子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

48. 三池典太の鎌

2013年03月31日 | 余談
前回の「初めての麦刈りで」は、♪あなたが噛んだ小指が痛い のようないろけのある話でなく、いつもの恥ずかしい話になってしまいました。

話の中に出ました「三池典太の鎌」の話をします。
三池典太は、みいけてんたまたはみいけでんたと呼ばれる、平安時代末期の筑後の国(福岡県南部)の刀工です。今の大牟田市の三池に住んでいたと言われています。

お百姓さんが典太に鎌を作ってほしいと頼みます。典太は快く引き受け鎌を作りました。お百姓さんはこの鎌を持って農作業に行きました。農作業で疲れたのでしょう。畑でウトウト寝てしまいました。そこに大きな蛇が出てきて、お百姓さんに襲いかかろうとしました。

その時、くだんの鎌がひとりでに蛇に向かっていき、蛇に切りかかりました。
間一髪、お百姓さんは難を逃れました。

話はこれだけでは終わりません。

一部始終を見ていたお侍がいました。この侍が「鎌をぜひ譲ってほしい」と頼みました。
お百姓さんは断わります。侍はぜひにと頼みます。
お百姓さんは出来っこないだろうと、「ここに山のように米俵を積み、それと引き換えなら」と言いました。

お侍は承諾して、山のように米俵を積みあげました。

ここを「米の山」と言い、今も地名が残っています。

47. 初めての麦刈りで

2013年03月26日 | 疎開生活
分散授業が始まって、まもなくのことでした。

麦刈りの奉仕作業がありました。農作業は初めてのことでした。鎌を持って集合するように、前日言われました。それで、とうちゃんはわが家に1本しかない麦刈り用の鎌を念入りに磨いでくれました。

とうちゃんは切れ具合を見ながら磨いでいきます。切れ味は抜群になりました。三池典太の鎌のようになりました。

当日、縄で刃先を巻いて、作業の畑へ行きました。高等科の兄さんたちも来ていました。

「作業はじめ」の号令でいっせいに刈りはじめました。

疎開の、町の子のわたしは麦刈りは初めてです。

左手で麦をつかみ、右手の鎌でいっきに麦の束を切ろうと力いっぱい手前に引きました。

左手の小指の爪に鎌が当たったようです。

小指を見ました。

小指が二つに割れて、白い肉が見えます。小指の表面も切れています。血はほとんど出ていません。

麦は切れずに小指を切ってしまいました。

わたしは真っ青になって、鎌だけ持ってわが家に駆け戻りました。

とうちゃんにメンソレタムを傷口に入れて、ぐるぐる包帯を巻いてもらいました。

医者に行って傷口を縫われるのが恐ろしくて、医者には行きませんでした。

傷口はその後も痛み、今でも残っています。

46.映画の只見

2013年03月18日 | 余談

3月17日、柳川市で「無声映画を活弁付きで上映」という催しがありました。無声映画を知らない人も多いでしょう。今の映画は初めのころは登場人物はセリフをしゃべらないで、字幕が出たり弁士がセリフを言ったりしたものです。

写真はこの催しの簡単なパンフレットです。活弁士は麻生八咫(やた)とその子麻生子八咫の二人、上映します映画は『チャップリンの冒険』、『国定忠治』、『チャップリンの霊泉』、『瞼の母』の4本でした。

活動弁士の語りで見る活動写真は2度目と記憶しています。弁士の熱演を書きたい思いもありますが、子どものころの映画の只見を思い出したので書きます。

「映画見に行くけん金くれんね」とは言えませんでした。娯楽費は家計の中にはありませんでした。でも、チャンバラ映画は見たかったですね。

では、どうする。遊び仲間で映画館の前で看板見たり、映画の写真を見たりしたものです。
そのうち、運よく大人の横に子どものように付いて入る仲間もいました。わたしはそれは出来ませんでした。

映画館の近くにはぶらぶらしている青年たちも多かったです。その兄ちゃんの中には、便所から小さいわたしたちを押し入れてくれる人がいました。便所は裏側の人通りの少ない場所にあり、大体窓枠が壊されていました。そこから中に押し込んでくれるのです。こうして只見したこともありました。

1度目の活動写真は只見か、どうかは記憶にありません。もちろん映画のタイトルも。

45. 分散授業

2013年03月15日 | 疎開生活
本校の授業などは覚えていませんが、やがて分散授業が始まりました。
分散授業というのも、わたしの造語で正式にはなんといったか知りません。例によって、その授業の始まりと終わりもはっきりしません。

始まりは多分6月ごろ、終わりは多分9月ごろだったのでは?

わたしの疎開先は、上、中、下の集落があったと書きました。その集落の子どもだけで勉強が始まりました。ほかの地区でも同じようにわかれて授業があったと思います。級長にも副級長にも後では会いましたから。

中の集落に氏神様、下の集落にお寺がありました。お寺の本堂とお宮の板張りが教室です。
先生は6年男子の担任のT先生(本校での担任でもありました)、中の集落に女の先生がいられました。S先生です。分散授業が始まって、しばらくして女学生みたいな、にきびのあるS先生が加わりました。

男子が氏神様を使うときには、女子はお寺とわかれて、授業はありました。この逆に変わることもありました。

どんな授業があったかは、覚えていません。これも例によってです。(-_-;)

覚えていることをこれからも続けます。

44. トリのたまご見つけ~た

2013年03月12日 | 疎開生活
学校の帰り道のことです。隣の集落を通っていたときに土手から鳥が飛び立ちました。人も牛車もよく通る道です。そんなところから鳥が飛び出したのでなんだろうとゆっくり飛び出した場所に近づきました。

草をかき分けてみると、白い小さなたまごが3個ありました。


これはもちろんその時のものではありません^^

はじめて鳥のたまごを見ました。わくわくしました。たまごが孵って、ヒナが大きくなるまで見守ろう、明日からひとりでこっそり見続けよう、だれにも言うまい、と喜び勇んで帰りました。

父ちゃんにも言いませんでした。

翌日の帰り、もちろんひとりで、こっそり巣があった場所を覗きこみました。

がぁ~ん!

たまごはなくなっていました。

なんでだろ!、なんでだろ!