子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

13. 東西南北

2012年05月22日 | 小学生時代

例によって何年生のときか、覚えていません(-"-)。

「市役所は西」「市立病院は南西にある」など方角を
勉強したときです。
先生は「わかりましたね。それでは先生が尋ねますから
答えてください」
先生はわたしたちのほうを見渡しました。
「みなさんの家はどちらにありますか」
わたしは下を向いていました。尋ねられて手を挙げたことは
ありません。小学校でも中学でも高校でも手を挙げたことは
なかったです。自慢はできませんが^^。

このときは、先生はどう思ったのかわたしに当てました。
わたしは立って、指差しながら「あっち!」。

教室は一瞬静まり、そのあと「わーっ!」と声が上がり笑いに
包まれました。

これも恥ずかしい思い出です。

12. 医務室で

2012年05月18日 | 小学生時代
朝礼で校長先生の話が長くなると、気分が悪くなることが
多かったです。
気分が悪くなると、医務室に連れていかれました。今は
保健室というようですが、わたしの小学生のころは医務室と言い、
たぶん看護婦さんがおられました。(今は保健の先生のようですが)

医務室は日当たりが良い部屋で、ベッドが一つありました。そこに
寝せられ、毛布を掛けられます。この毛布がふわふわで、日光に十分
干されていました。
わが家の毛布とは全然違って、気持ちよかったです。
ベッドで寝ていれば気分がよくなって、教室に戻りました。

ここで肝油を飲まされていたことも思い出します。
体が弱かったので、かあちゃんは薬や梅肉エキスのようなものには金を
かけてくれました。

小学校で肝油を飲んだという人は少ないでしょうね。
肝油も時代によってでしょうか、ゼリー状、球形のものがあり、針のない
注射器で直接口に入れられたこともありました。
これらは希望者だけ医務室で飲まされていました。

わたしは医務室の常連だったのです。

11. ゲッテン

2012年05月03日 | 小学生時代
これは小学校に入る前か小学生になってからか、はっきりしないのですが……。
わたしの話にはこんなのが多くてすみません。

ヤマの選炭場に行った記憶があります。
炭鉱から直接ベルトコンベアに乗って石炭が上がってきました。
ベルトは複数(2か3)あったようです。その両脇に選炭婦(かあちゃんたち
女性ばかりでした)が並んでいました。

石炭が上がって、目の前を通るとき、石炭以外の不純物があれば拾い出します。
「ほらゲッテン」と言いながらわたしに手渡してくれるおばさんもいました。

選炭場に行った記憶は1度だけです。いまなら、危険だと子どもは入れて
もらえないでしょう。そのころはルーズだったのでしょう。

ゲッテンは石炭の中の不純物でしたが、かあちゃんは「あん人はゲッテンじゃん、
酒飲んで、ぶらぶらして、いっちょん働こうとせらすさん」という言い方を
していました。
使い物にならないものも、ゲッテンと言ったようです。

ヤマが閉山して15年、ゲッテンという言葉が残っているかどうかは、わかりません。