子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

64. 中学受験を

2013年05月31日 | 疎開生活
1945(昭和20)年12月ごろだったと思います。
義兄さんが訪ねてきました。このときはかあちゃんもいました。かあちゃんは空襲がひどくなっても独りで町にいて働いていました。いつもは町の家にいるのですが、このときはかあちゃんも疎開先に来ていました。義兄さんから話があるからと、連絡があっていたのかもしれません。

義兄さんはこれからは学歴も大事だから、中学を受験するように勧めに来たのです。義兄さんは高等小学校を出て、夜間中学校で勉強しながら大会社に勤めた人です。

かあちゃんは手に職を持つのがいいと、技術系に進むのがよいと考えていました。自分が働いているところが会社の建設部というところで、大工さんや左官さんを見ていました。手に職を持っていれば食いはずれがない、との思いが強かったのです。

それでも義兄さんの経歴や説得でかあちゃんも受験を認めました。それも工業や商業ではなく普通中学を受験することを。

63. 野いちごと蛇いちご

2013年05月27日 | 疎開生活
散歩していると野いちごを見つけました。それで疎開生活の話を5月か6月ごろに戻します。


わかりにくので、アップしてみます。


「野いちごは食べられるけど蛇いちごは食べられません」
5年生のしんちゃんがわたしに蛇いちごを食べないよう、しっかり言い聞かせます。
女の子は麦わらでいちごかごを作り、そこに摘んだいちごを入れます。男の子は摘みながら食べます。

ちょうど今の季節の楽しみでした。

前回リクエスト食は何にするかむずかしいように書きましたが、この1年に食べた桑の実や野いちごなどはもう1度食べられたらぜひ食べたいです。

62. 最後の食事は

2013年05月23日 | 余談
5月22日のNHK「クローズアップ現代」で大阪のあるホスピスでは患者のリクエストに応えて食事を出す日を決めていると報じていました。バッテラを食べたいとか、すき焼きを食べたいとか、それぞれの患者がリクエストしていました。

人生の最後になにを食べたいか、人それぞれでしょうが、これを見ながらわたしはなにをリクエストするだろうかと考えました。
飢餓世代のわたしは腹いっぱい食べたいという欲望しかなかったように思います。一流料亭の食事や値段の高い食事は食べたことがありません。

4月18日のブログに書きました「じゃがいもとえんどう豆とたけのこ」がおいしかったと今でも思っています。戦後はかあちゃんが作った混ぜご飯ーにんじん、ごぼう、油揚げが入った白米のご飯ーを何杯もおかわりしたことを思い出しました。

貧弱な食生活でした。

これから人生最後の食事にリクエストしたくなる食べものに出会えればいいなと思いました。

61. お祭り 2

2013年05月20日 | 疎開生活
お祭りに伯母さんの家にはお客がありました。わたしが見たのはお客さんたちが座敷に座っていました。
床の間に近いところには、巡査さんがいました。村には役場の近くに駐在所があり、そこに巡査さんがいました。普段見たことがないので顔は知りません。サーベルを横に置いて制服で座っていました。巡査さんがサーベルを持たないようになったのはいつからか知りませんが、このときはまだ持っていました。

その横には国民学校の先生が座っていました。わたしたち6年生担当の男先生です。伯母さんちの孫たちの先生ではありません。これも驚きで、今も記憶しています。

ほかの客さんは覚えていません。

台所でいとこ(ここの主婦)は天ぷらを揚げようとしていました。鍋に一升瓶から油を注いでいました。その油の色、琥珀色というのでしょうか。まっさらの油の色、いままで何回も揚げた油しか見たことがない私には、その色が忘れられません。こんな油があるんだ!びっくりしたことを覚えています。

この二つがお祭りの記憶です。

60. お祭り 1

2013年05月15日 | 疎開生活
終戦後2か月か4か月して、地元のお宮で祭りがありました。

時ははっきりしないのはいつものことですが、祭りは10月にあったのではないかと思っていましたが、最近町史を読んでみたところ12月18日にクマノサンマツリが行われていた、とありました。分散授業があったお宮ですが、熊野宮というと町史にありました。

いずれにしても、終戦から4か月後にはお宮の祭りが行われたことになります。農家の人々のたくましさ、立ち直りの早さにびっくりします。

なにか芝居もありました(内容の記憶なしですが)。拝殿の下に、舞台を組み立てる柱や板が仕舞ってありました。それを青年や壮年の氏子たちが組み立てていきます。そこに舞台が出来ました。観客は舞台の前にござを敷いて舞台を見ました。

わたしの記憶に残っていることがあります。集落の人たちがお祝儀を包んできます。それを紙に書いて舞台の横に張ったロープに吊るします。ロープは舞台と近くの木にわたしてあり、滑車で動くようになっていました。滑車は絶え間なく動き、お祝儀の金額と名前はどんどん増えていきました。

戦争中に祭りがあったかどうかはわかりませんが、終戦の年にはちゃんと祭りはありました。

このときのお祭りで記憶に残っていることがもう一つありますが、それは次回に書きます。