子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

かずちゃんが帰って来た   

2014年06月30日 | 中、高時代
高1のころ、校舎の陰に立っている男子がいました。
学生帽の上の部分、ここはなんという名前か知りませんが、油をべったり付けてテカテカ光らせています。つばを折り曲げて被っていました。

わたしは見た瞬間、ああ、かずちゃんとわかりました。ブログの第1回「押入れから跳びおり」に登場したかずちゃんです。小学生のころにはよく遊んでいました。
小学5年の終業式以降は会っていませんでした。かずちゃんも疎開したように聞いていました。
高校になって転校して帰って来たのでしょう。

わたしはかずちゃんに駆け寄ることができませんでした。どう見ても軟派です。

そのころは大きくは硬派と軟派に分かれていました。どっちつかずのわたしのような学生もいましたが。目立つのは軟派、硬派です。

確かにかずちゃんですが、かずちゃんでなければいいとわたしは心の中で思いました。
こちらから声をかけませんでした。かずちゃんも声をかけてきませんでした。そして、やはりと言いますか、軟派の仲間に入っていきました。

わたしは心の狭い人間で、清濁併せて呑むことができませんでした。これは今も同じで、死ぬまで変わりそうにありません。

ちょっと不良じみている、軟派みたい、それだけでかずちゃんに声をかけられませんでした。

かずちゃんに声をかけて、話すようになったのは何回目かの同期会ででした。高校時代には何事もなかったように話の中にはいりました。

おっかさんはあずき買いに

2014年06月22日 | 中、高時代
わたしたちが夏豆(ソラマメ)を買いに行った少し前と覚えていますが、おっかさんと伯母さん(疎開でお世話になった)は国鉄(今のJR)に乗ってあずきを買いに行きました。叔母さんの家は農家ですので、あずきを買う必要はないのですが、おっかさんに付き合ったのです。

買って帰りの汽車の中でのことです。
警察が車内を見て回りはじめました。

食糧管理法という法律が昭和17(1942)年2月に制定され、米、はだか麦、大麦、小麦などが対象の食糧になりました。昭和22(47)年12月には馬鈴薯、甘藷、雑穀などが加わりました。今回ネットで調べてこれを知りました。おっかさんが買い売りしていた米やカライモは食管法違反とわかりますが、あずきや夏豆が統制されているかどうかはわかりませんでした。

夏豆を買ったわたしたちはキョロキョロ辺りを見回したり電車の中ではしっかりリックを抱いたりしていました。売ってしまうまではヒヤヒヤでした。

おっかさんたちもこれはダメだと思ったそうです。警察に没収されると。でも、年の功でしょうか。すぐに、窓を開けてあずきを入れた袋を投げました。

警察の目は逃れました。

おっかさんと伯母さんは次の駅で降り、線路を歩いてあずきの袋を探しました。

食べ物が少なく統制されていた時代です。山口判事がヤミのものは食べないと栄養失調で亡くなられたのは昭和22(47)年のことです。

夏豆買いに

2014年06月17日 | 中、高時代
高1のときと記憶しています。

としちゃんが夏豆(ソラマメ)を買いに行こうと誘いました。としちゃんは商才のあり成人してから自営業者になったほどです。子どものころから目先が利いていました。どこで見つけてくるのか高3のときには薬売りもとしちゃんとしました。

夏豆はいまではビールのつまみなどになりますが、当時はまんじゅうのあんこになっていました。小豆はまだ高くて貴重品でした。まんじゅうのあんこはカライモや夏豆が多かったです。

二人ともドンゴロスのリックを背負い、電車に乗りました。ドンゴロスも説明する必要があるでしょう。目の粗い厚手の布がありました。それで作ったもので重い物も入れられました。

6つ目の駅で降りれば、2つ先の村です。そこで農家を1軒1軒尋ねて「夏豆はありませんか」と声を掛けました。
子ども二人のせいか、なかなか売ってもらえません。駅からだんだん離れていき、家もちらほらになっていきました。としちゃんは根気よく声を掛けます。

やっと買えました。

また電車で戻って、われわれの家とは反対の方へ降りました。としちゃんはまんじゅう屋を見つけていたのか、すぐに夏豆は売れました。

わたしはとしちゃんについて行くばかりでした。

授業料免除

2014年06月06日 | 中、高時代
高1の2学期から授業料の免除になりました。申請したわけでもありませんが、学校から免除にしてくれました。相変わらず、おっかさんの細々したヤミ屋で食べていたのでそれはうれしいことでした。

でも、わたしにはコンプレックスを感じることでもありました。
授業料は袋に入れて、教員室の横の事務室の箱の中に入れるようになっていました。決まった日にそこに入れるのですが、わたしはそこの近くまで行き、いかにも袋を入れたようにしていました。
授業料免除をクラスメートに知られたくないからです。
同じ組の友人の姉さんが会計の事務員だったので、そちらから知られないかとも心配しました。

貧乏で授業料免除は引け目を感じ、コンプレックスの原因の一つでした。

授業料免除のことは友人の姉さんからも漏れることなく(守秘義務か口が堅かったか)ほかの友人も知っていたかどうかわかりませんが、だれ一人それを言う者はありませんでした。

現在生活保護家庭の子どもたちは給食費や学校への納入などどうなっているのでしょうか。クラスで先生が集めるのなら○○君は納めなくてもいい、とクラスメートにわかれば生活保護家庭と知れてしまい、コンプレックスを感じるのではないかと、わたしの経験から心配してしまいます。

子どもはのびのびと育ってほしいです。

物理は楽しい

2014年06月02日 | 中、高時代
高1年では物理を選択しました。
物理の教室はピンポン台のような机でした。ピンポン台がなかったころはそれを二つ寄せてピンポンをしたこともあります。

そのころは今のように理系女子はほとんどいなかったのでその時間は男子校に戻ったようでした。

HとYとわたしは同じ机でした。
Hはこっそりタバコをのむナンパでした。ナンパの意味も今とは違います。柔らかい方を好むというくらいの意味です。もちろん女性好きです。女性と付き合います。
Yとは卒業後も付き合った友だちです。

授業は聞かずに、Hの女性の話を聞いていました。
市内のよその高校へ行き、そこの女性とセックスする話をよく聞かせてくれました。Yとわたしはそれを聞き漏らすまいと耳をそばだてていました。

授業を聞かなくて先生には注意されるし、当然成績も悪かったです。