今日は午前中アレクサンダーテクニークの個人レッスンを受講し、午後家に帰ったら日本フルート協会会報2012年10月25日号No.234が届いていた。
タイミング悪いナ。かわかみ先生にお渡しするのがかなり先になってしまう・・
とりあえず、以下内容全文です。
「文章がとても分りやすくて良いから、これでなにか商売すること、考えたら?」とか人に言われたりしてますが・・・だってさああ、私、タダの生徒役ですからねえ・・・この文をどこかに売って商売とかって、考えた事もないっス・・
《 フルート演奏における身体コンディション調整とアレクサンダーテクニーク 4 》
大久保はるか (No.5357)
【7月25日 個人レッスン】
この日、レッスン会場に向う足取りが非常に重かった。というのも、お恥ずかしい話だがここ1ヶ月間、楽器ケースすら開けていない日々が続いていたからです。私がアレクサンダー・テクニークを学ぶ意義は、自分のパフォーマンス向上のために他ならない訳であって、その肝心の楽器練習を1ヶ月もの間怠っていたとあっては、アレクサンダー・テクニークのレッスンに通う云々以前の問題なのでは?と猛省。
言い訳がましい手前の話なのですが、今年9月末に新CDをリリースする予定で、レコーディングそのものは6月に無事終了した所です。ですがその後ミックスダウンやマスタリングに立ち会ったり、CDを流通に乗せるための各種手続き、発売記念ライヴツアーの各会場とのやりとりなどに思いのほか手こずってしまっていました。
私「・・・すみません。楽器、全然吹いてないんです・・・」
先生「それではまず、テーブルワークから始めましょうか」
テーブルの上に
ヨガマットをしいて、(註1)私はその上に仰向けに横たわる。横たわった直後、軽いめまいと腕、足腰に嫌な重み、つっぱり感を感じたので、もしかしたら自分は相当疲れがたまっているかも、と、そこで初めて気付いた。
思えばこの一ヶ月というもの、とても忙しかった。「これをやらなきゃ」「あれをやらなきゃ」「これの期限はいついつで、あれの期限は、いつだっけ?」のオンパレード。毎日毎日そのような必要事項に気を取られすぎてしまう中で、基本的な自分の体調管理がままならなくなってきているのかもしれない、と感じた。
「今日は疲れたけど、もうちょっとだけ、がんばれるかな」と考え、つい必要以上にやり過ぎてしまうことも多い私なので、結果心身の疲れに対する感性を鈍感にさせていってしまっているのかも、とも思った。
先生は、私の頭、肩甲骨、腕、脚、など、各パーツごとに軽く持ち上げたり、動かしてゆく。
太ももを軽く内側と外側にそれぞれねじるような動きをされた時、(註2)どこか大きなインナーマッスルが丸ごとストレッチされたような感覚があった。直接ハンズ・オンされたのは太ももの辺りだが、同時にお腹、わき腹辺り一体の筋肉群までもが反応し、感覚としては、胴体をひっくりかえされたのか?とさえ思ってしまう程だった。
その後
「寝返りをうつ」というワークを行った。(註3)特に疲れているときは自分のからだが重く感じる。仰向けから横向き、うつぶせなど、単に寝返りをうつことすら面倒に思ったり、力が出ないように感じるときがある。
「脚から寝返りをうつ」、「腕から寝返りをうつ」、の2種行ったのだが、普段通り何も考えないで行うのとアレクサンダー・テクニークの原理に従って行うのとでは、こんなにも身体の軽さ、しなやかさが変るものなのか、と、びっくりする。
「脚から、ということは、脚のみをがんばって動かそう」「腕から、ということであれば、腕のみをがんばって動かそう」と、つい考えてしまい、余計な所に力が入りすぎて固まり、わざわざ自分のからだを自分で重くしていってしまうのが私たち人間の習性。
そう陥りそうになった時は、一度自分に「ちょっと待った!」をかけ、「脚や腕のことも考えるけど、自分のからだ全体の大きさ、広さや奥行きのことも思い出して」と発想を変えることによって、不必要な緊張から解放させることが出来るであろう、ということを学んでゆく。
このアレクサンダー・テクニークの原理は、再三再度、手を替え品を替え、多角的アプローチによって長期に渡り学習されてゆく。学びに終わりはないのだ。
【8月15日 個人レッスン】
「今まで3年間、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けてきましたが、メンタル面では今日が一番調子が悪い日のような気がします。」
先生「えっ、そうなんですか?」
私「・・・・・はい。相変わらずCDリリース関係の雑務で身辺がざわついています。特に昨日は殆ど一睡も出来ず、睡眠不足です。」
先生「それでは、こういうのをやってみましょう。まずイスにおすわり下さい。」
先生「今までで楽しかった事や良い思い出の場面を思い出してみてください。演奏で上手くいった時、などでも良いです。そしてそのようなことを思い出してみる際に、自分のからだに対する何か気づきや変化がありますか?」
・・・・・・・やってみる・・・・・が、しかし・・・・思い起こすという作業が上手く出来ない。色々な雑多なこと、次々に現れては消えゆく身の回りの雑念に惑わされている感じで、「過去の良い思い出を思い出す」という行為に上手くピントを合わせてゆけない。情けないが、とりあえず思いついたことを吐き出してみる。
「演奏で上手くいっている時を想像するにあたって思うのは、上手くいっているな、ということは、まさにその演奏中にはほとんど感じたことがありません、無になっている、といいますか。で、次の日になって改めてあの時は良い集中が出来た、良い演奏ができた、など回想する、というような感じなんですが・・・」
先生「それでは、その回想をしている日のことを思い出してみてください。・・・・・・なにかからだについての変化がありますか?」
私「・・・えっ・・・・からだですか・・・・ちょっと待ってください・・・・・ええっと・・・」
私「・・・・・・す、すみません・・・・先生にそう言われて一生懸命検索(?笑)をかけようとしている自分がいます」
先生「そうですか。一生懸命検索をかけようとしているのですね。なにか他には気づくことは?」
私「・・・・・んん?こうして一々思い出すのに時間がかかるのは、どういうことなのかと、思っています。あと、これはイメージですが、今まで自分の外側に向ってのみベクトルをむけて発進していたのを、今一生懸命に自分側にも向けようと、ベクトルの方向転換しようとしている自分がいます・・・」
先生「そうですか。方向転換をしようとしているのですね。今、からだについて気づくことありますか?」
私「ええっ・・・・なんだろう?・・・・・・・・あっ、ベクトルを自分側にもむけてみたら、少し呼吸が楽になったかもしれません」
先生「そうですか。ベクトルを自分側にもむけてみたら、少し呼吸が楽になったのですね。何か他には気がつくことはありますか?」
と、まあ、このように、執拗なまでに質問ぜめにさせられる私。自分の心と体の実況中継を行うワーク、といったところか。禅問答に近いような気もする。
不思議なのはこのようなやりとりを続けてゆくうちに、自分の気持ちに徐々にゆとりが生まれてきたこと。自分が発した言葉を先生がリピートするだけなのだが、そのリピートされた言葉は、何か新しく生まれ変わった言葉としてく新たに自分の中に吸収されてゆく。(註4)
その後ピッコロを吹いた時に気づきがあり、それを言葉にしてみた。
「ピッコロはフルートに比べ、より少ない息で音が出るのに、私の場合、気がつくと、フルートと同じようなタイミングにて同じ量の息つぎをしようとしてしまい、結果過呼吸気味になる時があります。それをやめようと思いました。」
言いながら、自分の言葉に第二の自分が諭されているような不思議な感覚を持った。
【8月20日 グループレッスン】
相変わらずCDリリース関係の雑務に振り回される多忙な日々を送っていた。その忙しさは、午前中に行ったばかりの事を、夕方には、2、3日前の出来事のように感じてしまう程。不眠や食欲不振など、いいかげんに日常生活にも差し障りが出始めている事は気になってはいたが、上手く回避方法を見つけられないでいた。
この日は一応の所、楽器と、前日から練習をし始めた新曲の譜面を持参してはみたものの、今日これから始まるレッスンで、一体自分はフルート演奏の何を見ていただきたいのか、本日のテーマ、課題のようなものが一切見つけることが出来ない自分を猛烈に恥じていた。気になることといえば、仮にもグループレッスンで、何名かのリスナーの前で練習不足の自分をさらけ出し、恥をかくのは辛い、ならばいっそのこと今日はフルート演奏をみてもらうのはやめようか、など、極めて消極的なアイデアばかり。
レッスン冒頭の自己紹介コーナーでは、とりあえず上記の心情を素直にお話してみた。
この日は私を含め受講者が5名。私とは初対面の方がお二人いらっしゃった。他の受講者の方々の自己紹介をお聞きする中で、人にはそれぞれご自分の歴史、アレクサンダーテクニークを受講することになった経緯が、多種多様にあるのだなあ、ということを感じた。同時に、私はパフォーマーとしての自分に強いこだわりを持っているのだ、という事を認識した。
アクティビティの時間(生徒さん一人一人が、歌やダンス、楽器演奏など、その日先生に見ていただきたい活動を行い、他の受講者は見学する)、先生が、
「大久保さん、どうされます?フルート吹きますか?」
のお言葉に、私が一瞬顔を曇らせたことを察したのか、
「その前に、こういうワークをやってみましょうか」
と、輪になってすわっている皆の真ん中に呼び出された。
もう一人の受講者の方とペアで行うワーク。一人がしゃがみこみ、片方の手を延ばす。もう一人はその手をひっぱるように相手を動かす。聞き分けがなく路上に座り込んだ大型ペットを無理矢理縄でひっぱって連れてゆこうとする時の動きに近い。
まずは、何も考えずに相手を引っ張ることに集中して、力任せにがんばろうとするが、相手は微動だにしない。
次に、先生は私の背後からハンズ・オンしながら、早口でたたみかけるようにお言葉。
「ご自分の頭の高さ、背中の広さ、胴体の奥行き、太ももの長さ、股関節から膝、足首、つま先、かかと・・・・」
早すぎるあまり、なにか魔法の呪文のようにさえ聞こえるお言葉。ただ、これらのお言葉を聞いた瞬間、自分自身の身体に対する注意力が増すことが確認できた。
・・・・・そして、軽く一歩踏み出す時のように動いてみたら、相手は簡単に引きずられた。
これは、見学されていた他の受講者の方々の目にも相当不思議現象のように映ったらしく、私への質問。
「一回目ダメだった時、二回目成功した時では何を違えたのですか?」
私「・・・・?・・・なんだろう?上手く言えませんが、一回目は、『相手を引っ張る』、という、自分が今から行わないといけない行為にしか、注意が向いていませんでした。意識したのは、相手の身体の大きさと、引っ張らなければいけない方向の2点のみで、言ってみれば『自分がない』状態のまま、行動したような感じです。二回目については、先生のお言葉とハンズ・オンによって、まず一度自分に立ち戻る、気持ちを落ち着かせる時間を与えてから、やるべきことをやった結果、ということでしょうか?」
そして、私は、何故だか無性にフルートを吹きたい気持ちになっていた。
レッスン冒頭の自己紹介では、「練習不足をみんなの前でさらけだすのは恥ずかしい」など、言ったが、よく考えてみたら、恥ずかしい云々を考えるその前に、まず考えなければならないことがあったことに気がついた。
自分がやりたいか、やりたくないか、トライしてみたいか、したくないか、という自分の気持ちを、まず一番最初に今の自分に問うてみる事。
・・・忘れていた。当誌面上に書くのもばかばかしい位当たり前な事を。
そして楽器を出し、ほぼ初見に近い状態で持ってきた新曲を演奏してみる。
その後、楽器を置いて、壁を使って行う
ウォール・ワーク(註5)を行い、再び演奏。
演奏中にもどんどんコンディションが上がっていくことが確認出来た。
【8月29日 個人レッスン】
相変わらずCDリリースに関する雑務ばかりに振り回され、1ヶ月後に控えているリリース記念ライヴツアーの準備さえままならぬ状況が続いていた。当記事原稿については、兼ねてからこの日のレッスン分を締め日とする予定でいた。結果的に今回は、ろくに楽器に触れていない日々についてばかりを綴った日記になってしまった。実に情けない限りである。
先生「(その後)いかがですか?」
私「あの・・・今日も寝不足です。CDリリースに関する問題が山積み過ぎてしまって、毎日大変です。今はもう、何が問題なのか、さえもが分らなくなってしまっています」
先生「強いストレスを感じた時に、それを上手く逃がす事が出来ると良いと思うのですが」
私「私の場合、特に対人関係において、例えば『この人とは難しいな』と感じた場合、お腹がギュッと縮むように痛くなるクセがあります。まあ、一応大人なんで、顔には出さないようにしていますが。それで、実際的問題解決の糸口が見えるまでの間、ずっとその腹痛が続くのです。」
私「そのお腹に感じるストレスのしこり、毒素のようなものについてですが、自分の感覚においては、身体の外側に逃がしてしまえるもの、出し切ってしまえるもの、とは、到底思えないのです。ずっとグルグルと体内中を駆け回っているイメージ、といいますか。」
先生「じゃあ、『逃がす』ではなく『混ぜる』とか。」
私「笑!!」
混ぜ混ぜして毒素を薄くする!?というイメージなら、沸きやすい。
思わず笑ってしまったが、こういったささいな自身の身体感覚に対するイメージに、我々は意外と日常的に左右されているのかもしれない、と思った。事によっては自分で自分の首を絞めてしめてしまう結果になる場合も多いのかもしれない。
先生「フルートは吹いていますか?」
私「あ、おととい位から、やっと練習をし始めました。いい加減に来月から始まるツアー曲の準備をしないといけない時期ですので。それで、ここ最近あまりにモヤモヤした気持ちで過ごしていたこともあり、気分がスカッとするような曲を選曲しよう、と思いまして、ノリの良いサンバの曲を選びました。すると、さらっている内に気分がどんどん浮上してきまして。私は音楽によって随分救われているな、と思いました。」
先生は大きく頷かれました。
【 かわかみひろひこ氏による註釈 】
(註1)ヨガマットをしいて
大久保はるかさんとの個人レッスンは、すべて横浜の貸しスタジオで行っているため。
根拠地の東京スタジオにて、テーブル・レッスンを行うときには、専用のテーブルを使う。
(
註2)太ももを軽く内側と外側にそれぞれねじるような動きをされた時
おもにウォルター・カリントンWalter Carrington(1915-2005)系のアレクサンダー・テクニークの教師たちが行う、テーブル・レッスンのワークの1つ。
このような動きを教師と行う際に、少し待って(インヒビション)、「首が自由に、頭が前に上に、背中が長く広く、両膝が股関節から離れて前にそしてお互いに離れて行ける」という4つのディレクションを自分自身に与えることによって、太ももを軽くねじる動きをしたときに、全身と脚のつながりと「からだ」の全体性とを回復することが期待できる。
ウォルター・カリントンは、教師トレーニング中に勃発した第二次大戦に、パイロットとして出征。空中戦で撃墜され、両股関節に人工関節を入れる。医師からは、「もはや歩けない」と言われたが、自らリハビリして歩くことができるようになる。戦後再開されたトレーニングに復帰。アレクサンダー・テクニークの創始者F.M.アレクサンダーの晩年まで、彼のアシスタントを務めた。温厚な人柄と、人生に対する建設的な態度で知られる。
(註3)「寝返りをうつ」というワークを行った
両腕はバンザイする。
全身のつながりを回復する目的で行った。
この手順は、化石人類アウストラロピテクスの発見者として知られる、医師、人類学者、解剖学者であったレイモンド・ダート(Raymond Dart(1893-1988)博士の考案した、アレクサンダー・テクニークの自習の手順ダート・プロシージャーのなかの1つである。
ダート・プロシージャーは、主にウォルター・カリントン系のアレクサンダー教師たちによって受け入れられた。
レイモンド・ダート博士は、アレクサンダー・テクニークの創始者F.M.アレクサンダー(1869-1955)の生徒で、支持者であった。人類学者としては、アウストラロピテクスが化石人類であるという学説が認められず、学会から総攻撃を喰らい、孤立。長く不遇であった。後にF.M.アレクサンダーは、ダート博士の求めに応じて、直弟子アイリーン・タスカーを南アフリカに派遣する。
(註4)
生徒さんの言葉を、共感を抱きながら傾聴しつつ、反芻する、今日コーチング等でも広く用いられるこの方法は、アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズCarl Ransom Rogers(1902-1987)によって発見され、今日のカウンセリングやコーチングに大きな影響を与えたとされる。
けれども、そのやり方が広く流布される前に、同時代のアレクサンダー教師ウォルター・カリントンによって、行われていた(2002年にエリザベス・ウォーカー【Elisabeth Walker 1914-。今なおオックスフォードで教え続けているF.M.アレクサンダーの直弟子】に確認したところ、少なくともある人たちに対しては、F.M.アレクサンダーもそのようにワークしたとのことであった)。
アレクサンダー・テクニークのレッスンでは、あたかも肉体と精神が分離するようなフワフワした不安定な状態から(この状態では実力は発揮できないし、練習しても効果は出ない)、「今ここ」に戻ってくるために行う。それによって、生徒さんは、本来の智恵や可能性を回復しうる。
なお今回このワークを行った際には、現在トレーニング受講中の心理技法ソマティック・エクスペリエンスも参照した。
(註5)ウォール・ワーク
連載2回目(2012年6月25日号 No.232)の写真と文章を参照してください。
脚註の敬称は、省略させていただきました。