子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

はじめチョロチョロ、なかパッパ

2014年01月24日 | 中、高時代
当時の呼び名で満州から叔母さん(父の妹)が引き揚げてきました。数か月わが家に同居しました。
この叔母さんは一人で満州に行っていました。兄弟姉妹、親戚にも海を渡った人はありません。満州に行く前には大阪にも行っていたそうです。田舎の者にしては、一風変わった人でした。進取の気持ちを持った人だったのでしょう。

口やかましくもありました。ご飯を炊くわたしに口やかましく指導します。「よかですか。ご飯炊くのははじめチョロチョロ、なかパッパ、赤子泣くとも蓋取るなです」

毎回、これを言って噴きこぼれても蓋を取らないように見張って?いました。
この叔母さんについては、ご飯焚きのことを思い出します。

今の子どもたちはご飯は電気釜で炊くかサトウのご飯を買ってきてチンするものと思っているかもしれませんね。停電やスーパーにチンするご飯がないときには鍋でご飯が炊けるでしょうか。

戦後29年フィリピン・ルバング島にのジャングルに潜伏していた小野田寛郎さんが1月16日に91歳で亡くなられました。そのジャングル生活はわたしはマネはできません。
でも、飢餓世代は電気がなくても伯母さんの教えでご飯は炊けると思いました。小野田さんの死亡から叔母さんのことを思い出しました。

やんぼしさんの水かぶり

2014年01月20日 | 小学生時代
きょう(20日)は大寒です。

寒中にやんぼしさんが水かぶりで家々を回ったことを思い出しました。「やんぼし」は山伏のことで熊本県でも宮崎県でも、やんぼしと言っていたようです(福岡県南部の方言かと思い、ネットで調べました)。

夕暮れに山伏の装束で、ほら貝を持って玄関口に立ちます。ほら貝を吹き、経文を唱えてからバケツに入った水を頭からかぶります。そのあとも経文を唱えます。
家の人がお金(お布施?)を包んで渡します。
やんぼしさんは押し戴いて受け取り、それから次の家に行きます。

やんぼしさんの寒行か家内安全などの祈祷か知りませんが、昭和10年代の前半ころにやんぼしさんをよく見かけました。

冬の遊び

2014年01月17日 | 小学生時代
退屈な正月を過ぎての、小、中学校のころの冬の遊びです。

今よりも寒かったから体を動かす遊びをしました。個人の家では遊べないし、体育館もなかったので寒くても外遊びでした。
その一つが「おしくらまんじゅう」です。4,5人いればできます。小学校の西運動場に行き(野球の三角ベースもここでしました。遊びのホームグラウンドでもありました)円を描き、その中で背中合わせに立ちます。

わたしたちの暗黙のルールがありました。それは小さい子は内側に立たせることです。おしくらまんじゅうはおしりで押し合います。小さい子が外側にいては最初にはじき出されます。それでは小さい者は面白くないでしょう。少しでも長く円内にいられるように上級生が計らっていたのです。
これは結構温まります。今の子どもたちはおしくらまんじゅうをするのでしょうか。外遊びを勧めたいですね。

佐賀県武雄市ではニュースポーツとして「美味暮(おしくら)まんじゅう」を始めて13年目になるそうです。

手ぬぐい取り」という遊びも冬にすることが多かったと思います。日当たりのよい、風の吹かない板塀の前でしました。何人でもできますが、5,6人くらいがよいようです。日本手ぬぐいか鉢巻が1本あればできます。

最初にジャンケンで1番から順番を決めます。1番がとんさん(殿様)でその次に家来が順に並びます。一番負けがカンジンと言いました。
カンジンは一番下の家来の前に立ちます。
その家来は両手を肩幅くらいに縦(親指が上で小指が下)に開いて、両手の親指と人差し指の間に手ぬぐいを垂らします。カンジンは隙を見て上から手ぬぐいを取ります。家来は取らせまいと手ぬぐいにかかる瞬間に手ぬぐいを握ります。手ぬぐいを取ればカンジンの勝ち、手拭いを握れば家来の勝ち。勝った方が次の者の前に進みます。

勝つために取り手は百面相をしたり気をそらそうとしたりします。そこがこの遊びの面白いところでもあります。勝ち上がった者がとんさんの前に進みます。
とんさんの前で恭しく一礼します。ここで笑ったり歯を見せたりしたら、とんさんは「無礼者、さがれ」と言い、言われた者は最後尾からまた同じことを始めます。
無事一礼が終わると、手ぬぐいを持つのは上がって来たもので取るのがとんさんです。とんさんが勝てば「さがれ」と最後尾を指差します。とんさんが負ければカンジンになります。下剋上の遊びです。

筑後市では「とのさん引き」と言ったそうです。各地にあったのでしょう。今の子どもたちもやっているでしょうか。

正月は退屈

2014年01月11日 | 小学生時代
小学生から中学生までのころは年の暮れから正月までは退屈でした。

遊ぶ相手がいないのです。暮れは小さい子どもでもなにかと手伝いをさせられます。遊ぼうと誘いに行っても出てくる友だちはいません。
正月も同じです。遊ぶ相手がいないのです。
近くの友だちの家を一回りして、帰ってくることになります。
兄弟がいる友だちは兄弟と遊ぶのでしょう。一人っ子は親戚に行っているのかもしれません。

わが家は正月に行く親戚もなく、年始に来るのは近くのとしおじさんくらいでした。子どもを抱いて年始のあいさつに来るのですが、わたしとは6つか7つ年が離れているので遊び相手にはなりませんでした。

中学まではラジオもなく、と言って、パチ(メンコ)や双六をひとりでしても面白いものではありません。
遊べない、することがない、正月は退屈でした。

お年玉をもらったことがありません。そんな人は年始には来ませんでした。

糒(ほしいい)の思い出

2014年01月06日 | 小学生時代
1月4日夜のNHKの「大航海ごはん」を見ていると、昔々日本では大航海に出るときには糒を持って行ったといいます。糒とは「蒸して乾燥させた保存用の飯のことで、湯や水に浸して食べ、古くは旅の携行食」です。

テレビを見ていて思い出したことがあります。
わたしが記憶しているので、太平洋戦争が始まった前後ごろと思います。行軍の途中で2人の兵隊さんがわが家に泊まりました。一般家庭に分散して宿泊させたのでしょう。
兵隊さんが宿泊の朝、糒を置いていきました。このとき初めて糒を知りました。確かに兵隊さんの携行食だったのでしょう。

この糒を忘れられませんでした。

戦後、米が豊富になって夏ご飯が残ったときに「ほしいい」を作ることがありました。糒と音は同じですが、「干し飯」と書くほうです。
方言で「ねまる」(腐る)前のご飯を天日で乾かして保存用にしたものです。煎っておやつに食べた記憶があります。

糒をもう1度食べたいと思い続けていました。ずっとあとで旅行先の熊本県のどこかで(場所の記憶がありません(-_-;)。買ってきて食べました。砂糖が入っていて少し甘かったことは覚えています。

日本でも毎年餓死する人が出ます。世界でも食料不足です。
でも、コンビニの消費期限切れの弁当はすごく捨てられています。これを糒にすることはできないのでしょうか。飢餓世代のわたしはそう思います。糒ならどこの国、地域でも食べられます。もったいないです。