子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

松根油のその後

2016年08月31日 | 疎開生活
このブログで疎開生活の中で「松の油とりと木の皮とり」を
したと書きました。(2013.04.25 疎開生活)

『戦争末期にはガソリンの代わりに松の根からとった油「松根油」を
戦闘機の燃料にしようと各地で松を掘り起こしたとず~っと後で知りました。
わたしの疎開先では、高等科の先輩たちに引率されて、のこぎりを持って山に入り、
松の立ち木に根元近くにのこぎりで筋目を何本も入れました。筋目はYの字にして
樹液が集まるようにしました。

樹液を集めた記憶はありません。高等科の先輩たちが集めたのでしょうか。
わかりません。』

最近、古い新聞を見ていたら松根油のことか書かれていました。(2015.11.14朝日新聞be)

各地で生産された松根粗油は近くの製油所で一次加工され、集められました。海軍と陸軍に集められたそうです。
松根油から航空燃料を生産できる本格的な施設は海軍燃料廠にしかなかったそうです。
九州は陸軍の管轄で、陸軍の研究は遅れていて試作段階に進んだのが終戦の年の6月だったそうです。
実際に航空燃料に加工されたかどうかは、疑わしいそうです。

戦争の役には立たなかった松根油ですが、戦後は漁船や脱穀機を動かす発動機の燃料に使われたそうです。
「国民が必死に搾り出した松根油が、無駄にならなかったのことは、せめてもの救いだろうか。」と新聞は結んでいます。

わたしも松根油のことがわかって、ほっとしました。

70. 幸いにも、中学合格

2013年06月26日 | 疎開生活
幸いにも、中学に合格しました。級長といっしょです。副級長も志望校に合格したと聞きました。

突然ですが、下の写真は打越神社というお宮です。級長の家の近くにあります。最近撮影しましたが、年代物の飾りや敷石のへこみ具合から当時のままのようです。


わが疎開先はここから歩いて10分以上かかります。

中学まで級長と歩いて通学しました。バスもなく、自転車もなく、使えるのは足だけです。

かあちゃんと暗いうちにこの神社に来て、拝殿の縁側あるいは入り口とういうのでしょうか、ここに座って明るくなるのと級長が来るのを待ちました。まだわが家には時計がありませんでした。時間がわからないので、早くから神社で待っていたのです。

ネットで調べてみましたが、ここから学校まで6キロ以上あります。途中に標高120メートルくらいの峠もあります。どのくらいの時間がかかったのか、記憶していません。

中学校は驚きの連続でした。次回以降に書きます。

69. また食べものの話

2013年06月18日 | 疎開生活
飢餓世代にとって、食べもののことは忘れられません。

早朝、伯母さんの家の畑でのこと。畑にスイカが植えてありました。伯母さんは指でスイカを弾いていきました。音を聞き、ひとつのスイカのツルを切り、鎌でざっくり切り割りました。わたしは渡されたスイカにかぶりつきました。朝露に冷えてそのうまいこと!近ごろは冷蔵庫で冷やしたスイカを食べますが、この畑で食べたスイカには及びません。朝露は天然の冷蔵庫だったのですね。

トマトも朝畑で食べたのはうまかったです。テレビではレポーターが「ジューシー」と言った食べますが、まさに畑で食べたトマトはジューシーでした。
あるトマト農家に尋ねたことがあります。「スーパーで買って食べるトマトはジューシーと思うことがない」と。その人は言いました。「それは仕方がないです。ハウスで栽培したトマトはまだ青いうちに収穫して、家で整えてから青果市場に持って行き、その翌日セリにかかり、その日か翌日の店頭に並びます。その時に赤く熟れて新鮮に見えればいいのです」

スイカもトマトも完熟を畑で食べるのが一番のようです。

木や草に生ったものは以前書きました、さくらんぼ、桑の実、ススキの穂、椎の実のほかにいくつかあります。

今ごろでしたでしょうか、ヤマモモを木に登って食べました。伯母さんちの入り口にヤマモモの木がありました。そこに一人登って黒赤色の実を食べました。
秋にはむかごを採って、塩茹でにしたりご飯に炊き込んだりしました。
ウベやアケビを採りに連れて行ってもらったこともあります。これはなかなか採れませんでしたね。

椎の実は町で昭和30年代に売っていたことがあります。菱の実を茹で、椎の実を煎っていました。懐かしいので、1度だけ椎の実を買って食べました。椎の実は疎開生活の思い出です。

68. トリわな ウサギわな

2013年06月14日 | 疎開生活
受験勉強中の楽しみにトリわなやウサギわなもありました。

冬にはトリの餌が少なくなるので、餌を置いたわなを作るのです。林の中やたんぼのすぐ横の森の中にわなは作りました。赤い木の実などを地面に置いてその周りを竹や木で囲みます。1か所だけ囲みに入れるよう開けます。トリが中に入って餌に食いつくと入り口が閉まる仕掛けです。

標的は「チョットコイ」でした。チョットコイはトリの鳴き声です。ほんとうはコジュケイ(小綬鶏)というトリですが、わたしたちは鳴き声からチョットコイと言っていました。

ウサギわなも森の中に作りました。これはウサギ道を見つけることから始めます。「ウサギはいつも通る道がある」これはしんちゃんたちの言葉です。ウサギのフンを見つけ、ウサギが通ったようなところを探します。針金の先に輪を作りそれを竹にくくりつけ、ウサギ道の上に来るようにします。針金の輪をウサギ道の上に隠します。ウサギが輪に首を突っ込むと竹がしなりウサギを釣り上げます。

トリわなもウサギわなも、毎日見に行きました。チョットコイやウサギがわなにかかっていそうな気ばかりしました。そうたやすくわなにはかかりません。

1度ウサギと人の通る道で遭遇しました。追いかけましたが、足の速いこと速いこと!!(^^)!

67. メジロ落し

2013年06月11日 | 疎開生活
受験勉強中も楽しみはありました。

その一つはメジロ落しでした。オスのメジロを捕まえるのです。これは冬の楽しみです。飼育するためのメジロかごは、とうちゃんに作ってもらいました。とうちゃんは器用に竹かごを作りました。

このかごと別のかごにオスのメジロを入れて山に行きます。オスのメジロは師匠のしんちゃんが飼っている鳥です。よく鳴くメジロでないと新しいメジロは捕まりません。

木の枝に二つの鳥かごを並べておきます。少し離れてわたしたちは隠れます。そして、しんちゃんがメジロの鳴き声を口笛で真似します。
かごの中のメジロがそれにつられて鳴きます。そこへオスのメジロが飛んできます。そして、さえずり合戦になります。と書くと、いとも簡単にメジロが来るようですが、なかなかオスのメジロは来ません。

近くにオスがいないらしいとわかると場所を移動します。

幸い、メジロが飛んできて、空いたかごの中に入るかトリモチで捕まえるかしたと覚えています。

しんちゃんは「メジロは高音を打たんと価値がなか」と選んでいましたが、わたしはそんなことにはお構いなく2羽捕まえてもらって養いました。野草を取ってきてすり鉢でつぶし、それに黄な粉を入れてすり餌を作ったように記憶しています。ミカンも半分にしてかごに入れました。
フンを取り出す、水浴をさせるなど世話はたいへんでした。

そして、メジロの鳴き声の練習をしました。メジロと鳴き声合戦をするためです。しっかり鳴いてくれるようにです。学校への行き帰り、しっかり練習をしました。勉強よりもメジロの鳴き声を練習したように記憶しています。

わが家の梅の木にメジロが来ることがあります。小学6年生に返ってメジロの鳴き声を真似てみますが、もう出来ません。

忘れるところでした。メジロは疎開から町に帰るときにかごを開けて放しました。