テオリアに対する感慨深さというのはラジキレギンに似ていて
ギミックから輪郭が奪われた事に対する怒りとか
9.11以降の平和に対する混沌の立場としての嘆きとか
いわゆる文化やメディアやイデオロギーを強者とする
情報洗脳側から見た立場とは違っていて
それはいつも激しい自然の怒りに満ちていて
ひたすらにもう、ただとにかくもうひたすらに、
「奪われ続ける」
ということです。
音が発したニオイについて、
催涙弾を実際に使用しなくとも、
僕らは少しばかりの感情移入があれば泣く事ができます。
けれど、物語の導入部分も入り口も見つからずに、
そこから実感だけが奪われていくとき、
音が発したニオイについて、僕らはどうやって泣くんでしょうか。
また、どうやってそれを現実や出来事と関連づけたり、
自分の立ち位置を明確に遺せるんでしょうか。
無理だと思います。
もっとも原始的な方法としては
赤ん坊に表情をすり込む、というやり方があります。
だけど情報という言葉はあまりにも多様な使われ方がしすぎていて、
その意味が範囲の中を、意味がカバーしている範囲で力点や重点が、
もう自由勝手気ままに走りすぎていて、
何がどうだから情報なんだとか
どこどこに根拠があるから情報なんだとか、
そんな事はもうとっくに言えなくなって何年も経ちます。
けれど実際、いまだに物語に没入して、
正しさを追い求める動きは無くなりません。
テキストも言葉も、相変わらずでたらめに生まれ続けています。
なによりも、僕自身が対象に対して正しさを求めてやみません。
この人はきっとこの人なりに正しい事いってるんだろうなぁ~、と
簡単に想像してしまって、
そこでぷっつり想像力は途絶えるのです。
ですから、
ぎりぎりの本能の中から生まれる欲望であるとか、
ねじ曲がったミームだけが暴れ続ける掲示板だとか、
伝染性の強いネベリックハットウィルスが
僕らの潜在的に生まれている知的好奇心をどんどん吸い取っていったとしても、
たぶん僕はその想像力の途絶えた地点や、
その時の情景を思い描かずしては、
何も思い出せないでしょう。
簡単に言えば、決意は決意した瞬間こそは真実であろうと
絶え間ない光を胸に向かって発しますが、
それがちょっとでも情報に触れてしまえば、
途端に色あせて説明される嘘に変わってしまうということ。
で、あれば、大人が言うところの秘密というやつも、
なんだかよくわからん汚らしさというやつも、
察するところが無いわけではありません。
もし、なけなしのやわらかさを、
固さの中に隠し持っている、という話であるならば。
だけど僕はテオリアからとうに真実は奪われてしまって、
事実や現実があまりにも僕の周りを
空気と呼ばれる暴力と結託して、
僕らを生かそうとしているような気がしてならないのです。
その”僕ら ”というのがじつにクセモンで、
自己自立も自我の成長もないくせに何がぼくらなのやーら!
といった気分になってきます。
だから僕は時々は首切り動画の類を見たり
ハスコラ画像なんかを見てなんとなく現実を知ったような顔をする若者の事を、
特別非難したいとは思わないんです。
闘う力が奪われるほどに過保護に育った奴隷のような冠婚葬祭文化に囲まれていたとしても、
やっぱり彼らは彼らの中で王様なのだろうし、
なんの文化も入らないように努力している引き籠もりにおいてさえも、
やっぱりそれはその場所に立つ事を拒否する「NO」の努力の一種だと思えるから、
僕は密室練炭と煙草は同位置くらいであっても別に構わんと思ったりします。
まぁ実際のところ、僕は煙草も嫌いなんですが。
複雑化する世界の中で自分を見失わないで居られる一つの方法が、
情報の遮断だと言うのなら、
ある種の情報革命の波動に対して、
全くの無知であろうとする未文化や脆弱さの文化というものも、
やっぱり言葉にできないその奥にある混沌の中で、
確実に暴力は育っていると思うんです。
僕は願ってやみません。
人と人がわかりあえない未来を。
けれども、尽きてしまう、終わっていく未来を。
間違いも正しさもない世界で、呑み込む事だけで過ぎていく僕らの日常を、
誰が責められるのでしょうか?
ギミックから輪郭が奪われた事に対する怒りとか
9.11以降の平和に対する混沌の立場としての嘆きとか
いわゆる文化やメディアやイデオロギーを強者とする
情報洗脳側から見た立場とは違っていて
それはいつも激しい自然の怒りに満ちていて
ひたすらにもう、ただとにかくもうひたすらに、
「奪われ続ける」
ということです。
音が発したニオイについて、
催涙弾を実際に使用しなくとも、
僕らは少しばかりの感情移入があれば泣く事ができます。
けれど、物語の導入部分も入り口も見つからずに、
そこから実感だけが奪われていくとき、
音が発したニオイについて、僕らはどうやって泣くんでしょうか。
また、どうやってそれを現実や出来事と関連づけたり、
自分の立ち位置を明確に遺せるんでしょうか。
無理だと思います。
もっとも原始的な方法としては
赤ん坊に表情をすり込む、というやり方があります。
だけど情報という言葉はあまりにも多様な使われ方がしすぎていて、
その意味が範囲の中を、意味がカバーしている範囲で力点や重点が、
もう自由勝手気ままに走りすぎていて、
何がどうだから情報なんだとか
どこどこに根拠があるから情報なんだとか、
そんな事はもうとっくに言えなくなって何年も経ちます。
けれど実際、いまだに物語に没入して、
正しさを追い求める動きは無くなりません。
テキストも言葉も、相変わらずでたらめに生まれ続けています。
なによりも、僕自身が対象に対して正しさを求めてやみません。
この人はきっとこの人なりに正しい事いってるんだろうなぁ~、と
簡単に想像してしまって、
そこでぷっつり想像力は途絶えるのです。
ですから、
ぎりぎりの本能の中から生まれる欲望であるとか、
ねじ曲がったミームだけが暴れ続ける掲示板だとか、
伝染性の強いネベリックハットウィルスが
僕らの潜在的に生まれている知的好奇心をどんどん吸い取っていったとしても、
たぶん僕はその想像力の途絶えた地点や、
その時の情景を思い描かずしては、
何も思い出せないでしょう。
簡単に言えば、決意は決意した瞬間こそは真実であろうと
絶え間ない光を胸に向かって発しますが、
それがちょっとでも情報に触れてしまえば、
途端に色あせて説明される嘘に変わってしまうということ。
で、あれば、大人が言うところの秘密というやつも、
なんだかよくわからん汚らしさというやつも、
察するところが無いわけではありません。
もし、なけなしのやわらかさを、
固さの中に隠し持っている、という話であるならば。
だけど僕はテオリアからとうに真実は奪われてしまって、
事実や現実があまりにも僕の周りを
空気と呼ばれる暴力と結託して、
僕らを生かそうとしているような気がしてならないのです。
その”僕ら ”というのがじつにクセモンで、
自己自立も自我の成長もないくせに何がぼくらなのやーら!
といった気分になってきます。
だから僕は時々は首切り動画の類を見たり
ハスコラ画像なんかを見てなんとなく現実を知ったような顔をする若者の事を、
特別非難したいとは思わないんです。
闘う力が奪われるほどに過保護に育った奴隷のような冠婚葬祭文化に囲まれていたとしても、
やっぱり彼らは彼らの中で王様なのだろうし、
なんの文化も入らないように努力している引き籠もりにおいてさえも、
やっぱりそれはその場所に立つ事を拒否する「NO」の努力の一種だと思えるから、
僕は密室練炭と煙草は同位置くらいであっても別に構わんと思ったりします。
まぁ実際のところ、僕は煙草も嫌いなんですが。
複雑化する世界の中で自分を見失わないで居られる一つの方法が、
情報の遮断だと言うのなら、
ある種の情報革命の波動に対して、
全くの無知であろうとする未文化や脆弱さの文化というものも、
やっぱり言葉にできないその奥にある混沌の中で、
確実に暴力は育っていると思うんです。
僕は願ってやみません。
人と人がわかりあえない未来を。
けれども、尽きてしまう、終わっていく未来を。
間違いも正しさもない世界で、呑み込む事だけで過ぎていく僕らの日常を、
誰が責められるのでしょうか?