子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

ズルチンとサッカリン

2013年10月21日 | 中、高時代
戦後のアルコールのことを書いたので、甘味料のことも書いておきます。

日本酒や焼酎が手に入らなかったように砂糖も高嶺の花でした。
その代替品がズルチンやサッカリンでした。ズルチンもサッカリンも工場で作られていたので弁当箱などに詰められて工場の外へ持ち出されたようです。
どちらも砂糖不足のときには重宝されました。そしてどちらも砂糖よりずっと甘かったです。サッカリンはちょっと苦みがありましたが。

夏のアイスキャンデイのことを思い出します。自転車の荷台に箱を載せ、その中にキャンデイを入れたおじさんが鐘を鳴らしながら「キャンデイ、キャンデイ」と売りに来ました。わたしは買えなくて、見送るだけでした。

1度だけ、遊び友だちとキャンデイづくりを見に行きました。ずいぶん歩いて行きました。窓から見るとキャンデイの型がぐるぐる回り、その中に液体が注がれます。割り箸のような木の棒が入れられ、だんだん固まっていきました。「キャンデイはこうしてできるんだ」
わたしたちは汗を流して歩いて見に来て、ただ見てるだけ。また汗を流しながら歩いて帰りました。

ズルチンは動物実験で発がん性がはっきりしたので、1968年(昭和43年)使用禁止、サッカリンも近年アメリカで発がん性の疑いが持たれ、日本でも食品衛生法で最大使用量が定められています。(ネットからコピペ)

砂糖は貴重品でした。何年も後で砂糖を紙に包み、遊び仲間のところへ行き、ちびりちびり(ほんとに少しずつ)見せびらかして舐めたものです。遊び仲間も同じようにしていました。

火をつけて飲んでいたアルコールは?

2013年10月18日 | 中、高時代
まだ子どもでしたのでよくわかりませんが、終戦後は清酒も焼酎もほとんど見られなかったのでしょうね。

わたしが小さいころにとしおっつあんが組んだ足の中で小便をしかぶったと笑いながら暴露されたことがあります。としおっつあんはとうちゃんといとこです。としおっつあんはとうちゃんを「おっつあん」と呼んでいました。わたしは「としおっつあん」と言っていました。

そのとしおっつあんのことです。酒が好きでした。顔は酒焼けしていました。
清酒や焼酎が手に入らないころ、としおっつあんは液体をコップに入れて、マッチを擦ってコップに近づけました。ポーツと火が付きます。その火が消えてから飲んでいました。

工業用のメチルアルコールと聞いたように覚えています。

今回、確認のためネットで検索してみました。
「有毒で、少量の飲料でも失明や致死のおそれがる」と書かれていました。メチルアルコールで失明したとか死亡したとか、聞いた記憶があります。
としおっつあんは失明も死亡もしませんでした。

酒類の主成分のエチルアルコールを飲んでいたのでしょうか。エチルアルコールに火をつけたらどうなるのでしょうか。としおっつあんが死んでしまったいまでは確認の術がありません。

たんかばいに道草

2013年10月13日 | 中、高時代
前回の「乳母車で試験受けに」に書きましたが、家と学校のほぼ中間に闇市がありました。
この闇市の東の端に空き地がありました。

ここにたんかばい(啖呵売)の大道商人がよく来ていました。大きい魚かご(びく)にマムシを入れ、刀も持っていました。
「子どもは前に来て、座って」と座らせてから、たんかばいを始めます。『寅さん』の映画で寅さんが神社などで商売をするときに見る、あのたんかばいです。

わたしが学校帰りに見た大道商人のたんかばいは、マムシに腕を噛ませて軟膏をつけるとすぐよくなると軟膏を売るものでした。
「いつマムシに噛ませるのか」。今か今かと待っていました。人が少ないとなかなかそこまでは行きません。人が集まってきてもマムシはなかなか出しません。

頃合いを見て、マムシをびくから出してマムシの歯を見せます。歯に噛まれたら毒がすぐに全身に回りそうです。

なんか上手に言って、マムシをしまい、刀で腕に切り傷をつけます。血がにじんできます。そこに軟膏を塗ります。不思議です。血が止まります。それから「さあ、買った、買った」とびん入りの軟膏を売ります。

このたんかばいのおじさん(でした)が来ているとマムシに噛ませるところを見たくて、いつも道草を食いました。
ただ、マムシに噛ませるところを見た記憶がないのですよ。それでも、刀で腕には傷をつけていました。何本も刀傷のあとがありました。

乳母車で試験受けに

2013年10月07日 | 中、高時代
中学1年生の12月、試験前に風邪を引いてしまいました。腹痛になる、風邪を引くはしょっちゅうですが、試験前の風邪は最悪です。受験しないと、ひとり職員室で再試験を受けることになるかもしれません。

医師から注射をしてもらい、薬も飲みました。それでもよくなりません。

試験を受けて最低の点数でも、再試験よりもよかろうと熱が下がらないのに試験を受けることにしました。(当時は試験の日は試験だけで授業はありませんでした。)

当時のわが家のマイカー・乳母車に座布団を敷いてわたしが横たわり(体が小さいので足を曲げれば乗れました)上から毛布をかぶせてかあちゃんが押してくれました。

わが家から学校まで4キロ近くありました。学校近くに着くと辺りに誰もいないのを確かめて乳母車から降ります。かあちゃんはそこで待ってくれました。
わたしはなんとか試験は受けられました。

帰りには楽しみがありました。家と学校のほぼ中間に闇市がありました。そこにイモ飴が売ってありました。いまどきの人はイモ飴はご存知ないでしょうね。カライモ(甘藷)から作ります。黒くて甘さも十分ではありませんでした。それでもそのころはおいしく感じました。

試験は3日間、同じようにかあちゃんに送ってもらい、試験を受け、誰にも見られず、帰りにはイモ飴を買ってもらいました。

無事追試験も受けなくてすみました。

かあちゃんには生前この時の礼は一言も言っていません。不幸もんです。