子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

カエルも食べた

2015年07月19日 | 中、高時代
国道沿いにあるちゃんぽんやで昼食を食べました。そのあと駐車している車のところへ歩いていると、
「ブォー、ブォー」という鳴き声が聞こえて来ました。
これは確かにあの鳴き声だ。そう思って下水の方へ歩いて行きました。草に覆われた下水がありました。
鳴き声の主はどこにいるかわかりません。この声の主はあまり姿を見せないと聞いています。

そしてこの声の主を食べたことを思い出しました。

泣き声が牛に似ているから(わたしはそう思いませんが)ウシガエルと言います。わたしは1度食べたので食用ガエルと覚えています。
北アメリカの原産で、大正時代に輸入されて各地で繁殖したそうです。

としおじさんの家で、やわらかい肉を食べました。
食べた後で「食用ガエル」と教えられました。
カエル?
吐き出しはしませんでしたが、カエルかと思いました。

わたしのなかにカエルはイボガエルしかありませんでした。川も小川も近くにないので、カエルはほとんど見ませんでした。
町なかのわが家には夏になるとイボガエルが出てきました。下の写真のように全身にイボがあるカエルです。



ワクドとか敬称を付けてワクドサンと呼んでいました。
町なかで見るのはこのワクドサンだけでした。ワクドサンの印象が強くて、ウシガエルはこの時の一口だけです。
それ以後は口にしていません。

駅伝から 逃げる

2015年06月19日 | 中、高時代
体が弱い→引っ込み思案→消極的となるのでしょうか。

石橋をたたいて、普通は渡るのですが、石橋をたたいても渡らない、性格になってしまいました。

疎開のときには「川に泳ぎに行こう」と誘われても行きませんでした。
下の集落には川が流れていましたが、泳いだことも水に入ったこともありません。
恐ろしかったのです。

高校3年の体育の時間に、校庭で200メートルか400メートルの競走がありました。
真面目に一生懸命に走りました。

この時のタイムがよかっのでしょう。駅伝のクラス対抗の選手に選ばれてしまったのです。

わたしの性格です。「どうしよう、どうしよう」「走りきるか(走ることができるか)、途中で具合が悪くならないか」
そんな心配ばかりです。
完走して、タスキを次に渡すイメージはわかないのです。

駅伝競走の日が近づいてきます。

もう待ったなしです。かかりつけのお医者さんに行きました。胃薬をいつももらっていました。

先生に心臓が悪いという診断書を書いてもらって、学校に提出しました。

そのあとの駅伝競走のことは何も覚えていません。だれが走ったのか、どこまで走ったのか、覚えているのは駅伝から逃げたことだけです。

お灸の痕

2015年06月05日 | 中、高時代
体が弱かったことは前にも書きました。

よく風邪を引きました。そして扁桃腺が腫れるのです。
熱もよく出ました。

腹もよく痛めました。下痢もしました。

痩せて、ひょろひょろでした。

虚弱児でした。それがそのまま大きくなったので、上背はあるのに痩せで骨ぼそです。
秋のススキみたいです。

おっかさんはいつも心配してくれていました。
中学生のころ(たぶん)お灸をしに連れていかれました。魚の骨を取りに連れていかれた西藤病院からそんなに遠くないところだったと思います。

お灸は背中にされました。2列に4点、灸をされたと記憶しています。熱かったです。

苦い薬も何回も飲みました。でも、この灸の熱さは格別でした。
今も、毎週鍼と灸の治療を受けていますが、最近の灸は熱さを抑えてあります。楽です。

子どもの時の灸は痕が残り、後々まで銭湯や温泉に入るときに友人にいろいろ尋ねられました。
子どものときにお灸をした者は周りにはいませんでした。珍しがられて話の種にされました。

懐かしか 「ふなやき」

2015年05月04日 | 中、高時代
帚木蓬生著『天に星 地に花』を読んでいたら懐かしい食べ物に出会った。

ー(治療で庄十郎に世話になった)老女が竹の皮に包んだ物を差しだす。
「ふなやきです」
竹皮包みの中を覗き込もうとしている庄十郎に老女が言う。
「ふなやき」
久しぶりに耳にする食い物の名だ。母が事あるごとに作ってくれたのを思い出す。城島町に行ってからは、口にしていない。同じ久留米領内でありながら、郡が違えば食物も違うのだ。
麥粉を練って、薄く焼いたものに味噌を挟んだ紛れもないふなやきだった。母は稀に、貴重な黒砂糖を入れてくれていた。その味は子供心にもその味は格別だった。-

ふなやき、わたしにも懐かしい食べ物です。
小麦粉に水を入れて練って、油を引いて熱したフライパンで薄く焼いたものです。

わが家では黒砂糖を入れたものはなかったです。黒砂糖は貴重でしたから。
せいぜいふなやきに挟むのはイモの練ったくりでした。イモの練ったくりというのは甘藷を蒸かして、それを潰すのです。
甘くて、うまかったです。

懐かしか、ほんとに懐かしかです。わたしもおっかさんを思いました。

帚木蓬生さんの著作からわたしもふなやきを思い出してよかったです。

テニスボールで甲乙丙丁

2015年02月08日 | 中、高時代
先日朝日新聞に「昔のテニスはラケットを使っていなかったよ。どうやってプレーしていたかな」
「11世紀ごろのフランスで手のひらでボールを打ち合ったことがテニスの始まりとされている」(2015・02・02付)とありました。

これを見て思い出しました。
わたしたちもテニスボールで甲乙丙丁という遊びをしていました。

甲乙丙丁と言っても、ことば自体を知らない人が多いでしょう。通信簿(これも今では違うのでしょうね)の成績です。
わたしたちのころは優良可不可、あるいは優の上に秀がありました?(見たことがないのでよくわかりません)

要するにどんな遊びか、説明します。
地面に下の図のように線を引きます。



最初はジャンケンで1~4番までを決めます。1番が甲のスペースに入り、2番乙、3番丙、4番丁に入ります。

プレイで丁がボールを落し、手のひらでボールを打って甲乙丙のいずれかのスペースに入れます。
だれかが失敗するまでラリーが続きます。
丁が負けたら場外へ退き、次の人が入ります。
丙が負けたら丁はひとつ上の丙の場所に進みます。負けた人が下がり、次の人が上がります。

甲乙丙丁と書いている場所に打ったボールが入れば一発場外です。甲といえども一番下まで下がります(待っている人の最後尾)。

4人では落ちる人がいなくて面白くなく、6,7人までの遊びでした。それ以上の人では待ち時間が長くなり、待つ人が退屈します。

わたしたちの子どものころはテニスボール1個でいろいろな遊びがありました。甲乙丙丁はその一つでした。