子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

食いもんが、よか

2013年08月19日 | 中、高時代
戦中、戦後食べ物に飢えていました。配給だけでは生きていけませんでした。配給生活を守り、栄養失調で判事さんが亡くなられたのは1947(昭和22)年10月のことでした。

かあちゃんは「タバコより食いもんが、よか」と闇市に食べ物を持って行くようにしました。

白米(銀シャリと言いましたね)でおにぎりを作り、ゴマ塩をつけただけのおにぎりです、今コンビニにあるような具がいろいろあるようなおにぎりではありません。
これは飛ぶようにと表現できる売れ行きでした。

餅を作って売りに行ったこともあります。
餅のあんこの材料は小豆です。これを求めてかあちゃんは姉さん(疎開のときにお世話になった伯母さん)と国鉄の汽車に乗って買い出しに行きました。小豆を買って帰りの汽車で警官が来たそうです。二人は慌てて窓から小豆の入った袋を投げました。次の駅で下車して線路を歩いて小豆を見つけ出したと話していました。
伯母さんは妹のため小豆買いに付き合ったのだと言います。仲のよい二人でした。

この餅もよく売れました。
闇市ではわたしはいつも見張り役でした。

どぶろくのときでもそうでしたが、どぶろくがあるところやその売れ筋がどことかあちゃんはどうして知っていたか、不思議です。白米やもち米、砂糖があるところもどうして知ったのか、今では聞くことはできません。

このあと、からいも(甘藷)、白米と運ぶものが変わっていきますが、仕入れ先はわかりませんでした。


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