子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

カイコさんもいた

2014年10月21日 | 小学校入学前
伯父さんと伯母さんところではカイコさんも飼っていました。二人は仲がよく働き者でした。二人はカイコのことをカイコさんと言っていました。

カイコは牛小屋の上で飼っていました。桑の葉を敷いてあってその上にカイコはいました。食べている様、動いている様にびっくりしたものです。

それが繭になるのはわたしにはよく理解できませんでした。

もちろんそれから糸が取れるのもわかりませんでした。

わたしたちが疎開をした昭和20年ごろにはカイコよりもカライモ(甘藷)が喜ばれるようになっていたのでしょう。食糧難でしたからね。桑畑が少なくなり、多くはイモ畑になっていました。

わたしが桑の実を食べた桑畑もありましたが、もう養蚕はしていなかったようです。
伯母さんたちの集落では、戦後もカイコさんを飼う農家はなかったようです。

タバコ乾燥小屋

2014年10月18日 | 小学校入学前
時間の流れ順に書いて行けばいいのですが、思い出す順に書いていますので小学校入学前にさかのぼります。

ヒラクチを捕まえた伯母さんのうちではタバコも栽培していました。
今ごろかもう少し季節が進んだころに伯母さんのうちに行ったことがあります。

タバコを乾燥していました。そのころは栽培の検査もたいへんでタバコの葉1枚まできちんと届けていたようです。ほかに横流しなどできない仕組みがあったようです。

小学校にも行っていない子どもにはよくわかりませんが、検査する人の目が光っているような話をしていました。

タバコの乾燥は夜を徹して行われていました。母屋や牛小屋とは別に乾燥小屋が建てられていました。今はほとんど見られませんが、戦後しばらくは農家に残っていました。わたしにはこれはタバコ乾燥小屋の跡だとすぐにわかりました。規格の建物だったのでしょうか、どこでも同じでした。

乾燥小屋では火が真っ赤に熾っていました。堅木と言われる火持ちのよいものが多かったようです。
タバコはどこに吊るされていたか、記憶にありません。

火の番に伯父さんが座り、そのあぐらの中にわたしが座っていました。おとっつあんもそばにいますが、わたしは伯父さんのあぐらの中です。おとっつあんのあぐらの中ではないのです。そんな記憶しかありません。

火の熱で頬が熱く、灰の中で焼いたカライモ(甘藷)を食べた記憶は残っています。

7. 東京見物

2012年04月04日 | 小学校入学前
小さい子の後ろから両頬を持って体を持ち上げ、「東京が見える、
東京が見える」という遊びがありました。

もうすぐ1年生というときにその東京見物に行ったらしい、ですが
例によって記憶にはないです。

とうちゃんから「関門連絡船で奥に詰めてくださいと船員に言われて
奥に進んだらすぐに下関に着いた」とあとから何回も聞きました。

東京で写した写真が1枚残っています。
それと写真の泉岳寺の参拝記念が、70年以上経っても残っています。


6. 「昭和」にも伊達直人がいた?

2012年03月19日 | 小学校入学前
2010年暮れ以降、タイガーマスクの伊達直人と名乗る人がランドセル
を施設の子どもに贈り、一時は社会現象のようになりました。

「昭和」にも「伊達直人」はいたのでしょうか。まさか、ですね。

これはいとこの多恵ちゃんの話です。多恵ちゃんの母親はとうちゃんの
妹です。だが、離婚して、多恵ちゃんは養父母に育てられていました。

多恵ちゃんが小学校に上がるときのことです。
「おばさんがランドセルを持ってこらしたと」おばさんというのはうちの
かあちゃんです。
「だれからの贈り物ですか、てうちは聞いたつよ」
「おばさんはなんも言いなはらん」
「………」
「うちは母親からじゃなかかと思うた」

親との縁の薄い多恵ちゃんには母親からの贈り物と思うのが一番でしょう。
大人になってからその話を聞いたわたしはそうよ、絶対そうよ、と肯定しました。

5. のどに魚の骨の常習者

2012年03月08日 | 小学校入学前
恥ずかしながら、子どものころから体が弱かったです。
風邪は引くし腹はこわすし、もやしっ子でした。

体が弱い人でもあまり経験がないだろうということを
書きます。

小学校に入学する前も入学してからも、魚の骨を
よくのどに引っかけました。
すると、かあちゃんがおんぶして耳鼻咽喉科に連れて行くのです。

今回、この耳鼻咽喉科の西藤医院を探してみました。
今はこの医院の名前を聞きません。たぶんこの辺にあったと思い
探しました。
家から2キロくらい離れているところです。

おりよく通りかかった年配の女性に教えてもらいました。
西藤医院という耳鼻咽喉科があった場所もわかりました。
いまは診療所ではありませんが、「西藤」とドアに字が残って
いました。


ここまで何回来たか、もちろん覚えていません。
後年、途中にまんじゅう屋があって、そこでまんじゅうを買って
食べさせると不思議に魚の骨が取れたとかあちゃんが笑っていました。

まんじゅうでなくてものどの骨は取れるのですよね。ごはんでも口に入れて
飲み込むと取れると後で知りました。