嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

ねじ曲がったトンネルに対する暴力の無力さ

2007年11月25日 23時31分29秒 | 駄文(詩とは呼べない)
テオリアに対する感慨深さというのはラジキレギンに似ていて
ギミックから輪郭が奪われた事に対する怒りとか
9.11以降の平和に対する混沌の立場としての嘆きとか
いわゆる文化やメディアやイデオロギーを強者とする
情報洗脳側から見た立場とは違っていて
それはいつも激しい自然の怒りに満ちていて
ひたすらにもう、ただとにかくもうひたすらに、

「奪われ続ける」
ということです。

音が発したニオイについて、
催涙弾を実際に使用しなくとも、
僕らは少しばかりの感情移入があれば泣く事ができます。

けれど、物語の導入部分も入り口も見つからずに、
そこから実感だけが奪われていくとき、
音が発したニオイについて、僕らはどうやって泣くんでしょうか。

また、どうやってそれを現実や出来事と関連づけたり、
自分の立ち位置を明確に遺せるんでしょうか。

無理だと思います。

もっとも原始的な方法としては
赤ん坊に表情をすり込む、というやり方があります。
だけど情報という言葉はあまりにも多様な使われ方がしすぎていて、
その意味が範囲の中を、意味がカバーしている範囲で力点や重点が、
もう自由勝手気ままに走りすぎていて、
何がどうだから情報なんだとか
どこどこに根拠があるから情報なんだとか、
そんな事はもうとっくに言えなくなって何年も経ちます。

けれど実際、いまだに物語に没入して、
正しさを追い求める動きは無くなりません。
テキストも言葉も、相変わらずでたらめに生まれ続けています。

なによりも、僕自身が対象に対して正しさを求めてやみません。
この人はきっとこの人なりに正しい事いってるんだろうなぁ~、と
簡単に想像してしまって、
そこでぷっつり想像力は途絶えるのです。

ですから、
ぎりぎりの本能の中から生まれる欲望であるとか、
ねじ曲がったミームだけが暴れ続ける掲示板だとか、
伝染性の強いネベリックハットウィルスが
僕らの潜在的に生まれている知的好奇心をどんどん吸い取っていったとしても、
たぶん僕はその想像力の途絶えた地点や、
その時の情景を思い描かずしては、
何も思い出せないでしょう。

簡単に言えば、決意は決意した瞬間こそは真実であろうと
絶え間ない光を胸に向かって発しますが、
それがちょっとでも情報に触れてしまえば、
途端に色あせて説明される嘘に変わってしまうということ。

で、あれば、大人が言うところの秘密というやつも、
なんだかよくわからん汚らしさというやつも、
察するところが無いわけではありません。

もし、なけなしのやわらかさを、
固さの中に隠し持っている、という話であるならば。

だけど僕はテオリアからとうに真実は奪われてしまって、
事実や現実があまりにも僕の周りを
空気と呼ばれる暴力と結託して、
僕らを生かそうとしているような気がしてならないのです。

その”僕ら ”というのがじつにクセモンで、
自己自立も自我の成長もないくせに何がぼくらなのやーら!
といった気分になってきます。

だから僕は時々は首切り動画の類を見たり
ハスコラ画像なんかを見てなんとなく現実を知ったような顔をする若者の事を、
特別非難したいとは思わないんです。
闘う力が奪われるほどに過保護に育った奴隷のような冠婚葬祭文化に囲まれていたとしても、
やっぱり彼らは彼らの中で王様なのだろうし、
なんの文化も入らないように努力している引き籠もりにおいてさえも、
やっぱりそれはその場所に立つ事を拒否する「NO」の努力の一種だと思えるから、
僕は密室練炭と煙草は同位置くらいであっても別に構わんと思ったりします。

まぁ実際のところ、僕は煙草も嫌いなんですが。

複雑化する世界の中で自分を見失わないで居られる一つの方法が、
情報の遮断だと言うのなら、
ある種の情報革命の波動に対して、
全くの無知であろうとする未文化や脆弱さの文化というものも、
やっぱり言葉にできないその奥にある混沌の中で、
確実に暴力は育っていると思うんです。

僕は願ってやみません。
人と人がわかりあえない未来を。
けれども、尽きてしまう、終わっていく未来を。
間違いも正しさもない世界で、呑み込む事だけで過ぎていく僕らの日常を、

誰が責められるのでしょうか?

君たちはまるでここに存在していない。その証拠をここに差し出せ。

2007年11月16日 03時46分53秒 | 駄文(詩とは呼べない)
僕の悪意はとても伝わりやすいけれど
僕の善意はとても伝わりにくいものだ
なによりも、僕が僕の善意など、虫けら同然にしか思っていなくて、
そんなもの、ありはしないと説明し続けるのだから。

僕が俺の拘束の中にある限り、僕から決して漏れていかない秘密のように
僕が考えていることも、思っていることも、感じていることも、
すべてインチキな魔法に閉じ込められている。

そんなことに気を払わなくても、
世にある全てのものを当たり前として受け入れる事ができるなら、
最初から僕らの器は、容器は、
溢れ出す熱情も、妨げるための悪意も、善人を殺すために作られた僕の悪意も、
すべてが要素でしかない元の位置に戻っていく。

僕らは。

引力にも、斥力にも、打ち克たなくてはならない。
そうしなければ、そこに新しいちゃんねるは、生まれていかないのだから。

そうであるのなら、どんなに汚い言葉でののしり続けても、
きっと君の呼吸は僕に伝わるんだと思う。

それが信念の類であっても、宗教の類であっても、
僕は著作者ともとれる、神の言葉を殺すために、
あらゆる嘘を吐き続けねばならない。

あるいは、ならない、のか。

それでも。

いつかずっと遠い昔に、僕が間違えて僕を創り出したのなら、
いつかずっとずっと遠い夜空の向こう側で、
君を殺そうとする君よりも前に、
僕が君を殺してやりたい。

それは愛だとか真心だとかあやしげな言葉で
ものさしで測って欲しくない。

ただずっと向こう側にある、宇宙よりも遠いところにある、
創世の音を聞くために、僕らの幻聴は、今を知ろうとするのだから。

雷も紙芝居も要らない。
神様の嘘はもう聞きたくない。
誰とも会話なんかしたくない。
ただ、どうしてもひとりきりで対話したい。

君と話すために、僕と話すために、
「僕」も「君」も はやくなくなってしまえばいいのに。
まだ僕は、ここで僕を殺す事ができていない。
僕が僕を殺す事に成功すれば、
きっと君は、現実とか日常とか呼ばれるオカルトな魔術が、
あらわれ渡る、雲のせせらぎのようにさえ、感じられるかもしれないのに。
清々しい悪意の中で、周り中の人間を殺して歩けるようになるやも、
しれないというのに。

僕の悪意は、まだ僕を殺せていない。
ずっと死体から音を聞き続けているのに、
まだこんな現実を通して、向こう側の夢を見ようとする。

どうして僕はこんなに弱いんだろう。
どうして僕は立った一人の人間でさえ、
地獄に突き落とす事ができない悪魔なのか。

激しい衝動や反発心が、
周り中でうずまく善意の押しつけが、
いつかきっと僕を突き刺して、
僕の耳につんざくような終わりの音をごりごりと押し付けまごうて
悪意の透明人間に生まれ変わるはずだ。

もっと僕におまえらの汚い善意の排泄物をくれ。
もっと僕を汚してくれ。
必ず僕は、僕の世界を差し出して見せよう。

おまえら全員が発狂するくらいの、
美しい神の殺し方を、囁いてやる。

ここに今、お前らの魂の暗号が、
伝わらない言葉でしか、書きとめられないような日常はもうたくさんだろう。
さぁ差し出せ。お前らの魂を。
お前らの不在を。
お前らの死体から染み出したエトスを。

ルールを破ってもいい。
誓いを踏みつぶしてもいい。
あらゆる情動を、自我崩壊のために使っていい。
だからもっと激しい血液で。
刻み続ける何十億の呼吸を止めろ。

それがここに、お前らの不在を書き記す。
それを反転させる事で、
僕の文章は完成する。

残り時間は少ない。
さぁ差し出せ、お前の毒液を。

冷たい手で、麒麟に触る事はできなかった。

2007年11月16日 00時16分12秒 | 駄文(詩とは呼べない)
君は手が触れた感じがする、と言ったけど
僕には何も触れた感じがしなかった。
ずっと幽霊が石ころのまわりを彷徨っているような会話だった。
「会いたいですか?」
という君の問いに対して
僕は少しだけ考えて、「別に会いたいとは思わない」と答えたような気がする。
ほんとの事を言えば、ほとんどよく憶えていないのだけれど。

自分を欺いた時に使う言葉は、より深いあなぐらにもぐっていって
形がわからなくなる。
僕は僕が作った言葉を、ほとんどよく憶えていない。

結局いつも、僕が一番の嘘吐きなんだろう。

本当は何者かに会いたいとは思ったけれど、
それが用意されたものであるなら、決して口にしたくはないと思った。
呑み込む事も出来ず、吐き出す事もできないものなら、
最初から口にしたくはないと思ったから。
それは僕を通過する間、僕の中で痛みを発する固さと形でしか無いと思ったから。

本当に強い言葉は、熱を持って全てを溶かすように伝わるから。
僕は君の疑問に答える事もできなかった。

君は何かを知って欲しいと強く主張したけれど、
僕はそれを拒否した。
それが本当に君自身であるのかさえ、僕にはわからなかったし、
むしろ僕は君が回りの石ころを指さして、
この幽霊に会いたいですか?
と訪ねているようにさえ思ったから。

僕には自分の言葉が無いと指摘されたけど、
君にもやっぱり自分の言葉は無いんだな、と思った。
その悲しさを確かめる行為がおそろしくて、
僕は君の言葉を見ようともしなかったんだろうか。

輪郭が作り出す形が、その輪っかを何者かが通過するとき、
再び意味を発するのなら、僕たちは言葉を交わし合っているかもしれない。
けれど幽霊が一人の世界をずっとずっと彷徨っている中で、
風と会話しているような嘘でしかないのなら、
もう僕は君に会いたくはないのだろう。
君がもし、本当にそこにいるのなら、
僕はそれに会いたいと思った。
だけど用意された世界はいつも嘘で出来ていて、
それがいつも大人の汚れた嘘で出来ていて、
僕には知の輪くぐりをするような勇気が無かったから。
僕は全てを断った。

それがもし、僕の意志だと言うのなら、
ここにある僕の死体はなんなのだろう。

さまざまな憶測を呼び込んで、
それぞれに違う意味を発する、僕の言葉はなんなのだろう。
全てが1になるまえに、すべてが0であるのなら、
僕の言葉はここにない。
そして意味も、読者もここにはいない。

出会う事は恐ろしい。
知らない事は恐ろしい。
確かに君の言うとおりだ。

だけど僕は、嘘吐きな僕が一番恐ろしい。
だからただ、死に神の姿を鏡でひと目みたいと思った。
それがどんな姿をしていても、それを知る事さえできれば、
全ての世界が裏返るような気がしたから。

そしてそれを知る力は、まだ今の僕と君には無い。
もう少し、水が毒をうるおすなら、
僕は君のために砂を作っておこう。
その用意された砂が落ちる間だけ、
僕らは再び幽霊になれるかもしれない。

ふんだんに用意された水で、
冷たさだけを伝える言葉が、
僕の周りで、なみなみと溢れている。

ここしばらくの、喉の渇きをうるおすために。

自己組織化された内部表現は我が物であるか?

2007年11月09日 03時50分28秒 | 駄文(詩とは呼べない)
という問いに答える。


けっきょくのところ、いつものフレームの話。
ほとんど何も変わっちゃ居ない。
曖昧な輪郭で、ぐるぐるねじれた糸で、自分をがんじがらめにするような話、
と思ってもらってもあまり差し支えはないのだけど、
決定的に違うのは、いつもよりも僕が外部に対して恐怖しているということ。
あるいは未来の予見に対して。

何かを知るという事は、
何か空中に浮かんでいるミラーボールを掴み取るようなもので、
それを掴んだときに知ったと仮定すると、
その時広がっているのは世界そのものではなくて、
もちろんセカイの方だという仮説が仮説として成り立つんだけど、

逆説的に、自分を絶対値の座標に縛り付けてからこの理論を展開すると、
世界は外からやってきて、ある絶対空間に波が伝わったとき、
(エネルギー的な問題として)
その絶対座標の中に系として取り込まれた場合、
それは自己組織化されるということによって、
つまり糸が繋がるということによって、
振動そのものによって『「自分」として』整理される。

これはさっき僕が知った言葉
(あるいは単語【注意:ミラーボール】)
が内部表現という単語そのものとして、
僕の中に{ある情報として}取り込まれると同時に
僕の中でまるでデジタル化のような危険思想として
形をゆがめてしまっている。
さっきから、緊張して肩が痛い。

(((久しぶりに、情報に汚されたと感じたから。)))

肩をすくめながらタイピングを続ける。
「僕は僕としてありたいと必死に抵抗するから」

内部表現というのはもちろん僕によって作られた造語ではなくて、
ググればいっぱい出てくるような造語です。
おそらくはこの汚れの主(ヌシ)としての立脚が
僕の中のイメージ化されたヌシが、その源泉を黒幕のように覆っていると思う。
(黒膜と書いてもいい)


古い問題を掘り起こすと、
ピアノを奏でるようにタイピングするのが、自分にとって一番自然であると言う事もできる。
(仮説が仮説であるためには。)

事実というのはとても怖いもので、
ある種の宗教的儀式によれば、それは事実ではなくて「真実」→【真実】として
観念的に伝えられる。
これが宗教的偏見の恐ろしいところで、
僕は僕の組み立てた仮説が仮説の位置をはみださない程度には、
自分の大きさを留めている。(断定使いまくってもへっちゃら♪)

そういえば、スカラー波とやらを唱える集団がいましたよね。
スカラー派と呼べばダジャレというか親父ギャグ的にはスルーできるかもわからんのだけど、
あんまそういうこと書きたくない。
真面目に問題として組み立てるために。

苦痛の中で白装束集団が神らしき代表者をproxyとして立てたのは、
単に彼らが自己自身をサーバーとして立てる能力を持たなかったと一蹴できるような話でもなく、
現存在としての使命を外へ求めたら裏切られたから
ある種の固形であり続けた、という奇妙さだと思います。

要するに、世界の流れと共に、情報は更新されていかなかった。
変化の世界にあって、永遠とは異質な存在(?)であり、異物です。
システムを巨大な生物に見立てれば、
それは解釈され、咀嚼されることによってシステムの一部となるか、
あるいは ペッっッ! 、 と吐き出されます。
これは通常、法律などによって行われたりするんですが、
時にはルールの方が後から作られます。

まぁ先後問題はどうでもいいんだけど。

問題なのはその情報更新のところで、
子供たちの持っている夢ってやつと一緒で、
ある意味では過去の記憶ってのは潜在的な欲望のように機能すると思うんですが
いわゆる大人から「夢を持て」と与えられた場合の夢はここでは省きます。

そもそも、絶対座標として前提を作り上げているから。

内部表現がいかなるものなのか、
それほど詳しくは調べてはいません。
ですがなんとなくわかってしまいました。

これは脳科学的な危険思想にまつわるものだと思います。
それ自身、僕が知った事によって、記憶の領域に分類されてしまったのですが。

記憶は本来、もって生まれた形の中に形として刻まれています。
簡単に言えばDNA。小さい身体の中にある、もっと小さい者。
私がワタシであるところのもの、
あるいは、単に受け継がれてきた、少しずつしか情報更新しなかった鎖。

デザイナーズチャイルドと一緒で、自分自身を自己自身の制御によって
「形を変えたい」というのは決意かもしれませんが、
同時に暴力ですよね?

つまり、自分というフレームが存立していない場所での、
位置に対する形のほどこしというのは。

力を入れずに粘土をこねる人がいるでしょうか。
僕は居ないと思います。
超能力で念ずるだけで粘土をこねる人が居たとしても、
それはその人にとっての超能力が、「力を入れる」に相当してると思うからで。

これはフレームに対する暴力ですよね?

で、あれば。(仮説の多重化)

僕は自己組織化された内部表現というのは他者であると思います。
いや、他者であると思いたいんでしょう。
確かに、内部と向き合おうが、外部と向き合おうが、
フィードバックが起こる仕組みの中に身を投げ出していれば、
その循環系の中では、全てが系として一体化です。

つまり、外から刺激を受けようが、
中から刺激を受けようが、
ぐるりぐるりとぐるんぐるん循環していたら、
それは変質の中に身を置いています。
それを外部からの情報更新に見立てているのならば、
それは外部が内部に向かって暴力的だということになります。

そういえば、漫画のオチを知らされた友人が
その友人の腹を殴ったというエピソードを聞いた事があります。

簡単に言えば、ぼくはどちらかに決めてしまいたいんだと思います。
その、内部表現に関する場所を。
それの由来が外であるか、中であるかを。
いつもであれば、それは中でも外でもなく、曖昧な通過であるはずなのに、
何かを知ってしまったという意味において、
僕は「汚れ」という単語を使いました。

この汚れは、僕が僕自身にぶつかったときに生じる血しぶきのようなものです。
たぶん、僕は僕の汚れを一つ知ったんでしょう。
ある仮説においての、原理的には神に相当するものがいたとして、
それがミラーボールを外から眺めたらどうなるでしょう。
神様はとてもちっぽけに映りますかね。

それとも、神様自身、鏡のまんまで、
無限に虚像が現れますかね?
ここに。
此処として。

僕はこの答えに関しては答えられないので
もう少し考えようと思います。
ミラーボール問題に関しては。

けれど、内部表現という単語が危険なシグナルを発していたことは、
次に出会うときまで、きっと憶えていると思います。
ある種の磁力が、引き合ったり反発したりするように、
僕の中で、単語が何かを発したから。

怖い。
肩が痛い。
でもたぶん、この世界の中を食って、何かを排泄する。
それでもたぶん、何も憶えておく事はできない。
だから時々安心する だから時々怖くなる

内部表現。

嫌な言葉だ

憶えておこう!

透明な水を飲んで熱が伝わる。

2007年11月02日 14時06分01秒 | 駄文(詩とは呼べない)
たぶん、人がどこかへ向かって踏み出す時、
それが新しいことだと感じるワクワクする歩みだし方で接するか、
あるいは全般的に自分がとてもやわらかくて、
日常的にいろんな見方を変えていける素直な見方、

安っぽく書いてしまえば
未来が希望で満たされてる時の方が、
踏み出すことが簡単なんだと思います。

たぶんこれ、わざわざ書き出さなくても、
常識的にというか、最初から身についてるような感覚なんだと思います。

でもさ、意識が胎児の時に芽生えた人と、
産声をあげて、肺呼吸に変わってから芽生えた人では、
やっぱりどこかに差があると思わない?

未来に全く希望があろうが無かろうが、
生まれることが祝福される胎児は、
外へ向かって泳ぐわけですよね。
そのとき、僕らにそなわってる能力ってなんですか?
つまり、感覚とか、予感とか、無垢であるとか、
別に表現なんでもいいんだけど、
生まれる前の胎児は、どうして自分が生まれる事を知ってるんです?

これ、間違いだと思うんですよ。
僕の文章が。

いきむ

という言葉がありますよね。
僕の記憶では家庭科の授業で習った言葉だったかな?
あれ、今の人間にとっては、宇宙の形が変わる事と似ていませんか?

青年期や思春期における自己自立の話に見立てると、
親は見守っていなくてはならない。
目を離してはならない。
けど、必要以上に助けてはならない。

神様が人間をいちいち助けますかね?
助けないんですよ。
時にはあっさり死ぬのが人間ですよね。
で、あれば、
最初に作られた観念の発想を
アイディアと呼ばれるインターフェイスを通して、
つまりイメージそのものを媒介として、
僕らは向こう側に手を伸ばすはずでしょ?

例えばこの世界の人たちが、歴史的な見方をして
奴隷であると言うのなら、
神は人間をシステムによって調教しなくてはならない。
あらゆる善意は、悪意からの調教を受けて育たなくてはならない。

これは、システムと神と人間が対等ではありませんよね。
対話なんか成り立たない。

じゃぁなんで信者は神に祈るのかってことですよ。
拒否される人間に向かっての握手とは違いますよね。
あんま違うとか、同じとか書いてもしょうがないんですが。
道筋のことなんで。

要するに、僕らが行うキャッチボール、
球は一つじゃないんですよね。
僕が死体であるとき、球はひとつなんです。
そこを、孤独を使ってどう読み取るかですよね。

でも、僕らの球がいわゆるあちら側
から発せられているのなら、

それは宇宙が羊水で満たされていて、
僕らはそこを宇由に泳ぐことができる。
魚であることを思い出すなんて関係ない。
蜘蛛が蜘蛛の巣を張って移動するのと同じように、
物質の世界では、いつもエネルギーで満たされていて、
いろんなダークマターが引き合って光の糸を引き合ってるわけです。

もし、このことを「はじまりからおわりにむけて」の尺度で切り取ってしまうなら
僕らは葬式をする必要なんて最初から無かったわけですよ。
もちろん逆でも一緒です。「未来から記憶に向けて」であったとしても。
これは膨張と爆縮のものさしで世界を測ることなんです。

裏と表が溶けあっているクラインの壺を想ってください
光と闇に分かれてるところと、わかれていないところがある。
想像しにくかったらメビウスリングでもいいです。
裏と表が繋がっているリボン。

これ、引っ張ってるのは。
つまり、胎児を祝福していきんでいるのは、胎児じゃないですか?
だから僕らにとって、孤独はそんなにひどいものじゃないと思うんです。

もし、僕らの意識が、認識せずに、なにもかもを知ろうとせずに、
それでも他者のままでいられるなら。
死ぬことだって、新しい世界の始まりでしょ?
君にとっての。

何かが終わることで、何かが始まるわけじゃない。
何かが終わるよりも前に、すでに何かが始まっていた。
それでも僕らの尺度は、何かを知ろうとしてしまった。
理解しようとしてしまった。

そういうことなんじゃないの?

すべてを通り抜けることのできる透明な眼があったのなら。
僕らのイメージは、いつもすべてを透き通って見渡して、
どこへでもゆけるから、何も知ることはできない。
それは儚くも激しくも無いけれど、きっと美しい。

僕はそういうものでありたいと思うけどな。
今が。