子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

角打ち

2018年04月19日 | 昭和
広辞苑 第7版(今年1月第1刷り発行)に「角打ち」が採用されたと評判になりました。
北九州が「角打ち」の発祥の地と紹介されましたが、九州中部のわが町でも「角打ち」は見られました。

福岡県外の人がもしこれを読んでいられたら、「角打ち」をご存知ないかもしれません。

広辞苑では②酒を枡ますで飲むこと。また、酒屋で買った酒をその店内で飲むこと。と書かれています。

私の子どものころにはよく見ました。個人経営の酒屋も多くありました。最近は少なくなりましたね。

店の外からも仕事帰りに飲んでいる人たちをよく見かけたものです。

「角打ち」のことはとしおじさんに聞いたのではないかと思います。父のいとこですが、父のことをおじさん、おじさんと言っていました。私もとしおじさんと言っていました。呑み助と言われるほどで、終戦後にはメチルアルコールも飲んだと話していました。

このとしおじさんから聞いた「角打ち」です。
酒のさかなは煮炊きしたものを提供してはいけない。椅子も置けない。酒をカンをつけるのもダメ。これらは飲み屋でやることで、酒屋ではダメ。

外から見るとカウンターはありました。立って、そこに寄りかかって飲んでいましたね。

飲んで、ヘベレケになり、外に出れば千鳥足のお父さんたちをよく見ました。道路に大の字に寝てしまう人もよく見かけました。

それが「昭和」のようでした。

個人の酒屋も減りました。「角打ち」も少なくなったようです。それが「平成」でしょうかね。

一膳と一竿

2018年02月15日 | 昭和
ある大手のスーパーでのことです。

弁当を二人前買いました。レジで「箸は二膳にしますか」と聞かれました。
え、え、え。一瞬驚きました。
以前「箸は二本にしますか」と聞かれたことがあります。
膳と言った人は初めてです。
うれしくなりました。
わたしも「二膳お願いします」と答えました。

後日、妻の使いでしにせの菓子店に行きました。
「ようかん一本だけですが、ようかんは一竿ですかね」と注文しました。
「最近は一竿とか使う人は少なくなりました」
「そうですか。スーパーのレジで箸を一膳、二膳という人がいてビックリしました。最近は一本、二本という人が多いです。
ようかんは一竿、二竿だったかなぁと思って、使ってみました」

平成も30年ですもの、昭和も遠くなりましたネ。

「昭和」ハンター

2017年09月24日 | 昭和
何時だったかすぐには思い出せませんが、何年か前、熊本県の道の駅でバイクで日本一周している青年に会いました。

「どういう所を見て回っているのですか」と聞いてみました。
彼は「昭和が残っているところ」と答えました。

そして「あなたの街にも昭和が分かるものがありませんか」と聞かれました。
「わが街は何回も空襲を受けたのでほとんど昭和のものは残っていませんね」と答えました。
「そうですか」とちょっと残念そうでした。

彼のことは忘れていました。
前回のブログの銭湯も昭和のものです。
もしかしたら、こんな物を見たいのかもしれないと今日になって気づきました。

戦災を受けなかったところには、「昭和」が残っているかもしれません。

これから「昭和」ハンターになりましょう。

「昭和」を見つける楽しみが出来ました。

そして、その報告が出来ればうれしいです。

懐かしい「昭和」のあと

2017年08月28日 | 昭和
ここへんに銭湯があったな、以前通ったことがある狭い道を歩いていました。

子どものころは銭湯にもなかなか行けませんでした。
暑さの日々には、朝タライに水を張り、夕方ぬるくなった水で行水していました。
毎日風呂に入る習慣もなかったです。2,3日置きに風呂に入れば結構と言う時代でした。

そんな子ども時代でした。
銭湯に来たのはこのへんでした。銭湯はもうないのだろうと思いながら上を見ました。
そこに昔の銭湯の煙突が見えました。



こんな煙突が太平洋戦争前まではあちこちに立っていました。

わたしもこの銭湯に来ていたのです。

懐かしい!表に回ってみました。

なんと、なんと入口に「男湯」の木札が残っていました。



字はよく読めませんが、「昭和」が残っているようでした。

*2012年7月24日投稿の「銭湯のこと」も読んでくださればうれしいです。

竹の皮

2017年05月08日 | 昭和
前回「薄い木の皮」のことを書きました。
書いていて思い出しました。「木の皮」ではなく、「竹の皮」に包むこともありました。

「竹の皮」に包んだのはおにぎりだったようです。
さてどこ?だったかな。遠足?戦争中でなかったな。運動会?秋の運動会は疎開先でありました。おにぎりを食べたような記憶がありません。
冬休み、正月の何日かに担任の先生が山に連れて行かれました。この時かな?

いや、中学になってからかな?

記憶ははっきりしませんが、竹の皮は庶民の「経木」でした。安価だったと思います。
タケノコとして食べる孟宗竹より、遅く出る真竹の皮が使われたようです。天日に干して使っていました。

第二次世界大戦の戦中、戦後は砂糖もありませんでした。
梅干しを漬けたシソを竹の皮に挟んで、チュウチュウ吸ったこともありました。
シソの汁を吸う、今思うだけでしょっぱいです。それを吸ったのは、♪なんでだろう なんでだろう です。