子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

中村久子さんをご存知ですか

2017年05月28日 | 大人になって
中村久子さん(1897年~1968年)をご存知でしたか。
わたしは知りませんでした。

先日、わたしは旦那寺の永代経法要に行きました。その時の法話に中村久子さんの話が出ました。

久子さんは2歳の時に病気で両手両足を切断されました。
久子さんのお母さんが偉かった、両手両足がなくても生きていけるように厳しいしつけの中で文字を書き、縫い物や編み物が出来るように指導しました。

想像してください。両手がないのですよ。久子さんが針に糸が通せないと言うと、自分で考えなさいとお母さんは言ったそうです。
鬼婆あに見えたでしょうね。お母さんとしてはこの子が生きていくためにこれは必要なことだと涙をこらえて、厳しいしつけをされたと思いますよ。

わたしが筑豊のお寺で久子さんに会ったときに、どうやって椅子に座られるかと思いました。椅子のところに来て、さっと飛び乗られました。
久子さんは結婚して女の子どもさんを産んでいます。その子どもさんが言っているそうです。「お母さんを障害者と思ったことはないと」。

 手はなくも
 足はなくとも
 み仏のそでに くるまる
 身は安きかな

  久子 六十三才

こんな法話をされました。わたしは久子さんも偉いが、お母さんも偉い。よく心を鬼にして縫い物や編み物を習得させられ、文字も書けるよう指導されたと。

家に帰って、ネットで検索してみました。多くの記述があります。興味のある方はくわしくはネットで見てください。

竹の皮

2017年05月08日 | 昭和
前回「薄い木の皮」のことを書きました。
書いていて思い出しました。「木の皮」ではなく、「竹の皮」に包むこともありました。

「竹の皮」に包んだのはおにぎりだったようです。
さてどこ?だったかな。遠足?戦争中でなかったな。運動会?秋の運動会は疎開先でありました。おにぎりを食べたような記憶がありません。
冬休み、正月の何日かに担任の先生が山に連れて行かれました。この時かな?

いや、中学になってからかな?

記憶ははっきりしませんが、竹の皮は庶民の「経木」でした。安価だったと思います。
タケノコとして食べる孟宗竹より、遅く出る真竹の皮が使われたようです。天日に干して使っていました。

第二次世界大戦の戦中、戦後は砂糖もありませんでした。
梅干しを漬けたシソを竹の皮に挟んで、チュウチュウ吸ったこともありました。
シソの汁を吸う、今思うだけでしょっぱいです。それを吸ったのは、♪なんでだろう なんでだろう です。

薄い板のこと

2017年05月01日 | 昭和
前回タケノコが余りに薄いので、こどものころに肉を包んでいた薄い木を思い出しました。

薄板?
辞書を引いても薄板では出てきませんでしたと書きました。

ツレは「薄板と言った」と言います。
そう聞くと、そう言ったような気もします。

それでも辞書にないと気になります。
ネットで調べていたら「経木」という言葉が出てきました。

それで『広辞苑』を調べると、「経木(きょうぎ)」という言葉がありました。

「杉、檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。これに経文を写したからこの名がある。菓子などを包んだり、菓子折りに敷いたりする」とあります。

これが本当の名前ですね。薄板はわたしたちの地方の言葉かもしれません。

経木も今では死語かもしれません。死語でなくても昭和の言葉でしょうね。
ビニールや発泡スチロールが利用されて、経木で菓子や肉などを包むこともないようです。