嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



地面がしゃりしゃりいう
泥がビチャビチャ跳ねる
道路は灰色
見た事無い景色のような気がする
しかし現に今ここはいつも通る裏路地で
ふと気付けば僕は家の前を通り過ぎていて
自分がどこにいるのかよくわからなくなった

少しの水分がこれだけ景色を変えるのだから
少しの気持ちが様々に景色を変えるかもしれない

そんな事を考えて
僕は元来た道を戻る

裏路地に入ってドアの前に立ち
左手で鍵を取り出して不器用に差し込んだ
くるりとまわして冷たい取っ手をガチャリと

で、ここは僕の家なのか?

違うかもしれないけれど
そうかもしれなかった

そもそも僕には家が必要なのだろうか
いや、人には家が必要なのだろうか

帰る場所がある事はありがたい事だ
暖かい部屋にいられる事はありがたい事だ
だけど家ってなんなんだろう

冷たい現実はしんしんと降り積もっていた
僕にとっての家は現実からの逃げ場所としてしか機能していなかった

年越し蕎麦を作って食べた
蕎麦の温度は、何かを語りそうで語らなかった


コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )




現に今しがた提出された他人からの
一言のさもしげな言葉を
私は客観と見立てて受け入れるならば
すでに私はそこに立ち、
それはすぐさま客観ではなくなる
ならばさっきそこに居た私からの目線が客観なのか
いや、それとて客観ではあるまい

では私は私の言葉の外側に立たねばなるまい
私の中に潜む言葉から、そのように意味を感じ取るか?
いや、それは主観だ。

想像によって外に近寄るか?
私の後頭部を眺めて笑うか?

私を棄て、あなたの目線を手に入れるか?
そのような事は、ありそうでないのだろう

しかし現に今、
ある特別な見方をすれば
既に私はさっきまでの私で無い事も事実なのだ

ではそもそも客観とは何なのか
誰が客観という言葉を思い付き、作成する事に成功したのか
あるいはそのような概念を獲得するに至る背景は何なのか
それを知る事が
ある特別な小さい偏見としての
客観視ではあるのだろう

他者への憧れ
天才出現願望
これらも客観視と繋がってはいまいか?
ある一つの世界に関する絶望的な終わりの予感
それ自体が、主観の終わりではないのか?

終わる事を拒んでいる限り、前には進めない
終わらせる為に進むのだ

そしてまた僕は
言葉と言葉を引き合わせる
崩壊していく時代の価値観の中で
僕は他者の夢を見る

いつか僕は夢の中で僕に会い
その時僕は僕だったと気付くだろう

希望に満ちた終局の構図に立ち会い
誰かに会って何かを言う為に
今はただ、歩こうか。

左手の小指が少し痛んだ
涙は出なかった


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




誰も泣いてないのに
誰かの声が聞こえる
色んな方向から

「僕を見て」「おいてかないで」「もっと側にいて」

そういう声が聞こえて
いつも姿は見えないのに
見えない誰かのために
この手で何かをしなくちゃいけないのだろうか

誰も死んでないのに
誰かの悲鳴が聞こえる
出来る事なんて何もない
だけど耳を塞ぐ事が出来ない

最初から 全部幻聴なんだ

何か出来るのか?
話を聞くだけ…?
それで、いったいそれがなんだっていうんだ

聞くのはいい
多分、それは面白い
そしてきっと話を聞くたびに
もっと色んな痛みが聞こえるようになって
幻聴は加速して
時間はずっと熔けていく

話を聞こうか
君の話を聞こうか
痛みを知る為に

痛みも一緒に盗む為に


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )