子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

22. 昭和17年の台風被害

2012年07月31日 | 小学生時代
「平成24年北部九州豪雨」はわが近くの市町村にも大きな被害が出ました。
被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げます。

今回はわが市には大きな被害は出ませんでしたが、
わたしが知った風水害の大きな被害は昭和17年(1942)の台風が最初です。
「堤防が切れた」「家が流された」「墓が倒れ骨が出てきた」など断片的に聞きました。

市史によれば、次のような被害が出たそうです。

8月27日、午後8時ごろ台風の最大風速は31.25メートルになり、9時半ごろの満潮時には潮位11.628メートルに達して、10時ごろには小浜町の埋立地の堤防が約130メートル余り欠損したのをはじめ、26か所約4,600メートルの及ぶ堤防が欠損した。

被害流失家屋46戸、全壊家屋120戸、半壊家屋191戸、床上浸水4,580戸、床下浸水2,477戸、死者12名、重傷者5名、軽傷16名という悲惨な被害を受けた。


21. 銭湯のこと

2012年07月24日 | 小学生時代
毎日暑いですね。
行水の次には銭湯のことを書きます。

風呂が家にあるのは、小学生のころは少数派でした。銭湯に行く家が多かったです。
わが家には木風呂がありましたが、毎日は沸かせませんでした。
と言っても、銭湯には片手で数えるくらいしか行った経験がありません。

銭湯にはめったに入りませんでしたが、遊びにはよく行きました。
1丁目、2丁目、3丁目とひと町内にひとつ銭湯がありました。銭湯の前には広場がありました。そこが遊び場でした。パチ(メンコ)やラムネン玉(ビー玉)の勝負の場でした。
1丁目は準ホームグラウンドですが、2丁目、3丁目はアウエーです。初めての者とも勝負をしなければなりません。遊び仲間と組んで出かけました。

銭湯での入浴の思い出は、午後3時ごろに入り、手拭いでさかなを作ったり、手で湯を飛ばしてひっかけぐっちょをしたりことです。
体を洗うよりも遊びの思い出だけです。

20. 日向水で行水

2012年07月20日 | 小学生時代
最近豪雨に見舞われたり、真夏日になったり、変な天気が続いています。

小学生のころにはこんな変な日が続くことは経験したことがなかった
ように記憶しています。

夏の朝に天気がよさそうと思われると、かあちゃんは庭(庭とは
言えないくらいの広さでした)にタライを出して水を張ります。
日向水(ひなたみず)です。
仕事から帰ってきて、これで行水をします。

もちろん、わたしも、とうちゃんも行水をします。
肌寒さを感じるまで、日向水の行水は続きました。

空襲に遭うまではわが家には木製の風呂がありました。それでも
夏は日向水の行水でした。

19. 奉安殿はセミの宝庫

2012年07月10日 | 小学生時代
戦争が始まっても、新聞もラジオもないので戦況はわからないまま
ノー天気に過ごしていました。
夏はヤンマーやセミを追っかけました。

セミは木立のあるところ、奉安殿にいちばん集まっていました。
奉安殿(ほうあんでん)と言ってもご存知ない方がほとんどでしょう。

学校に下賜された「御真影」や教育勅語など勅語類を安置する建物で、
校舎から離れた地点に建設されました。御真影というのは、天皇、皇后
の写真です。

わが校ではコンクリート造りの建物で、敷地に玉砂利が敷かれ、周り
には柵がありました。
奉安殿の前は敬礼をして通りました。敷地の中に入ることはできません。

セミを捕るときにはトリモチをつけた竿を持って、柵の上に上がります。
そこから届く範囲しか捕れません。
セミはそれを見透かしたように木の上で「ワシワシ」と鳴きます。

セミと我慢比べのように柵の上にじっとしていました。