「社会にとって役に立たない人間は死ね」と、その男は言った。
僕は少しぎょっとした。
一歩間違えば、その同じセリフを言う事になったのは僕だったかもしれないから。
僕はいつも薄暗い道を歩いていく才能に恵まれていて
あるいは僕は、暗い道を真っ直ぐに迷走する才能に恵まれすぎていて
一言発するだけでも、言葉のナイフはぐさりと僕の胸を抉るから
真っ白な心は良いことも、悪いことも、等しく削り取っていく暴力だから、
だから僕は、結局は自分もその男と同じなんだと思った。
ただ一つ、僕が恵まれていたのは
僕には妻が居たし、妻には僕が居る。
妻は僕を愛しているし、僕は妻を愛している
それは儚い夢のように曖昧であやふやで意味のわからないような
絶対的でも無いし、信仰でも無いし、神でも無いけれど。
だけどそれは、僕の存在にちょっぴり価値を付加してくれるものだから
妻の存在にも、価値を付加してくれるものだから。
多分、僕らはまるで唯一無二の愛に縋る様にして生きている
僕がいつも言う砂上の楼閣に似ていて、
とてもあやういものだけれど、ギリギリの境界線上を彷徨う上では、
きっと命綱となりうる、とても大切なものだと思う。
相互依存だとわかっている
わかっているけれど、愛が何かを理解しているわけではない。
妻は僕に愛を教えてくれるけれど
妻は自分を愛する事が出来ていない
僕はゆがんだ自己愛を持っていると叩かれるけれど
僕はただ、自分の事が好きなだけで、そんなに強い自己愛を持っている訳ではないと今は思っている。
きっと僕は、自分が社会の中で役に立たない人間だと
ずっと前から確信している。
そして少しでも役に立ちたいと、会社や組織の中でもがいている。
もがいているけれど、ずっと溺れ続けている
僕は働けば働くほど、毎月10万円ほど借金が膨らんでいく
ワーキングプアを繰り返していて
そのギリギリの生活の中で、何かを見つけようともがいている。
もしも僕が、少しでも多くのお金を稼ぐことが出来たのなら、
社会の中で役に立っていると、胸を張って言えただろうか?
もしも僕が、社会の中で価値ある存在となる息子を世に送り出す事が出来たうえで死んでいったのなら、
自分の存在にも、価値があると赦すことが出来ただろうか?
そんなことは、きっと死んでしまうギリギリまでわからない。
ただ、納得して死んでいきたいというエゴがどこか僕の心の奥のほうに潜んでいるんだと思う。
多分、僕の価値観や考え方がさらに大きくねじれて歪んでいって、
一周回って人類を愛する事が出来るほど、大きな器を手に入れたのなら、
僕は自分に価値を認めたり、
あるいは価値がない人間でも生きていていいんだよ、と存在を赦す事が出来るのだろう。
でも今は、僕はその男と殆ど変わらないような圧力の世界を生きている。
ただ、生きることと価値ある人生を生きることの間には、いったいどれくらいの隔たりがあるんだろうか。
僕は多分、これからも自分に問い続けなければならない。
僕は少しぎょっとした。
一歩間違えば、その同じセリフを言う事になったのは僕だったかもしれないから。
僕はいつも薄暗い道を歩いていく才能に恵まれていて
あるいは僕は、暗い道を真っ直ぐに迷走する才能に恵まれすぎていて
一言発するだけでも、言葉のナイフはぐさりと僕の胸を抉るから
真っ白な心は良いことも、悪いことも、等しく削り取っていく暴力だから、
だから僕は、結局は自分もその男と同じなんだと思った。
ただ一つ、僕が恵まれていたのは
僕には妻が居たし、妻には僕が居る。
妻は僕を愛しているし、僕は妻を愛している
それは儚い夢のように曖昧であやふやで意味のわからないような
絶対的でも無いし、信仰でも無いし、神でも無いけれど。
だけどそれは、僕の存在にちょっぴり価値を付加してくれるものだから
妻の存在にも、価値を付加してくれるものだから。
多分、僕らはまるで唯一無二の愛に縋る様にして生きている
僕がいつも言う砂上の楼閣に似ていて、
とてもあやういものだけれど、ギリギリの境界線上を彷徨う上では、
きっと命綱となりうる、とても大切なものだと思う。
相互依存だとわかっている
わかっているけれど、愛が何かを理解しているわけではない。
妻は僕に愛を教えてくれるけれど
妻は自分を愛する事が出来ていない
僕はゆがんだ自己愛を持っていると叩かれるけれど
僕はただ、自分の事が好きなだけで、そんなに強い自己愛を持っている訳ではないと今は思っている。
きっと僕は、自分が社会の中で役に立たない人間だと
ずっと前から確信している。
そして少しでも役に立ちたいと、会社や組織の中でもがいている。
もがいているけれど、ずっと溺れ続けている
僕は働けば働くほど、毎月10万円ほど借金が膨らんでいく
ワーキングプアを繰り返していて
そのギリギリの生活の中で、何かを見つけようともがいている。
もしも僕が、少しでも多くのお金を稼ぐことが出来たのなら、
社会の中で役に立っていると、胸を張って言えただろうか?
もしも僕が、社会の中で価値ある存在となる息子を世に送り出す事が出来たうえで死んでいったのなら、
自分の存在にも、価値があると赦すことが出来ただろうか?
そんなことは、きっと死んでしまうギリギリまでわからない。
ただ、納得して死んでいきたいというエゴがどこか僕の心の奥のほうに潜んでいるんだと思う。
多分、僕の価値観や考え方がさらに大きくねじれて歪んでいって、
一周回って人類を愛する事が出来るほど、大きな器を手に入れたのなら、
僕は自分に価値を認めたり、
あるいは価値がない人間でも生きていていいんだよ、と存在を赦す事が出来るのだろう。
でも今は、僕はその男と殆ど変わらないような圧力の世界を生きている。
ただ、生きることと価値ある人生を生きることの間には、いったいどれくらいの隔たりがあるんだろうか。
僕は多分、これからも自分に問い続けなければならない。
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