁をもらって被せていました。時には野菜も載せていました。

かあちゃんはもともと農家の出ですから風体は農家のおばさんに見えました。日本手ぬぐいを姉さん被りにしモンペに地下足袋、どこから見ても農家のおばさんです。

最初はからいも(甘藷)など、後では主としてコメを10年以上運び、生計を立てました。

普通リヤカー、軽リヤカー

2013年09月17日 | 中、高時代
かあちゃんのリヤカーのことを書きたいのですが、その前に当時家庭にあった押し車のことを書きます。

わが市の多くの家庭に押し車がありました。前に乳母車のことを書きました。その乳母車を頭に描いてください。赤ちゃんを乗せる籐のカゴの部分が杉板で出来ていました。4輪の車は鉄製です。乳母車よりも重いですが、丈夫で荷物を多く載せられます。売店(会社の福利厚生の店)に石炭やコークスの配給を取りに行き、それを載せて家に持ち帰ったりします。かあちゃんたちは数人で団体行動をするので、この押し車が通るとやかましいほどの音がしました。

かあちゃんもこの押し車で買い出しを考えてようですが、片道9キロ以上を押していくのは無理でした。

まず、普通のリヤカーを買ってきました。荷物を載せないで、このリヤカーを引いてもたいへんでした。重いのです。燃費ならぬ強い人力が要ります。
かあちゃんはすぐに軽いリヤカーに替えました。

特注だったのでしょうか(聞いていませんので)タイヤは同じで、荷載せの部分が小さくて軽かったです。前のが燃費の悪い普通車なら、後のは軽のエコカーみたいなものです。

それでも荷物を載せて、坂を上がるのはたいへんでした。

自転車の乗れないかあちゃんはリヤカーを引きましたが、自転車に乗れる男性は荷物運びには特注の自転車を利用しました。後ろのタイヤをリヤカーのような大きいものにしてスタンドも大きく、荷載せのカゴも大きかったです。

ついでですが、バイクは原付自転車と言っていました。ほんとに自転車に原動機が付いていました。昭和30年代の中ごろです。見た人も少なくなったでしょうね。

かあちゃんは強かった

2013年09月13日 | 中、高時代
かあちゃんが商売替えして始めたかつぎ屋は食料の運搬でした。戦後は食べものならなんでも右から左に売れました。

かあちゃんが買い出しに行ったところをYAHOO!地図でなぞってみました。
当時のわが家から9キロ強、徒歩で2時間以上かかると、ありました。途中にはアップダウンがあります。それと駐在所が2か所あったと思います。行きも帰りもここの前を通らねばなりませんでした。精神的にも肉体的にもたいへんな仕事だったと思います。

かあちゃんは口下手でした。買い出しに行った先には知り合いはいませんでした。知らないところでどうしてからいも(甘藷)や米が買えたか、不思議です。品物が買えなくて手ぶらで帰って来たことはありませんでした。

わたしも休みの日にはリヤカーを押す手伝いに行きました。
往復18,9キロ、4時間以上歩くだけでもたいへんです。帰りは荷物もあり、気もはりっぱなしです。1度だけ、かあちゃんが黄色い汗を流すのを見ました。ずっと後で汗に色があるのか調べましたが、色のことはわかりませんでした。このときは随分疲れていたのだろうと、いまでも思います。

かあちゃんは農家の三女、次女の伯母さん(疎開先の)ともども働き者でした。